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【ナポレオンを裏切った男】 マルモン元帥について 【パリ市民に発砲した男】

目次

 マルモンの回想録を長々と翻訳する前に言いたいこと。


略歴

ナポレオンの配下として


 マルモン元帥は、ナポレオン・ボナパルトが初めて名を挙げたトゥーロン攻囲戦からの腹心の部下で、ナポレオンが逮捕された時には脱走計画を立てたり、オスマン帝国への派遣武官が検討された時には副官として任命をされており、その後のイタリア遠征、エジプト遠征でもナポレオンの配下として活躍しました。
 特にカスティリオーネの戦いでマルモンの部隊が行った中央突破、敵軍分断は後のアウステルリッツ、フリートラント、バウツェンなどの戦いでしばしば用いられ、ナポレオンの戦術の骨格を成していきます。

 ブリュメール18日のクーデターにも参加しナポレオンの政権奪取に貢献、1806年にラグーザ共和国を征服してからは現地の総督として行政・軍事を担当し、その功績(特に行政)から1809年には元帥となります。   

一転

 しかし輝かしい経歴はここまでで、1811年以降半島戦争で指揮を執ると、1812年のサラマンカの戦いで戦闘の序盤に腕を負傷して指揮不能となったことで大敗を喫し、その勢いでマドリードを失陥するなど、以降フランスはスペインでの敗色が濃くなっていきます。マルモン自身はその後敗戦の責任を取らされてスペイン方面の指揮権を取り上げられますが、ロシア遠征でフランス軍は多くの指揮官を失ったため処分するどころではなく、ドイツ方面に配置転換となります。この時寝たきりの重傷から回復しても腕は不自由なままだったとされています。

 第6軍団を任されてドイツ戦役で戦いますがライプツィヒの戦いでは一日中戦い抜いて側近の幕僚が数名死傷した挙句、ナポレオンの命令で橋に仕掛けた地雷が、退却中に誤って爆発したことによりマルモンの第6軍団の多くが取り残され捕虜となります。

パリ開城とエソンヌの裏切り

 1814年のフランス戦役では13万の連合軍がパリに迫る中、残りの第6軍団を率いてパリに駆けつけ、連合軍を3万3千人で迎え撃ちましたがパリ司令官ジョゼフ・ボナパルトが早々に指揮権を放り出して逃げ出すなど混乱もあり、午前から夕方まで戦闘し城壁まで迫られたところで休戦協定を結んでパリ開城を決定し、マルモンはエソンヌに司令部を移します。

 この頃、タレーランを首班とする臨時政府がパリには発足しマルモンはナポレオンを裏切ってほしいとオファーを受け、「皇帝の安全と自由を保証する」ことを条件にノルマンディーに軍を動かそうとしていました。しかし、オファー直後のタイミングでマルモンの下にナポレオンの退位とその条件を詰める交渉団と接触し、裏切る必要がなさそうなことがわかると、部下に「軍を動かすな」として交渉団と共にその場を離れます。
 その後、マルモンも含めた交渉団の元に第6軍団が連合軍の元に奔ったという報せが届きます。指揮系統の混乱のさなか、陰謀がバレたと勘違いした部下が軍を連れて連合軍に降ったのです。それを聞いたマルモンは「顔は青ざめ明らかに動揺」(マクドナル元帥)、「顔色が悪くほとんど話せなかった」(コランクール馬事総監)とされています。

 配下の軍団がロシア軍に合流してしまったことで、ナポレオンは退位条件の交渉材料を奪われて無条件退位に従わざるを得なくなり、交渉団が目指していたナポレオン2世への世代交代も夢と散ります。これはエソンヌの裏切りとも呼ばれ、生涯、いや200余年経過した現在もマルモンの名誉を汚しています。20世紀初頭までは「raguser」(ラグーザする)という語が裏切るという意味のスラングであったという説もあるほどです。(あくまで説、おそらく誇張あり)
 しかしこの裏切りはフランスを臨時政府と帝国政府という2つの勢力の衝突による破局から守るためでもあり、これだけで非難されるべきではありません。第6軍団が離反したことで臨時政府の軍掌握がスムーズに進んだのも事実です。

七月革命

 しかし、その後の人生でフランスを守ったという事実すらも霞む出来事が起きます。七月革命ではパリ総督として鎮圧を指揮しました。この時鎮圧部隊は市民に対して発砲をしており、仕事とはいえ発砲を指示した張本人と市民からは捉えられました。
 配下の鎮圧部隊としても、他国の軍を撃つならいざ知らず、革命と帝政を経て国民国家としての意識が芽生えた当時では同胞のフランス人を撃つことに抵抗もあったのでしょう。それに自由選挙の制限や出版の自由の制限などの悪政が原因での抗議活動であったため、市民の怒りは当然でした。結果、鎮圧部隊からは脱走やサボタージュ、反乱が起こってしまい、最終的に鎮圧しきれなくなり国王を亡命させることを決心します。
 国王と僅かに残った兵でパリから逃げますが、本人はフランスに残るつもりだったようです。しかし、国王よりもマルモンの首が優先と革命軍が喧伝しているのを知り、亡命を決意します。
 かつてフランスを破局から守った男は、フランス人に銃口を向けた祖国の裏切り者となったのです。

七月革命の有名な絵(民衆を導く自由の女神)

その後

 その後はナポレオン2世に対してナポレオンの講義をするなどハイライトもありますが、大筋に見ればナポレオンを裏切ったことで名誉を失い、革命の鎮圧の失敗をしたことで地位をも失うという晩年を送ることとなります。
 フランスにも戻ろうとフランス政府に請願しますが、ことごとく却下されて終生フランスには戻れず仕舞いでした。
 最晩年を過ごしたヴェネツィアでは、「ナポレオンを裏切った男」と現地の子どもたちから後ろ指を指されたとか。
 財産についても甜菜工場への投資に失敗するなど資金繰りに苦労していたようで、名のある人物にしては裕福とは言えない暮らしだったようです。甜菜への投資奨励はナポレオンが起点なのは何かの因果でしょう。

回想録について


 フランスで第二帝政が始まる半年前にマルモンは亡くなりますが、その長い生涯で彼は回想録を執筆しています。

問題点

 回想録の初めの方は七月革命以前に書かれたもので余裕が見られますが、ある時点で七月革命後に書かれた回想録となり、後悔や自己弁護、責任転嫁が目立つ箇所もあります。また、マルモン自身微妙に捻くれているところもあり一部元帥や将軍への罵倒・嘲笑・誹謗中傷のようなものも見られたり、当時の価値観らしく治めていた西欧以外の地域やナポレオンの出身地のコルシカ人を「野蛮人」として見下している箇所も多分にあります。
 (※ナポレオンは低身長よりもコルシカ人である事がコンプレックスだったようで自身を当時コルシカ総督をしていたフランス人の私生児だと仄めかしていたりもします。皇帝の最も触れられたくない出身という問題について、「野蛮人」がどうと言ってしまっているので当時の価値観がどうとかの問題ではないかもしれません…)
 その他回想録の多分に漏れず、誇張した記載も見られ、疑いつつ読むべき回想録となっています。

当時の反応

 マルモンが死亡した直後に出版が予告され、ボナパルティストをはじめとした第一帝政を懐かしむ人や政変や裏切りの真相を知りたい人からは待望の書籍となりました。
 しかし出版後は前述したように責任転嫁やナポレオンへの批判などが書かれている点から非難轟々で、新聞記事やパンフレット、書籍が回想録を批判しています。特に1814年フランス戦役においてマルモンが「戦犯」で「反逆罪」にあたるとしたウジェーヌ・ド・ボアルネの子孫は出版社に訴訟を起こし、出版社はボアルネ家側の反論を掲載をする事態にまで発展しています。
 当時は第二帝政下であったこともありますが、訴訟問題になったり論評が多く発表されるなど当時としても大した問題作だったのが分かります。
 

それでも貴重なんだ

 しかし、それを差し引いてもナポレオンの戦友として他にはない記載優れた砲兵将校が書いた詳細かつ分かりやすい戦場の記録、そしてブリュメール18日や1814年フランス戦役、七月革命といった多くの政変で当事者となった人物の記録は唯一無二とも言えるものです。
 また、ナポレオンに従って多くの土地を見たことで、簡潔ながらエジプトやクロアチアなどの地誌も回想録内に含めて記録しています。川口浩探検隊も訪れた湖もちゃんと記録しています。
 七月革命以降のマルモンは本当に暇だったようでかなりの長編(全9巻)となります。翻訳には時間がかかるとは思います。ストックはありますが尽きたら牛歩になります。
(2026年1月11日現在、翻訳のストックが4巻途中(第15章、サラマンカの戦い直前))


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