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世界史の飾り窓120啓蒙専制君主たち

 ①プロイセンとフリードリヒ2世
 「いかつい」ドイツ騎士団は15世紀初め、ヤギウェオ朝ポーランドに敗れてその家臣となり、騎士団領はプロイセン公国となり、1618年にブランデンブルク辺境伯領というか選帝侯領と合併した。1701年にフリードリヒ1世のとき、スペイン継承戦争の功によって、王国に昇格した。
 プロイセンの支配層をユンカー(若旦那くらいの意味)という。「軍隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世はヨーロッパ初の徴兵制を敷き、ユンカーを軍隊の将校と高級官僚に登用して軍事大国に成長した。人口200万にすぎない同国が8万人の軍隊を持てた理由はここにあった。軍隊ではユンカーと農奴の人格的関係がそのまま持ち込まれ、「鉄の規律と制裁」がプロイセン軍の原動力となった。
 プロイセンの英傑フリードリヒ2世は1740年に即位した。父フリードリヒ=ヴィルヘルム1世に反発し、啓蒙思想家ヴォルテールに弟子入りを願ったが、父の鉄拳を食らい、君主として目覚めた。それでもポツダムにロココ式のサンスーシ宮殿を建設してヴォルテールを招待し、「反マキァヴェリ論」を発表、啓蒙専制君主を代表する人物との評価を得る。有名な「君主(国王)は国家第一の下僕」の言葉とは裏腹に、彼は冷徹でしたたかな絶対君主として一貫して行動した。1740年に無理筋で神聖ローマ皇帝に即位した24才のマリア=テレジアの皇位継承に文句を付け、シュレジエンを奪ったのは絶対君主としての彼だった。


 ②七年戦争(1756~63)とヨーゼフ2世
 シュレジェンを奪われたマリア=テレジアが、フランス・ロシアを誘い、用意周到にプロイセンに仕掛けた復讐戦が七年戦争である。宿敵ブルボン家と和解し(=外交革命)、西・東・南からプロイセンを包囲し、満を侍して1757年に七年戦争は始まり、フリードリヒ2世は絶体絶命の危機に陥る。しかし、ロシアでフリードリヒ2世の崇拝者ピョートル3世が即位すると、ロシアは兵を引き揚げた。マリア=テレジアは「あと一歩」で涙をのみ、プロイセンのシュレジェン領有を認めた。この戦争を乗り切ったプロイセンはヨーロッパの大国の仲間入りを果たした。七年戦争敗北の2年後に長男が皇帝に即位してヨーゼフ2世となった。啓蒙専制君主として知られ、教育とイエズス会の関係を絶ち、農奴解放を行うなど先進的な改革を行ったが、彼の手本は母マリア=テレジアの宿敵フリードリヒ2世だった。
 母子の断絶は深まり、ヨーゼフ2世は皇帝としての権限を一切剥奪され、その改革も白紙に戻された。「最も良き意図を持ちながら、その実現に最も失敗した人」がヨーゼフ2世の墓銘文である(そこまでするか!!)

 ③エカチェリーナ2世とロシア
 ドイツのハノーファー選帝侯領の下級貴族の娘で本名はゾフィー。一滴もロシア人の血は流れていない。ピョートル3世と結婚後、ロシア風に名前をエカチェリーナと変え、信仰もルター派からロシア正教に改宗した。啓蒙専制君主として知られ、ヴォルテールと文通し、ロシア語文法の確立、エルミタージュ美術館設立などロシア文化史・文明化に大きな足跡を残している。
 ロシア宮廷は陰謀とクーデタのメッカで(台所にはヒ素が常備されていた)、彼女も義母エリザベータに2度殺されかけた。その危機を乗り切り、夫ピョートル3世反対派を結集してクーデタを実行した。軍隊・元老院からロシア皇帝に歓呼をもって戴冠され、ポチョムキンを将軍に抜擢し、領土を黒海沿岸まで拡張してロシアの伝統政策=南下政策の端緒を開き、フリードリヒ2世を誘ってポーランド分割を行うなど、専制君主そのものの政策を進めた。
 彼女の危機となったのがプガチョフの反乱である。ロシア南部のイスラム圏には、各地から逃亡してきた人間が、大河を舞台とする通商や海賊の集団を作っていた。ロシアは彼らに自治を認めるかわりに、国境警備とロシア精鋭軍=コサック騎兵としての勤務を課していた。そのドン=コサックの首領プガチョフが、強まるロシア宮廷の介入に怒っておこした反乱がこれである。プガチョフは「われこそ、死んだと言われるピョートル3世なるぞ」と訴え、エカチェリーナの弱点を突き、民衆の支持を集めた。
 ロシア農民は、皇帝(ツァーリ)は恐怖の対象である一方、民衆の味方と認識していた。自分たちが苦しむのはツァーリを取り巻く貴族のせいだ、と考えて。この感情は、「水戸黄門」を喜ぶわれわれというか日本人の感覚に近いものがある。そう、この感覚はアジアの君主観であり、ヨーロッパに見えてもロシアのメンタリティの奥底にはキプチャク=ハン国の支配以来のアジア的なもの・モンゴル的なものが厚く堆積している。

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