西安(1) 兵馬俑・イスラム街
2025年12月12日(金)
上海へ移住してはじめて国内線に乗りました。
行き先は西安です。

西安というより、かつての長安、と言ったほうがわくわくします。
秦、漢、隋、唐など13の王朝がこの地に都を置いた、古代の要。
シルクロードの玄関口にあり、国際都市として栄えました。
日本からも遣唐使が派遣され、吉備真備、山上憶良、阿倍仲麻呂、空海らが留学したのは周知の通り。
碁盤の目のように整えられた平城京、平安京の都市設計は、長安を模したと言われています。

「長安城復元図」
【ちょこっと歴史】
長安の歴史は、漢の初代皇帝・劉邦が、紀元前200年に都城の建設を始めたことに始まります。
五胡十六国時代には、インドから来た鳩摩羅什(くまらじゅう。最初の三蔵法師)が長安で仏典を漢訳し、仏教文化の中心地となりました。
※「三蔵法師」は、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、一般名詞です。日本では『西遊記』の玄奘が特に有名。
そのため西安には仏教文化の遺跡が数多く残されています。
唐の滅亡(907年)によって、その繁栄は終わりますが、中国内陸部の地方都市として発展し、明代に「西安」と改名されました。
ところで、奈良と西安は友好都市関係を結んでいます。
締結5周年の1979年には、西安の興慶宮公園に阿倍仲麻呂の記念碑が建てられました。
阿倍仲麻呂は、詩人の李白や王維とも仲が良く、碑の側面には李白が仲麻呂を悼む詩「哭晁卿衡」が彫られています。
【ちょこっと阿倍仲麻呂】
阿倍仲麻呂(698−770)は長安で35年間生活しました。
百人一首「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、彼が故郷を懐かしんで読んだ歌です。
高級官僚となり(現地人でも難しい科挙に合格するってすごい)、玄宗皇帝に見込まれ、なかなか帰国を許されなかったのですが、やっと帰国できることになったとき、船が遭難してしまいました。
李白が「哭晁卿衡」を詠んだのは、このときです。
しかしその2年後に、阿倍仲麻呂は、遭難から助かって長安に戻ってきたのでした。
結局彼は日本の地を踏むことはできず、長安で73歳のとき亡くなりました。
哭晁卿衡 李白
日本晁卿辞帝都
征帆一片遶蓬壺
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧
※「晁卿」 晁は阿部仲麻呂の中国名。卿は役職
※「蒼梧」 中国神話に登場する君主、五帝の一人である舜が葬られた場所
popo訳でどうぞ。
日本の詩人、阿倍仲麻呂が唐を出発した
ひとりぼっちで蓬莱島あたりをさまよっている
明るい月のようなあいつは青い海に沈んでしまって、二度と戻ってこない
白い雲まで悲しんで、蒼梧を覆っている。
兵馬俑博物館
西安といえばまず、ここ。
長安から渭河を挟んだお隣、かつての秦の首都咸陽にあります。

約2200年前に埋葬された秦の始皇帝の副葬品、兵馬俑を展示している博物館です。
発掘したその場所を公開する「現地公開」。
1987年、世界遺産に登録されました。
1974年、井戸を掘っていた村人がたまたま発見しました。
大功労者だと思うのですが、彼が中国政府から手渡された金額は数千円だけだったとか。

一号坑、二号坑、三号坑まであります。
よくメディアに出てくるのは一番広い一号坑で14,260平米もの広さがあります

前方にいる3列が先鋒です
兵馬俑の発見によって、当時の軍隊の編成や武器、防具などの様子がわかるようになりました。
手が輪っかを作っているのは武器を持っていたからです。

顔は写実的で、同じ顔はありません。
鎧の金具まで細かく作られています。
髪型によって、身分がわかるそうです。

髪型といえば。
あやのん先輩のこの記事。
ゆで卵を作ったとき、殻から白身が出てしまったそうです。
私にも経験あるある。

このゆで卵がご主人にそっくりなんですって。

そしてさらに、兵馬俑の髪型に似ているとおっしゃるの。
笑ったわー。

その昔は殉死制度がありました。
人間に代わって陶製の人形を殉死品としたことは、人類文明の進歩といえるかもしれません。
とはいえ、墓の建設に関わった技術者たちは、全員埋められたとか(史記に書いてあるらしいですが、史記を全部読んでいないので確かめていません)
兵馬俑、すごいなあと思うけれど、権力者の権力誇示。
歴史的文化財の多くがそうだけど。
始皇帝は現在中国のデフォルトを築き、商業などの発展に貢献しましたが、一方でその暴君ぶりでも有名です。
その1つが焚書坑儒。
焚書は書を燃やすこと、坑儒は儒学者を坑(穴)に生き埋めにするという意味。
始皇帝だけがやったわけじゃないですけど。

『焚書坑儒』
公開展示の横には、屋内展示会場もありました。

ゆで卵ヘアの後ろは、こんなふうになっていました。

兵馬俑の制作予想図。
労働者の多くは犯罪者でしたが、人手が足りないため、地元の農民も駆り出されたそうです。そのため不満が募ったのは想像に難くありません。

帰る頃には日が暮れていました。
出口へ向かう途中には、びゃんびゃん麺のお店がいっぱい。
びゃんびゃん麺、書けますか〜?
私は書けません。

タクシーに乗って(約40kmで120元。高速道路込みで日本円で2400円くらいでした)
西安鐘楼へ。
建築されたのは明時代の1384年。
高さは36メートル、横幅は35.5メートル。
もともとは時刻を告げたり、お知らせをしたりする鐘楼でしたが、大きくて目立つことから西安のシンボルとなり、戦い蜂起の場所となったり、祝賀行事の舞台となったりしました。

その後、徒歩で
イスラム教徒地区(回民街)へ。
唐の時代(618-907年)、シルクロードを通って、小麦や麺をはじめ、様々な食文化が伝わってきました。
そのシルクロードで大きな役割を果たしたのが、アラブやペルシャの商人であるイスラム人(回民)。
彼らが定住したのが、この街の発端です。
今も約2万人のイスラム教徒が住んでいて、イスラムの宗教伝統と生活習慣が受け継がれているそうです。
もっとも、現在は西安随一のB級グルメ街になっており、ここで店を出している人たちすべてがイスラム教徒だというわけではありません。

ジュース屋さん

なんだろう、これ、パン?

どれだけ辛いんだろう。

西安は干し柿でも有名。

イスラム食の1つ、肉夹馍かなと思って買ってみたけど、ちがうかも。

ヒルトンホテルに一泊。
翌日は「中国最大の石造の書庫」と呼ばれる、書道家たちの聖地、碑林博物館へ行きました。
2000字を大幅に越えてしまったので、いずれ機会があればまた。

※日本語の参考文献が手に入らないため、ネット情報(中国版および日本版で、引用文献が明記されているもの)と、現地パンフレット(中国語)と、自分の知識(怪しい)で書いています。
もし間違えがあったら教えて下さい。
