大切なものまで「質屋」に入れていないか。私たちが陥るお金の錯覚
先日読んだ本の中に、「人はお金に価値を感じすぎている」という一節がありました。
資本主義の社会において、私たちが自分のスキルや時間、あるいは健康を差し出し、その対価としてお金という「価値」を交換するのは、ごく自然なことです。
綺麗事を言うつもりはありません。これまで私が過酷な環境でも必死に働き、マネジメントという責任あるポジションを志した理由の中に、金銭的な動機がなかったと言えば嘘になります。
努力して正当な報酬を得る。それは素晴らしいことです。 しかし、時としてその「交換」が行き過ぎてしまうと、私たちは気づかないうちに、人生において本当に大切なものまで「質屋」に入れてしまうことになります。
何を差し出して、お金を得ているのか
仕事にのめり込むあまり、心身のバランスを崩してしまう。 休日の時間まで仕事の連絡に追われ、目の前にいる家族との会話上の空になってしまう。
これらはすべて、無意識のうちに「自分の健康」や「子どもと過ごすかけがえのない時間」を質屋に入れ、お金や地位という価値に換金しようとしている状態です。
一時的にお金は手に入るかもしれません。しかし、質屋に入れた大切なものは、時間が経てば経つほど利子が膨らみ、やがて二度と買い戻せなくなってしまいます。 私たちは、自分が「何を差し出してそのお金を得ているのか」という見極めを、常に意識しなければなりません。
「お金に変えられないもの」という言葉の罠
別の本を読んでいた時、著者が「お金に変えられないもの」という表現に対する違和感を指摘していました。
言われてハッとしました。 「お金に変えられないものもある」という言い回しは、裏を返せば「世の中のほとんどのものはお金に変えられる(=変えられないものはごく一部の例外である)」という前提に立っています。
もしかすると、この無意識の前提こそが、現代の私たちが陥っている錯覚の正体なのかもしれません。 「基本的にはすべてお金に換算できるはずだ」と思い込んでいるからこそ、私たちは少しでも迷うと、自分の時間も、感情も、人間関係も、すべてを差し出して換金しようとしてしまうのではないでしょうか。
価値のグラデーションを取り戻す
誤解してほしくないのですが、「お金は汚いものだから稼ぐのをやめよう」と言いたいわけではありません。 プロフェッショナルとして質の高い仕事をし、それに見合った報酬を得ることは、資本主義における健全な誇りです。
ただ、私たちの人生には、そもそも「換金所の窓口に持っていくべきではないもの」がたくさん存在します。
仕事で成果を出し、しっかり稼ぐ自分。 一方で、絶対に質屋には入れない「自分だけの聖域」を静かに守り抜く自分。
その線引きを持つことこそが、これからの時代を健やかに、そしてしなやかに働き続けるための、一番の防具になるのだと思います。
お知らせ
私は現在、リゾートの現場で約150人のチームのマネジメントをしながら、今年12月の独立に向けて準備を進めています。独立後は、マネジメント経験を活かしたキャリア・働き方の個別相談を始める予定です。チームづくりや、仕事と人生のバランスに悩んでいる方は、ぜひフォローしてお待ちください。
