文学者失格
今日も何かと思いつきで書いた。
いや、そうでもないのだろうか。
この記事はこの記事で何か内容があるのだと思いたい。
文学者とは
今さらではあるのだが、自分は現時点では文学者失格だろう。
まず、文学で金を稼いでいない。
そして、文学の研究をしているわけでもない。
書くにしても研究するにしても、それで生活しているのならばまず立派な文学者だ。
ただ、今ChatGPTに確認したら、これらに加えて死んでから評価された人も文学者である、という認識が加わった。
ただ、自分には実際それは難しいのではないだろうかとも思っている。
信念
死んでから評価される人は、生きているうちに何らかの信念を持って書いていなければいけないのではないだろうか。
そういう確信がないといけないということだ。
自分の場合、わりと場当たり的に書き散らかしている印象がある。
根本的に一つのことを執念深く掘り下げたりしているわけではない。
つまり、適当にその時に思いついたことを書いている。
そんな記事が、死んでから評価されるということがあるのだろうか。
ある意味ここで重要なことは、言っていることを変えないことだ。
一貫性について
noteに記事を書くことだけならばわりと簡単なことだ。
思ったことを書けばそれで成立する。
しかし、その人が信念とか哲学を貫くということはそう簡単にできることではないだろう。
主張に一貫性があるというのは難しいのである。
かくいう自分は、時々言っていることが変わっていないだろうか。
つまり、死んでから評価されたいのならば、自分の主張を変えない必要があるのではないだろうか。
第三の道
なので自分に今分かっていることはまず、自分は文章を書いて稼いでいる人ではないし、文学の研究をしている人でもないということだ。
そうなると、この第三の道に当てはまるのかということが問題になってくることになる。
つまり、自分は死んでから評価されないのならば、もはや文学者ではないのではないだろうか。
実際、その可能性はどの程度あるのだろうか。
死ぬまでに
ある意味、第三の道は最終的に最も困難な選択肢が残ったということになるのだろう。
第三の道とは、つまり言っていることを変えないことである。
すでに結果を出している職業文学者や、職業文学研究者はいいけど、そうではない人には第三の道しかない。
自分はひとまずそれを発見したが、死ぬまでにそんな大層な記事を残せるのだろうか。
実際、難しいとは思う。
と、主張に一貫性がない自分は思うのだ。
