世界史の飾り窓143ビスマルク~戦争を起こす側の論理~
1871年にドイツ統一を「ドイツ帝国」として統一した鉄血宰相ビスマルクは、典型的なプロイセン支配層=ユンカー出身者だった。さらに1848年のベルリン三月革命の際には、暴徒鎮圧のため、自分の判断で挙兵まで考えた保守主義者であった。
しかし、皮肉にもフランクフルト国民議会の代表に選出され、多数決と討論に辟易しながらも、そこで統一に向けての広い視野を獲得する。それはドイツの統一は、統一ドイツ出現に脅威を感じる隣国フランスへの対策なしには不可能であるという認識である。さらに駐仏大使としてパリに赴任した期間に、何度も謁見したナポレオン3世の性格を正確に分析している。ドイツ統一を前に国王ヴィルヘルム1世から宰相に任命された彼は、その期待に応え、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題を解決するため、議会を無視して予算承認のないまま、プロイセンの軍備拡張を断行した。「鉄血演説」は、ビスマルクの決意を示した演説と誤解されているが、実際には軍備拡張を議会に「事後報告」したものだった。
ビスマルクは軍事参謀モルトケという強い味方を得た。モルトケは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題を解決する対デンマーク戦争に「わざと」ドイツ連邦盟主のオーストリアを誘った。本音はオーストリア軍の装備水準、多言語状況での指揮命令系統の正確さ、オーストリア軍兵士の士気を確認することにあった。その成果もあり、プロイセンは普墺戦争に7週間で勝利し、オーストリアを排除した北ドイツ連邦を結成した(1867年)。ここで統一ドイツ誕生を宣言することもできたが、ビスマルクは一歩先のことまで考えていた。統一ドイツの最大の脅威となるナポレオン3世を叩くため、世界史上、最も有名な謀略事件“エムス電報事件”を画策する。スペイン王位継承問題で、王室の親戚筋にあたるプロイセン王族レオポルトはスペイン王位継承を辞退したが、その確認を求めたナポレオン3世の電報を、国王を侮辱する文章に改竄してプロイセン内の新聞に発表させたのである。
ビスマルクの思惑通り、対仏開戦を求める世論が沸騰した。ナポレオン3世退位後の臨時政府首班ティエールは、1871年の講和条約でアルザス=ロレーヌ割譲と50億フランの賠償金支払いを認めざるをえなかった。

ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ帝国成立が宣言され、フランスからの賠償金でドイツは第2次産業革命=重化学工業をおこし、1870年代に急速に独占資本が成長した。鉄鋼資本を支えるには、鉄道建設が最適であった(そう、あの3B政策に連結します)。その上で、ビスマルクはフランスの復讐を警戒し、巧みな外交網を作りあげた。「同盟による勢力均衡」の始まり=ビスマルク外交である。フランスを孤立化させた同盟網は彼が引退し(1890年)、露仏同盟が成立(1891年)するまでつづく。
2026年追記:飯田洋介『グローバルヒストリーとしての独仏戦争』が出されたが、私はまだ読んでいない。そのため、内容は15年以上前の水準です。ごめんなさい。
