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💟三代で終焉した崇神王権!-大王町と崇神天皇陵との神風串呂

大王町と⛩️崇神天皇陵(行燈山古墳)の神風串呂(Google.map/縮尺約95.2万分の1)

🎀串呂哲学研究ノート 第466号

はじめに

本ブログ第464号で「神龍八幡大明神を中心とする神風串呂」は、一段落しましたので、気分転換のために「崇神天皇の神風串呂」の解明を再開したいと思います。

3世紀後半~4世紀前半

🌷崇神天皇の神風串呂を解明するに当たっては、崇神天皇は、海外から渡来してきて我が国の古代史に大きな影響を与えた一大勢力であることをしっかりと認識し、神々が構築された地文を解読するには「騎馬民族征服王朝説」や「扶余史」「騎馬民族」についての基礎知識をしっかり学ぶ必要があると思います。

葬儀や陵墓は民族の慣習・伝統を重んじるので、変化しにくいものである。第十代 崇神天皇の陵墓から大きな前方後円墳となっている。これは支配者の民族が変わったと思われる明確な証拠だ。

前方後円墳が短期間に全国に広まったのは、強力な軍隊を備えた勢力が存在した証拠である。倭国で自然発生的に生まれたとするのは不自然である。やはり海外から強力な武力を備えた異民族がやって来たと考える方が自然である。

東巌夫 著「騎馬民族がもたらした日本のことば」には、現在使用されている日本語の中に北方騎馬民族系の言語がいくつも根付いている事が明らかになっている。

🎌幸い「騎馬民族征服王朝説」については、岡山市の岡崎康民先生が、精力的に研究活動をされておられますので、さらに前進できる展望が開けて参りました。🌈🌺🍀💯💖

下記は必読推薦書です。ご一緒に学習しましょう。

🟡騎馬民族征服王朝説について(岡崎康民先生/無料記事)
🔴騎馬民族征服王朝説修正序説(岡崎康民先生、近著)

「後漢書東夷伝」から見た日本

🌷今号は、大王崎で有名な三重県志摩市大王町を起点として、崇神天皇陵(行燈山古墳)を至点とする串呂を研究して見ました。

🟡串呂起点 大王町(三重県志摩市)

大王(おおきみ)=古代天皇を表わす地文。
国内唯一の地名と思われる。
三重県の大王町です。(三串 -🔴-🔴-🔴-に相当する )

大王崎(三重県志摩市大王町)

🌷三重県志摩市大王町は、船越、波切、名田、畔名村の四地区から構成されています。

🌷串呂哲学の世界では、この大王町は、昭和31年(1956年)1月18日、三浦芳聖師が、愛知県名古屋市鳴海区の名鉄 鳴海駅のプラットフォームで、

小松天皇の符号が大和田であることを昭示する神風串呂の的確なる地点に、出来るだけ被害の無いように竜巻を起こし給え!

と祈念して神界伝法の「竜巻を起こす秘法」を厳修した所、その同時刻に

三重県志摩郡大王町波切 大王崎 東南方7キロ海上に、幅約1000m高さ400mの大竜巻が起きたことで知られている地文であります。

🔴名鉄 鳴海駅・・・文字通り、海が鳴動したのです!

🟡串呂至点 崇神天皇御陵(行燈山古墳)

行燈山古墳(あんどんやまこふん、行灯山古墳)は、奈良県天理市柳本町にある古墳。形状は前方後円墳。柳本古墳群を構成する古墳の1つ。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ、山邊道勾岡上陵)」として第10代崇神天皇の陵に治定じじょうされている。

全国では第16位の規模の古墳で、4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。(『行燈山古墳- Wikipedia』)

この行燈山古墳が崇神陵である事は、これまでの串呂の解明でほぼ間違いないと思います。

東側の後円部先端から撮影された行燈山古墳(日本・史跡ナビ)


🌷WEB地図のお蔭で詳細にわたって地文の調査ができるようになりましたので、今号は丹念に地文を拾って「崇神大王について」研究して見ました。

🟡崇神王朝以降の皇位継承は、下記の通りです。
10代、崇神天皇御肇国天皇はつくにしらすすめらみこと磯城瑞籬宮しきみずがきのみや
11代、垂仁天皇活目入彦五十狭茅天皇いくめいりびこいさちのすめらみこと纒向珠城宮まきむくのたまきのみや
12代、景行天皇大足彦忍代別天皇おおたらしひこおしろわけのすめらみこと纒向日代宮まきむくひしろのみや
・・・・・
13代、成務天皇稚足彦天皇わかたらしひこのすめらみこと志賀高穴穂宮しがたかあなほのみや

🌷第13代の成務天皇の皇居が纒向まきむくから志賀高穴穂宮しがたかあなほのみや遷都せんとされていることにつき、皇統に異変が生じたのではないかと思われるのであります。

🟡記紀は、史書ではなく8世紀の為政者による政治書ですので、この辺りの歴史について、神風串呂で探ってみようというわけであります。

崇神天皇は、ヤマト王権の初代王であり、かつ富士山麓にあった三種の神器を天照大御神の遺勅に反して桜井市に奉遷した「超問題王」でありますので、特別に標本的に明瞭に串呂地文が構築されている事は、これまで解明された串呂で明らかであります。
(時間を掛けて深掘りする価値があると言えます。)

🔴今回は、国内唯一の「大王町」を起点として、「崇神天皇陵」を至点として調査する訳ですので、どのような地文が串線するだろうかとワクワクしながら研究したのであります。

すると誠に驚いた事には、代数を表わす「三代みじろ」(島根県出雲市加茂町)をピシンと貫通していたのであります。🎌🎯💯✨💎


三代
(出雲市加茂町)-崇神天皇陵(行燈山古墳)-大王町(志摩市)

大王町と⛩️崇神天皇陵(行燈山古墳)の神風串呂(Google.map/縮尺約95.2万分の1)
大王町と崇神天皇陵(行燈山古墳)の神風串呂(Google.map/縮尺約192.3万分の1)

この崇神王朝三代終焉説を歴史学的に解説している資料があるので転載させて頂く。

崇神朝は崇神、垂仁、景行と三代続いているが、四代目の三七〇年ごろに外部勢力によって滅ぼされた。減ぼされた証拠はいくつもあるが、代表的なものは三角縁神獣鏡が副葬されなくなったことである。邪馬台国から崇神朝まで王をはじめとする権力者が亡くなると三角縁神獣鏡を副葬していたが、三七〇年ごろから三角縁神獣鏡が副葬されなくなっているのである(但し、三角縁神獣鏡以外の鏡は副葬されている)。そのころから三角縁神獣鏡に代わって甲冑の副葬が始まっている。この事実は極めて重要であるが、これまでのところ副葬されなくなった理由を明確に説明している説はない。外部勢力が侵入する直前の三六九年、倭国は朝鮮半島の加羅(伽耶ともいう)の七国を平定して新羅にも侵入しているようである。それを示唆する記事が神功四九年(三六九年)条である。現在、神功皇后の新羅征伐の話や神功皇后の実在は否定されているが、基礎となる資料はあったと考えられる。つまり、神功皇后が実在して、行動したということは考えられないが、何らかの形で倭国が加羅の七国を平定して新羅に侵攻した史実があったと考えられるのである。加羅の七国を平定して新羅に侵攻した勢力はミチュホ(後のミズホ)であったとするのが私のミチュホ仮説であり、江上氏の騎馬民族征服王朝説の修正になる部分である。ミチュホは七国を平定して新羅に侵攻した後に、三七〇年ごろ倭国に侵攻して、崇神朝を滅ぼした。三八〇年ごろまでに畿内を統一したと思われる。(後略)」
(岡崎康民 著「真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権」18頁)

🎯そのほか、海を渡ってやってきて新王朝を始めた事、ヤマト王権が終焉したあとの皇統が、河内王朝に引き継がれたであろうことを表わす地文も串線しており、串呂の的確さに驚嘆致しました。

この時代の、おおまかな皇統の変遷は、三輪王朝→河内王朝となります。
この両王朝が異質であるのは、古墳の規模で分かります。

面積比で約4倍です!

🎯海外からやって来た皇祖神「タカミムスヒ」に関する地文も串線していました!「タカミムスヒ」は、北方騎馬民族系の外来語であるようです!

日本の古代史を解明するには、「タカミムスヒ」(高御産巣日)の研究が重要であることがわかりますね!

崇神王権が北方騎馬民族系の渡来王朝である事を理解してこそ、日本古代史の真実が明らかとなるのです!

今号は、この串呂線上に串線していたおよそ50以上の関連地文の中から、約30個の地文を取り上げて考察し、串呂哲学を前進させることが出来ました!

⭕神風串呂を本格的に勉強する後継者の出現を期待しています!

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🍀ご案内

🌷初めての方は、まず下記をご覧下さい。


🔴大王町と崇神陵(行燈山古墳)との神風串呂

1、扶余についての基礎知識

🟡扶余建国神話(『夫余- Wikipedia』より転載)
論衡ろんこう吉験篇きちけんへんに次のような記述がある。「昔、北夷ほくい橐離国たくりこくがあった。国王が侍女を妊娠させてしまったので、殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王はだまされた。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水しえんすいにやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚やすっぽんが浮かび上がり、乗ることが出来た。そうして東明は夫余の地に至り、王となった」という記述がある。

また『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙しゅもうも夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。

『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁かいふるが治めていたが、のちに太陽神の解慕漱かいぼそうが天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。神話には、後に偉大な事蹟を残す人物が卵から生まれるという南方系神話に共通の卵生神話と、生まれの不遇をもった貴人が動物の助けを得て乗り越えるという貴種流離譚の共通の要素が見られる。

🍀🍀🍀🍀🍀 転載ここまで

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