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「生きてる意味ある?(自己紹介)」




序章



人間界には、相手に向かって「生きてる意味ある?」という問いを投げかける個体が存在する。


「何のために生きてるの?」「生きてて楽しい?」といった言い回しも、同じ系列の発言として扱えられるだろう。


これは特殊な例ではなく、一定の割合で観察される言動であり、日常会話の中に紛れ込む形で現れる発話である。


本稿では、そのような問いを発する個体が何を考え、どのような心理状態から「生きてる意味ある?」と言うのかを、主に心理学的な視点から構造化して考察する。


なお、本稿は特定の誰かを攻撃する意図ではなく、この種の発言を一つの現象として扱う試みであり、それ以外の他意はない。




第1章:仮説ーこの問いはどこから来るのか


はじめに、この問いは特定の個人へ向けて投げかけられる言葉を指しており、「なぜ人は生きるのか」といった哲学的な問いとは区別される。


ここで問題にしたいのは、発話者が「相手に生きる意味を考えさせ、言語化させる」という負担について、想定していない可能性がある、という点である。

むしろ、一つの仮説としては、「生きている意味は君にはない」とわからせたい、あるいは「何か反論があるのか」と挑発したい心理状況から、この問いに至っているという理解が成り立つ。


社会心理学では、他者との比較を通じて自己評価を行う傾向について「社会的比較」と呼ぶ。


この枠組みで見ると、「生きてる意味ある?」という問いは、相手を自分より下位に位置づけるための下方比較的な発言として解釈しうる。


もちろん、すべての「生きてる意味ある?」が深刻な心理状態から出てくるわけではない。


単なる悪ノリや距離感を誤った冗談、あるいは哲学的な話題のつもりで投げたが言い方が乱暴だった、というようなケースも含まれるだろう。


本稿で扱うのは、その中でも「相手の存在全体を低く評価するニュアンス」が強く含まれる用法である。



第2章:自己紹介としての発言


そもそも、「生きる」こと自体に、あらかじめ与えられた意味があるとは限らない。

哲学における実存主義などの立場では、意味は先にあるものではなく、生きていく過程で各人が後付けで構成する性質のものだとされる。


「生きてる意味ある?」と問う人物は、多くの場合、自身の価値観、例えば「社会に役立つ」「楽しむ」「恋愛する」「家庭を持つ」「成績優秀」などを暗黙の基準にしていると推測できる。


そして、対象者についての性格や生活に関する不確かな情報を表面だけ見て、自分の価値観の範囲から外れていると判断したとき、「生きる意味がない」と結論づけている可能性がある。


このとき発話者は、「自分の価値観の枠組みから外れている存在は、意味がない」という雑なロジックによって、相手の存在全体を評価している。


それは相手を分析しているようでいて、実際には「自分はこういう基準で他人を見ています」という自己紹介に近い言語行為である。


他者について語っているように見えるが、同時に自分の価値観の輪郭を晒している自己開示でもある。


心理学的に言えば、一つの見方としては、自尊心の低さと結びついた下方比較の一形態として理解することができる。


自分より劣っているとみなした他者との比較を通じて、自己評価を維持しようとする行動である。


さらに、防衛機制の一つである「投影」として、自分の中にある無価値感や不安を、相手が持っているものとして認知している可能性もある。


この場合、「生きる意味がないのは本当は自分ではないか」という不安を、他者に貼り付けることで自我を守ろうとしているとも解釈できる。

「生きる意味ない」という言い回しの先には、相手の存在そのものを否定するニュアンスが含まれるため、発話者自身が強いストレス状態に置かれている可能性も考えられる。


むしろ、自分本来の価値観の範囲さえ極端に狭め、その範囲から外れる他者を攻撃することで、一時的にストレスを発散して自己防衛しているケースもあり得るだろう。





第3章:生きるとは何か


ここまでの仮説に基づけば、「生きてる意味あるの?」と質問する人物は、自身の価値観に当てはまらない他者に対して、それをもって存在を否定したい心理状態にある場合がある、と理解できる。


このとき、その問いは対話のための問いではなく、評価とラベリングのための言語行為になっている。


「生きる」とは、まず事実として継続している状態であり、本来は選択の条件として扱うには適さない。


生の意味を論じたいのであれば、哲学的な枠組みの中で議論する余地があり、そこで初めて「意味づけ」の是非が問題になる。

一方、「生きてる意味ある?」という雑なロジックによる自己紹介的な発言は、価値観の前提を共有しない他者に対して一方的に投げつけられる評価であり、対話として成立しにくい。


そのため、これに対して真面目に応答し、自己の生の意味を弁明し続けることは、当事者にとって消耗しやすい作業になりがちである。

構造的に見れば、問いの形式が「対話」ではなく「査定」になっている以上、そこで生産的な議論を成立させること自体が難しい。


雑なロジックによる自己紹介に対しては、必要以上に応答しようとせず、自分の側で距離を取ることを選択肢の一つとしてよいだろう。

具体的には、受け流す、話題を変える、その人との関わり方自体を見直すなど、こちらが「いちいち査定に付き合わない」態度をとることができる。



本稿を通じて、この種の問いから生じた生きづらさが、少しでも和らぐことを願う。

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