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📚シリーズ未整理と断片:国家は借金を完済しないーー国債から見る財政の本当の姿

「国の借金は1000兆円を超えている。家計ならとっくに破産だ。」こんな言い方を、僕たちは何度も聞いてきた。

たしかに「借金」という言葉だけを見れば、国も家庭も同じように見える。でも、国債の仕組みを少し眺めると、このたとえには違和感が出てくる。

たとえば、政府が100万円の国債を発行し、日本の個人や銀行がそれを買ったとする。

政府から見れば100万円の負債だ。

しかし買った側から見れば、それは100万円の資産になる。

つまり、政府の負債= 誰かの資産 なのである。

ここが家計とは大きく違う。

家計の住宅ローンは、基本的にいつか完済することを前提にしている。
なぜなら、人には寿命があり、働ける期間にも限界があるからだ。

しかし国家は違う。国債は満期が来れば、新しい国債を発行して借り換える。国家財政では、「借金を全部返してゼロにする」ことよりも、借り換えを続けながら債務を維持できるかどうかが重要になる。

だから、本当に問うべきなのは、

「国の借金はいくらあるか」だけではない。

「この国は、これからも利払いを続け、国債を借り換え、市場から信用され続けることができるか」である。

その信用は、国債市場に表れる。
市場が国債を嫌えば、国債価格は下がる。すると、その安くなった価格で買う投資家から見た市場利回りは上がる。

つまり、国家への不安は、やがて金利という形で姿を現す。
もちろん、だから「国債はいくら発行しても大丈夫」という話ではない。

国債の発行が増えすぎれば、買い手を確保するために金利が上がったり、政府支出が経済の供給力を超えてインフレを招いたり、将来の通貨価値への不安から円への信認が揺らぐこともある。
さらに高い金利で借り換える国債が増えれば、政府の利払い負担も重くなっていく。国債を増やしすぎれば、金利上昇やインフレ、通貨への信認低下、利払い負担の増加につながる可能性がある。

ただ、それでも家計と国家を同じものとして扱うのは乱暴だ。

✓家計には課税権がない。

✓中央銀行もない。

✓自国通貨を発行することもできない。

そして何より、家計は「完済」を目指す存在だが、国家は「持続」を目指す存在である。

だから「国民一人あたり○○万円の借金」という表現も、そのまま受け取ると少しおかしい。
国民一人ひとりが、その金額を政府に返済するわけではない。

むしろ国内で保有されている国債なら、政府の負債の裏側に、銀行や保険会社、年金基金、個人の資産がある。

借金の総額だけを見ると、国家財政は怖く見える。

でも一歩引いて、

「誰の負債で、誰の資産なのか」

「完済すべきなのか、それとも持続可能であればよいのか」

と問い直すと、景色は少し変わる。

国家を家計簿で見る。

そのわかりやすさこそが、時にいちばん危ないのかもしれない。

📋あとがき

国債の話を考えていると、結局は「国家とは何のためにあるのか」という問いに戻ってくる。

国民国家において、生成は国民であり、構造は国家である。

本来、国家という構造は、国民の生活や意思、活動という生成を支えるためにある。ところが、財政規律やPB黒字化といった構造上の指標が自己目的化すると、いつの間にか関係が逆になる。

生成を支えるための構造だったはずが、構造を支えるために生成が動員される。

僕はこれを「転倒」と呼びたい。

そして、この転倒を防ぐために重要なのが、政治家という媒介者だと思う。

官僚は構造を管理する。財務官僚が財政規律を重視すること自体は、ある意味では職務に忠実とも言える。

しかし政治家までが、その構造の論理をそのまま国民へ伝えるだけになれば、媒介は機能しない。

政治家の役割は、国民の生活という生成を受け取り、それを制度や予算という構造へ翻訳すること。そして構造が生成を圧迫し始めたときには、条件そのものを置き直すことではないだろうか。

PB黒字化が必要か不要か。その前に問いたい。

国家財政は、誰のための構造なのか。

構造を守るために国民がいるのではない。

国民のQOL向上を支えるために国家がある。
この順序が逆になったとき、そこには「転倒」が起きている。

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