【掌編小説】『その正論、取扱注意につき』#2
第2章:正論の切れ味と、忖度の境界線
他のスタッフたちが足早にリハビリ室へ戻っていく中、
後輩は荷物も片付けず、僕の前に仁王立ちしていた。
「先輩。なんで黙ってたんですか」
会議中のジト目とは違う。
今度は、真っ直ぐで鋭い視線が僕を射抜く。
「あんなの、どう考えたっておかしいじゃないですか。業務量を減らしもしないで『自己研鑽だから残業にするな』なんて、現場にタダ働きしろって言ってるようなものですよ。やりがい搾取の悪魔です。先輩だってなんか思ってるくせに、なんであの場で一言も援護してくれないんですか」
僕は手帳をポケットにしまいながら、低く息を吐き出した。
「お前の言っていることは正しいよ。間違っちゃいない」
「だったら――」
「でもな、その言い方じゃ組織は一ミリも動かない」
後輩の眉がつり上がる。
「じゃあ、正しいことを言ったらダメなんですか?」
「ダメとは言ってない」
「でも、結局言い方を変えろってことですよね?」
「そうだ」
「それって、上司に気を遣っているだけじゃないですか。ただの忖度です」
ぐさりと、容赦のない言葉が突き刺さる。
僕は腕を組んで、背もたれにもたれながら宙を見る。
「……似ているようで、違う」
「何が違うんですか」
「お前があの場で主任にぶつけたのは、『あなたの管理方法は破綻している』という全否定だ。上司だって生身の人間なんだよ。全体の前で自分のやってきた運用を真っ向から否定されたら、組織を守るためにも、自分の立場を守るためにも、防衛本能でガードを固めるに決まってるだろ。『個人の工夫で』なんて的外れな返しが飛んできたのは、主任がお前の言葉を『意見』じゃなく『攻撃』として受け取ったからだ」
後輩は納得のいかない顔で腕を組んだ。
「じゃあ、文句も言わずに我慢しろって言うんですか」
「違う。否定じゃなくて、提案をするんだ」
僕はポケットの手帳を再度取り出し、ペンを走らせた。
「患者さんを良くするとき、いきなり『あなたの歩き方は全部ダメです』って全否定するか? しないだろ。評価して、仮説を立てて、まずは小さな介入を試して、再評価するはずだ。組織も同じだよ。いきなり『自己研鑽を残業扱いにしろ』って看板を掲げても、通るわけがない。管理職が欲しいのは、精神論じゃなくて数字と結果だ」
「……小さな、介入?」
「例えば、まずは残業そのものを減らすための『小さな実験』をこちらから持ちかけるんだ。学会の準備や勉強会の資料作成を、勤務時間内の決まった30分だけで集中的に行う枠を試験的に作る。その代わり、無駄になっているカンファレンスの書類フォーマットを簡略化してその30分を捻出する。それを2週間試して、残業時間と業務効率がどう変化したか、記録してデータにするんだよ」
感情ではなく、データ。
思想ではなく、検証可能なプロトタイプ。
後輩の瞳に、わずかな動揺が走る。
「……否定じゃなくて、実験と提案」
「そうだ。相手を論破して従わせるんじゃない。『これならリスクなく試せますよ』って、選べる材料をこっちから出すんだよ。それで実際に結果を出す。それが、下から組織を動かすってことだ」
僕は、これで話は終わったと思った。
正論には、正論で返した。
しかも今回は、かなり完璧に。
その直後だった。
「……先輩」
「なんだ」
「じゃあ、さっき会議で先輩が黙ってたのは、その完璧な作戦のためだったんですか?」
「……まあな。感情的に騒いでも意味がないから、タイミングを測ってたんだ」
後輩は間髪を容れずに言い放った。
「嘘です」
「……」
「先輩、ただ怖かっただけですよね。波風立てて、面倒なやつだって思われたくなかっただけじゃないですか」
言葉が喉に張り付いた。
返す言葉が、出てこない。
さっきまで僕が得意げに並べていた正論が、自分自身に向けられた瞬間、急に薄っぺらく見えた。
(続)
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