あの夏の日、少年の瞬間。 #疑問が学びに変わるとき
目を覚ました少年は、
寝ぼけていない。
まだ天井を見ていたけど、
頭の中に浮かぶのは「行こう」の三文字だった。
両脇の布団で眠る祖父母を起こさないよう、
彼なりに気を遣って寝所を出る。
薄暗い仏間を抜けているとき、
閉めた雨戸の隙間から光がこぼれていた。
それが確認できたから時計は見ない。
外の色が「黒」でなければ『行ける』時間だから。
勝手口のドアを開け、土で汚れたスニーカーを履く。つま先でトントンすると土が少し落ちた。

庭を歩き、納屋に停めてある自転車に跨る。
前カゴには捕まえた虫を入れるプラスチックケースと、ところどころ穴の開いた軍手。
『準備』はすでに整っている。
躊躇いなく、漕ぎ出した。
家の前の県道を横切り、細い脇道に入る。
そのまま進み、やがて景色は集落から、一面の畑へと変わる。
人や車とはすれ違わない。
セミの鳴き声と朝もやだけがあった。
目指すところは畑の奥。
人の手が入っていない森。クワガタがいるところ。
少年は知っている。
どの木にいるか。どの部分にいるか。
彼だけの秘密の木が、何本もあった。
その場所を目前にしてふと閃いた。
クワガタの木に向かわず、このまま先に進んだらどこに着くのだろう?
興味が一瞬にして未知の場所に変わった。
一度緩めたペダルを再び漕ぎはじめた。
畑道は間もなく下る傾斜に入る。
景色が変わり、木々のトンネルの中へ。
坂の途中。
暗がりの一角に祠のようなものがある。
道祖神が祀られていた。
その意味も言葉も、少年は知らない。
でも、気になった。
自転車を止めた。

視線は、道祖神のすぐ脇にある轍へ移る。
舗装されていない、荒れた道。
この先が知りたい。だけど──。
少しの怖さが彼を迷わせる。
勇気なんてない。
好奇心だけがあった。
轍に入ると、タイヤの音が土や落ち葉を踏む音に変わった。
段差で身体と自転車が揺れる。
速度が落ちて、立ちこぎに変えた。
左右は背丈よりも高い草木で、アーチのようになっていた。
湿気と疲れで、首筋に汗が伝った。
未知への好奇心に胸が高鳴っていた。
どのくらい進んだのか。
急に、視界の先に何かの影。
……動いている。
生き物だった。

──鳥。
カルガモの親子だった。
よちよちと轍を横断するカルガモたち。
初めて見るそれに目を奪われていた。
カモ? アヒル?
──本当に親の後ろを付いて歩くんだ。
山なのに? 川の動物じゃないの?
驚きと発見と疑問で、
わぁ、と声が漏れた。
すごく面白い……。
顔が綻ぶ。
もっと見たい。
知らない場所にあるものを。
視界からカルガモの親子はいなくなり、再び進む。
心なしか、道の険しさが増していく。
ついにけもの道すらなくなり、終点に到着した。
自転車を降りた。
日が差して来る方を見た。
伸び放題の草むらの先に、更に高い木が見えた。
一本の、立派な広葉樹。
少年は経験から思う。
あれはクワガタのいる木だと。
直感した。
これは僕だけの場所だと。
木の元へ進もうと、草を手で分けた。
一歩目を踏み入れた瞬間。
がさっという音のあと。
草むらから一斉に、何かが羽ばたいた。
それは──
蝶。
一瞬にして無数の、
暁の光を浴びた蝶が空に舞った。
少年はただ呆然と、
キラキラと世界に揺れるそれを見ていた。

その光景は、
ずっと記憶に残ると、子供ながらに確信していた。
すべての蝶がいなくなって、木に向かう気持ちがなくなっていた。
一歩目で、地面が泥濘んでいることがわかったから。
心のどこかで、聖域と感じたから。
木から目を離す。
自転車を引いて歩き出した。
来た道を戻る。
その道中で、行きには見えていなかったものが見えた。
草むらの間から見える民家。
小さな畑。
停まっている軽トラック。
現実がそこにあった。
僕だけの場所に続く秘密の抜け道の正体は、
この集落に住む誰かの私道だった。
入り口の祠に戻っていた。
夢から覚めた後のように息をついた。
夏の日の、小さな大冒険が終わった。
傍らに目を落とすと、道祖神の元に、お菓子と線香が供えられていることに気付く。
ゆらゆらと立ち上る煙と匂いで、
自然と手を合わせていた。
そのとき、何と思ったのか。
「ごめんなさい、もう来ません」
なのか、
「楽しかったです」
なのか。
覚えていない。
それから、再び蝶の木に行くことはなかった。
なぜ行かない場所になったのか。
理由は……。
それも思い出せません。
こうして振り返ってみると、
あの日の好奇心の終点には、ご褒美のような光景が待っていました。
でも例えば、途中で誰かに止められていたら?
私有地に勝手に入ったことを注意されたら?
そこには着けなかった。
苦い思い出になっていたのかもしれません。
好奇心を恨むことになっていたのかもしれません。
たどり着けたのは、
偶然か奇跡か、引き寄せられたのか。
可能性はいくらでもあります。
では、時代も状況も何もかも変わった今の私は、
好奇心に従って踏み出せるのか。
それとも、
分別ある大人として今日を守るのか。
あの煌めく瞬間に会えるのなら──
私が選ぶのは。

夏の日の少年だった瞬間を。
もう一度。

