時間の中で生きる。
映画『急に具合が悪くなる』で、カップヌードルのシーンが気にかかった。
カップヌードルができあがるまでの2分半。
3分待てば、もう少し柔らかくなってしまう。
主人公は、少し硬めの麺が好きらしい。
この2分半は、普通の映画なら編集で切ってしまう時間だ。
しかし濱口竜介監督は、その2分半を、ほとんどそのまま観客に見せる。
何か劇的な事件が起きるわけではない。
ただ二人が話し、ときどき沈黙し、湯が少しずつ麺に染み込んでいく。
それだけなのに、不思議なくらい豊かな時間になる。

そのシーンを観て、私は、いま読んでいるプルーストを思い出していた。
『失われた時を求めて』で、レオニ叔母はマドレーヌを熱いハーブティーに浸す。
柔らかくなるまで待つ。
そして主人公に差し出す。
たったそれだけの動作なのに、プルーストは、その時間を書こうとする。
現代の小説なら、一行で済ませてしまうような場面だ。
しかし彼は、その「待つ時間」を削らない。
なぜなら、その時間の中に、人が生きているからだ。
私たちは、つい出来事だけを人生だと思ってしまう。
進学した。
就職した。
結婚した。
子どもができた。
病気になった。
親が倒れた。
別れた。
そうした節目だけが人生なのではない。
カップヌードルを待つ2分半。
マドレーヌをハーブティーに浸す数十秒。
そういう「何も起きていない時間」の積み重ねこそが、本当の人生なのではないか。
プルーストは、たった一口のマドレーヌから、失われた時間を取り戻す。
それは、味だけを思い出したからではない。
叔母がマドレーヌを浸し、柔らかくなるまで待ち、自分に差し出してくれた、その時間ごと身体が覚えていたのである。
記憶とは、出来事ではない。
出来事のまわりを静かに流れていた時間なのだ。
私は、濱口竜介の映画を観ながら、プルーストを思い出していた。
カップヌードルの2分半。
マドレーヌが柔らかくなるまでの時間。
どちらも、「何も起きていない時間」を信じている。
そして、その何も起きていない時間の中で、人は少しずつ変わり、誰かと時間を分かち合い、生きている。
ところで、私は、
昔は、堅めのカップヌードルが好きだった。
最近は、少しふやけた麺がおいしく感じられる。
それは、麺の好みが変わっただけではない。
私自身が、少しだけ「時間の中で生きる」ようになったのかもしれない。
……などと、プルーストっぽく考えてみる。
