咀嚼→改名
咀嚼の文化
可美葦牙彦舅尊。
うましあしかびひこぢのみこと。
何とも有難い神様のお名前なのですが、現代人の耳で聞いていると、
「美味し、足カビ……」
などと聞こえて仕舞う。
足のカビが美味い訳が無い(笑)。
何とも罰当たりな話から始まりましたが、記紀の神々を眺めていると、僕は不思議と親しみを感じます。
怒ったり、困ったり、隠れたり、失敗したり。
神様と雖も、実に人間臭い。
僕は記紀の研究者でもなければ、それを熱く論証したい人間でもありません。
ただ、葦原中国に生まれ、日本語を話し、日本の山河から食をいただき、八百万を身近に感じながら暮らしている。
それだけで、
感謝しかないぢゃないか!
と思うのです。
そんな話をしていたら、いつの間にか料理の話になりました。
僕の中には、料理談義になると勝手に熱くなるヤツが一匹住んでいるらしい(笑)。
日本は昔から、外からやって来たものを実に巧みに自分達の文化へ取り込んできました。
仏教もそうでしょう。 漢字もそうでしょう。
食の世界なら、もっと分かりやすい。
パスタが入って来れば、醤油や海苔や大葉を使って和風パスタを作る。
反対に饂飩へニンニクと唐辛子を合わせて、
「饂飩ペペロンチーノ」
なんて物まで作って仕舞う。
グリーンピースのサンジェルマンという発想が、和食の板場へ入れば呉汁椀へ姿を変えることもある。
麻婆茄子から発想を貰えば、茄子で挽肉を挟み、揚げて、出汁の餡を掛ける。
参鶏湯もソルロンタンも、日本へ来れば日本人が食べやすい味へ少しずつ姿を変える。
天婦羅の成立にも南蛮文化との出会いがありました。
南瓜も、ジャガイモも、遡れば海の向こうからやって来た食材です。
それでも今、
「南瓜の煮物は外国料理です」
と言われたら、首を傾げる人の方が多いでしょう。
僕は、これを
咀嚼の文化
と呼びたくなりました。
外から来た物を丸呑みするのではない。
かといって、異物だからと吐き出すのでもない。
よく噛む。
味わう。
自分達に合う形へ変える。
そして血肉にする。
考えてみれば、人間が食事をすること自体がそうです。
海を泳いでいた時には、
「鯵」
という名前だった。
田畑にあった米や野菜にも、それぞれ名前があった。
ところが僕の口から入り、咀嚼され、消化され、吸収された瞬間から、それらは僕の身体になります。
乱暴な言い方をすれば、
鯵が「菅野弘一」に改名する。
米も大根も同じです。
昨日まで別の命だったものが、今日から僕の命の一部になる。
だから、
「いただきます」
なのだと思います。
文化も同じなのかも知れません。
何処から来たかを忘れる必要はない。
むしろ、その来歴を知ることは面白い。
けれど、何百年も咀嚼し続け、自分達の暮らしの中で育ててきたものなら、それはもう僕達の文化の血肉でもあります。
外来か、国産か。
そんな二択だけでは語れない。
受け取り、 咀嚼し、 自分達のものへ育て、 また次の世代へ渡してゆく。
料理も文化も、案外同じなのかも知れません。
さて。
可美葦牙彦舅尊の「足カビ」から始まった話が、何故こんな所まで来て仕舞ったのか(笑)。
僕の中に住んでいる、
料理の話になると熱くなるヤツ。
どうやら今日も元気なようです。
善き哉 善き哉。
とほかみえみため かしこ
