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罷免

自分の意思ではなく、退けと言われる現実が、この社会には確かに存在している。
それを私たちは罷免と呼ぶ。
ただ、実際にはその言葉は使われず、
懲戒免職、処分、責任問題、あるいはやむを得ない判断など、さまざまな言い換えで覆い隠されることが多い。

最近、そうした事例を耳にする機会が増えた気がする。言い方を変えれば、でっちあげや冤罪と呼べるものも、正式な手続きの名のもとに進んでいく。

結局のところ、共通しているのはただ一つ。
本人の意思ではないということだ。
ふと、恐ろしい想像をしたことがある。

妄想の中で。

ある組織の中に、一人の人間がいるとする。
ここではAとしよう。
Aは努力家で、誠実で、真っ当に生きてきた人間だ。
結果も出し、仕事ぶりも評価されている。

一方で、そんなAに嫉妬した人間や、
金や立場を目的に嵌めてやろうと企む人間Bが現れる。
皮肉なことに、Bは人望が厚く、周囲からの信頼も厚い人物だったとする。

もし、そんなBが
Aについての悪い噂を流し、
事実ではない犯罪をもっともらしく仕立て上げたら、その先に待つのはどんな現実だろうか。
国や制度によって罪の重さは違うかもしれない。
だが一度疑いをかけられれば、
事実がないことを証明するのは、事実を作るよりもずっと難しい。


最後に。

たった一言。たった一つの言動。
それだけで、一生を取り戻せなくなることは、本当にないと言い切れるだろうか。
どれだけ真っ当に生きていても、
誰に道を外されるかはわからない。
そして、自分でも気づかないうちに、
踏み外したことにされてしまうこともある。
もしそれを運命という一言で片付けてしまうのなら、努力も、誠実さも、積み重ねてきた時間も、すべてが偶然の前では無力だということになる。

だが本当にそうだろうか。
誰かの悪意や保身、
組織の都合や空気によって歪められた結果を、
仕方がなかった、そういう星の下に生まれたと呼んでしまえば、
そこに加担した人間の責任は、どこへ消えるのか。
罷免とは、単に職を奪われることではない。
信用を失い、居場所を失い、
これまで築いてきた人生の文脈ごと断ち切られる行為だ。
それが事実ではなかったとしても、
一度貼られたレッテルは簡単には剥がれない。
沈黙は同意と受け取られ、
弁明は言い訳だと切り捨てられる。
だからこそ、恐ろしい。
どれだけ正しく生きてきたかよりも、
誰が語ったか、誰が信じられたかが、
真実を決めてしまう瞬間が、確かに存在するからだ。
明日、それが自分に起きない保証はない。
だからこの話は、誰か遠くの不幸ではなく、
静かに隣に立っている現実なのだと思う。

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