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あの日の不自然に大きな陰――私が気づいた図書館の秘密            (約2,500字 4分10秒~6分15秒)

#図書館
#ぼっち医の備忘録

 小学生のとき、古い図書館の近くに住んでいたことがある。

 街のはずれの川のほとり、大正浪漫の薫る三階建て。

 生い茂る雑草から森に戻りかけていた寂れた公園の片隅で、「瀟洒な建築」なんて称号ごと、蔦に飲み込まれかけていた。

 

 けれど、一歩、足を踏み入れてみれば、その、床から壁から天井近くまでを埋め尽くす、無限にひしめく本たちの世界は――完全に私を飲み込んだ。 

 深くて静かな世界の凄み。

 小さな私の溜め息なんか、整然と取り囲む無数の本に吸いこまれ、年季の入った圧巻の静寂には、わずかな波紋すら残らなかった。

 受付で名前と住所を書くだけで貰える、小さな厚紙。

 それさえあれば入館も、読書もすべて自由、おまけに無料だなんて。

 当時の私にとって、それは最高のパスポートだった。

 二階と三階の窓は、開け放たれていた。

 川面を渡って来る風か、隣の公園と神社の森を抜ける風か。

 たいてい、どちらかが暑い夏をさわやかに流してくれていた。

 クーラーなんて、どの家にもなかった時代。

 夏休みの炎天下、わざわざ図書館まで行く価値は、それだけで十分にあった。

 

 そんな時代、夏の終わりになると街をあげて地震の避難訓練が行われた。

 南海トラフなんて言葉は聞いたことがなかった。

 みんな、南海地震とか東海地震とか言っていた。

 

 小さな私は、もうすぐ大地震が来る、と信じた。

 きっと古びた図書館なんか、ひとたまりもない。

 今のうちに面白そうな本は全部読まなければと。

 ――ひそかに、焦っていた。

 

 ページの右上から左下へ、斜めに目線を動かす。

 完璧ではないけれど、おおまかな流れは掴める。

 自己流の速読術を駆使し始めてからは速かった。

 子ども向けの二階を、隅々まで読み尽くした私。

 ――意気揚々と三階へ進んだ。

 ところが三階の椅子は余りに大きすぎた。

 机も高過ぎて、座って読むには無理があった。

 本の中身も漢字だらけ。

 見たこともない言葉や専門用語ばかりで、我流の速読術なんか、まるで通用しなかった。

 地図や歴史書は多少読めたけれど、とにかく一冊一冊が、どれも重い。
 小さな私には借りて帰るのは骨が折れた。

 机は高いし、速くは読めない。
 おまけに重くて運びにくい――

 悩んだ末に、私は決めた。

 晴れて気持ちのよい日に借りて、すぐ隣の公園のベンチでページをめくろう。

 でも、木の下のベンチには、いろいろなものが落ちてくる。
 小鳥のフンやセミのおしっこで借りた本を汚すわけにはいかない。

 草むらからヘビが出てこようものなら、驚愕して本を放り投げる確信すらあった。

 さまよい抜いた末に見つけた特等席は、図書館の外壁脇にポツンと置き忘れられたような、古びたベンチだった。

 小さな私が座っただけで、ギィと軋む。

 公園や神社に人が来ても、ここだけは先客が居たことはなかった。

 そびえ立つ図書館の日陰にいつもホッとした。

 

 …そびえ立つ図書館の日陰? 

 あれ? 図書館って、ここまで大きかったっけ?
 二階と、三階…

 …じゃあ、ここの日陰は、図書館のどこの影?

 自分が完璧に把握しているつもりだった構造からは説明がつかない「大きな日陰」の中にいることに、私は唐突に気がついた。

 館内に戻り、探してみると、開架書庫の隅に小さな階段を見つけた。

 階段の先には鉄製の扉があり、それは、そっと開いたままになっていた。

 扉にも壁にも、案内は何ひとつ書かれていない。

 中は、薄暗く、大人なら頭がつきそうなくらい天井の低い、けれど、奥の突き当りまで見えないほど、異様なまでに広い書庫だった。

 ずらっと何列にもわたる本棚。
 本棚の間の通路は、子どもがやっと通れるくらいの幅しかなかった。

 そこにびっしり並んだ無数の本たちが、出番を待っていたかのように、いっせいに私を横目で見てきた――気がした。 

 突き当たりには明かり採りのような小さな窓があり、いつものベンチと、そよ風に揺れている木々が見えた。

 三階建てにしか見えなかったのに、秘密の階が隠されていた。

 漏れ入る光にぼんやり浮かぶ背表紙たちは、驚くほど多岐にわたる分野を網羅していた。

 仄暗い部屋で、無数の本たちに囲まれていると、匂いに当てられたのか急に…催してきた。
 足早に御手洗いへ駆け込み、戻ってくると、ちょうど明かり採りの横に可愛らしい梯子のような踏み台を見つけた。

 腰掛けてみた。

 それは私にぴったりのサイズで、背もたれと足置きまでついた、まるで専用の椅子のようだった。 
 しかも、手を伸ばした先の本を広げてみると、梯子の横の棒がちょうど肘掛けのように当たった。

うん、やっぱりお誂え向き。

 そのとき手にしたのは「幽霊塔」という本だったと記憶している。

 その日に読めたのは、その一冊だけだった。

 読み終えたとき、明かり採りの光は、すっかり傾いた黄昏色で、文字をたどるのが少しつらくなっていた。

 読み終わって部屋を出るまで、誰も来なかった。


 そういえば、そこから引っ越すまでの間、あの書庫で読んでいるときに誰かが来たことって一度もなかった気がする。

 明かり採りの窓しかなかったから、たぶん公開していない書庫だったのだろう。

 扉はいつも開いていて、閉まっていたことは一度もなかったけれど。

 今になって思い返すと、中に私がいることに気づかれないまま、施錠されたりしなかったのは、幸運だったのかもしれない。

 

 

――あれから半世紀が経った。

 まったく別の用件で、近くを通ることがあった。

 残念ながら、図書館も、公園も、あとかたもなく消え去っていた。

 図書館のことは、私以上の年配の土地の人なら、おぼえているかもしれないけれど、あの誰にも会わなかった書庫のことを知っている人はいるのだろうか。

 あの書庫、たまたま、なんだろうけど、我流の速読術こそ通用しないものの、ちょっと背伸びをすれば読めるくらいの本ばかり揃っていた気がする。

 誰かに書庫のこと、教えてあげたら良かったな。

 一人で思い出をぶらさげているのって、ちょっと寂しい。

 自分だけの秘密の場所にしてしまったから…。

 備忘録に残すことくらいしか、できない。

 

 

 

 


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