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⚖️ 「正義は、行動して初めて正義になる。」

FIFA北中米ワールドカップで、アメリカ代表のフォラリン・バログンが退場処分を受けた。

ラウンド32、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦。
バログンは相手選手の足首を踏んだとして、VAR介入の末に一発退場となった。

普通に考えれば、次戦は出場停止である。
それがサッカーのルールだ。

しかし報道によれば、米国サッカー連盟の働きかけに加え、トランプ大統領がFIFAのインファンティーノ会長に直接電話で介入したという。

その結果、処分は「1年間の執行猶予」という形になり、バログンは次戦のベルギー戦に出場可能になった。

これに対して、世界中から批判の声が上がった。

政治がスポーツに介入した。
開催国が特別扱いされた。
FIFAは公平性を失った。

もちろん、そう見える。

スポーツにおいて、ルールの公平性は何より大切だ。
同じ反則をしたなら、同じ処分を受ける。
それが崩れた瞬間、競技は競技ではなくなってしまう。

ただ、ここで少し考えてみたい。

もし本当にトランプ大統領が動いたのだとすれば、彼は彼なりに「正義」を実行したとも言えるのではないか。

自国の選手が不当に扱われた。
判定が重すぎる。
次の大事な試合に出られないのはおかしい。

そう考えたから、動いた。

もちろん、その行動が正しかったかどうかは別の話だ。
批判されるべき点もあるだろう。
開催国の大統領がFIFAに働きかけたとなれば、政治介入だと言われても仕方がない。

けれど、少なくとも彼は「おかしい」と思ったことを、ただ嘆くだけでは終わらせなかった。

ここが、日本人には少し分かりにくいところなのかもしれない。

私たちはよく「正義」を語る。

それはおかしい。
それは不公平だ。
それは許されない。
スポーツに政治を持ち込むな。

その感覚自体は間違っていない。

でも、正義を語ったあとに、では何をするのか。

是正を求めるのか。
制度を変えるのか。
組織に働きかけるのか。
ルールの場に入っていくのか。

そこまで踏み込む人は、意外と少ない。

正義が、行動の出発点ではなく、感情の終着点になってしまう。

「自分は正しい側にいる」
そう思った瞬間に、そこで止まってしまう。

しかし本来、正義とは面倒なものだ。

正義を掲げるなら、責任も引き受けなければならない。
おかしいと言うなら、どう直すのかまで考えなければならない。
不公平だと言うなら、その不公平を是正するために動かなければならない。

アメリカの正義は、ときに乱暴に見える。
力のある国の正義は、ときに傲慢にも見える。

でも、彼らは少なくとも「正しいと思うなら動く」という文化を持っている。

日本人はそこに戸惑う。

「そこまでやるのか」と思う。

けれどアメリカから見れば、逆にこう見えるのかもしれない。

「正しいと思うなら、なぜ動かないのか」

今回の件で大事なのは、トランプ大統領を擁護することではない。
FIFAの判断を肯定することでもない。

むしろ、正義とは何かを考えることだ。

正義は、口にしただけでは正義にならない。
誰かを批判しただけでも正義にはならない。
自分が正しい側に立った気分になることも、正義ではない。

正義は、行動して初めて正義になる。

もちろん、行動した正義が必ず正しいとは限らない。
むしろ、力を持った正義ほど危うい。
だからこそ、制度が必要になる。
だからこそ、公平性が必要になる。
だからこそ、ルールの透明性が必要になる。

世界は、正義だけでは動かない。

正義と、行動力と、影響力。
その三つが絡み合って動いている。

今回のニュースを見て、私たちは「政治がスポーツに介入した」と怒ることはできる。

でも、そこで終わってはいけないのだと思う。

本当に公平なスポーツを望むなら、どういう制度が必要なのか。
FIFAの判断は誰が監視するのか。
開催国や大国の影響力をどう制御するのか。
選手を守る仕組みと、競技の公平性をどう両立させるのか。

そこまで考えて、初めて正義は仕事を始める。

正義は、振りかざすものではない。
正義は、誰かに任せるものでもない。

正義は、行動して初めて正義になる。





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