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䞖界史の食り窓118「理念の䞖界垝囜」ずしおの絶察王政

 絶察王政を正圓化する政治的抂念ず理念が䞻暩抂念ず王暩神授説である。䞻暩ずは教科曞的には、領土(囜土・領海領空(20C))ずそこに䜏む人民に察する絶察的か぀排他的な至䞊の支配暩を指し、16䞖玀末にフランスのボヌダン(なぜか政治孊ではボダンず瞮たる)が最初の定匏化をした。「絶察的」ずは囜王の䞊に立぀䞊玚の支配者が存圚しないこずを意味し、「排他的」ずは他囜からの政治的干枉を受けない内政干枉を拒吊できるこずを意味する。囜民ではなく「人民」ず曞いたのは、単䞀民族(共通語囜語を持ち、共通の文化的䌝統を受け入れた、自分を○○人ずむメヌゞできる民族)からなる囜民が誕生しおいないからである。絶察王政の兞型ずされるフランスでさえ、18䞖玀末の革呜で共通語が創造され、孊校教育を通しおフランス語が誕生しお匷制したくらいである(ちなみにフランスのラングドック地方は「オック語の地域」の意味)。「母語」ずいう蚀葉があるが、䞀぀の囜内で䜿甚される蚀語は倚岐にわたったし、戊争や政略結婚による領土倉曎によっお、䞀぀の王囜内に存圚する蚀語数も倉化した。そのような倚蚀語・倚文化状態を圓然の前提ずするのが䞻暩抂念ず垝囜抂念である(異民族の存圚しない垝囜は圢容矛盟である。わかるかな)。
 王暩神授説は、フランスではボヌダンの『囜家論』(1576)を経おボシュ゚の『䞖界史叙説』(1685)が、むギリスではフィルマヌが『パトリアルカ』によっお確立した政治的理念で、文字通り「囜王の暩力は(ロヌマ教䌚を経由せず盎接に)神に由来する」こずを意味する。よく考えるず、叀代オリ゚ント䞖界でもハンムラビ法兞碑文に芋られるように、䞖界各地で普遍的に芋られる王芳念である。
 ではペヌロッパにおける王暩神授説の独自性はどこにあるのかずいうず、䞭䞖を通じおペヌロッパの各囜王暩は、キリスト教的な至䞊暩から普遍的な支配暩を䞻匵する皇垝暩・教皇暩ずの察抗を通しお圢成された点にある。蚀い方を換えれば、フランスやむングランドの王暩は、教皇や皇垝に察抗し埗る神聖さや霊性(む゚スキリストの力を借りお奇蹟を行う胜力)を民衆に認めさせなければならなかったのである。
 その兞型䟋が、英仏䞡囜に残った「ロむダル・タッチ」、すなわち王は觊るだけで庶民の病を、ずりわけ䞍治のハンセン病を治癒できたずいう䌝説である。偶然に治癒した䟋も、本圓に王の霊性によっお治癒した䟋もあったのかもしれない。20䞖玀初めのフランス䞭䞖史家マルクブロックが名著『奇蹟を行う王』で指摘したように、ハンセン病患者は王のもずを二床蚪れた。぀たり、奇蹟は起こらなかったのである。ず同時に、治癒しなくずも王の霊性に察する信仰は傷぀かなかったのである。ここに䞡囜で王暩神授説が受容された背景が芋える。
 もう䞀぀のペヌロッパの王暩神授説の特城は、その普遍性である。神聖ロヌマ皇垝でも、実際に皇垝を兌ねるドむツ王がたずもにドむツを統治できたこずもなかったし、倧陞の各囜君䞻・貎族が神聖ロヌマ皇垝の軍叞什暩に服したこずもなかった。だが、理念ずしおの皇垝の普遍性は埮塵も疑われなかった。皇垝䜍がハプスブルク家の䞖襲ずなった埌、それに察抗したフランス・むングランドの王暩も自らの普遍性を䞻匵した。理念の䞊では党䞖界を支配する正統性を䞻匵する囜家がペヌロッパに䞊び立ったこずになる。だがハプスブルク家が䞖界垝囜にもっずも近づいたカヌル5䞖の治䞖も「瀫岩」状態は克服できず、圌の王章も同じだった。

カヌル5䞖の王章

圓然ながら、理念の䞖界垝囜が䞊び立ったこず、それは慢性的な戊争状態を招いた。封建領䞻あるいは領邊君䞻である貎族も、加速床的に進化する歊噚の調達、家臣の忠誠心の確保、そしおそれらに芋合う収入源を必芁ずした(春秋時代の黄河流域にあった300䜙囜が、戊囜時代を通しお、各囜に軍事動員ずそれを可胜にする人民負担システム[戞籍・法・官僚制]を構築させ、䞃ヵ囜たでに再線されたこずを思い出しおもいいだろう)。新しい高いレベルの軍事負担は、自立的な王・諞䟯を皇垝・囜王の家臣ずしお再線させ、䞭倮集暩化暎力の独占化を䞍可避にするのである(黒船異倉埌の日本が察倖戊争のため、300䜙りの軍団ず将軍家からなる幕藩䜓制を自ら吊定しお䞭倮集暩的な明治囜家を䞀気に生み出したこずも思い出しお欲しい)。
 普遍性を䞻匵する囜王同士が行う戊争の砎壊姓・野蛮さは环積的に高たった。貎族は自力で生き残るこずは䞍可胜な時代に入った。貎族は「最倧の貎族」である囜王に「自分たちの代衚」にずどたっおもらったのでは困るこずになった、ず衚珟しおもいいだろう。貎族は生き残るために貎族の自治暩・利害を保持しながらも、囜王暩力の手足官僚による人民ぞの課皎ず動員を匷制できる暩力に脱皮しおもらわなければならなかった。それは貎族自身が官僚・将校ぞず転身するこずを䜙儀なくさせた。そしお囜内のギルド、郜垂や地域ごずに認められた自治暩特暩を吊定しおフラットな平民ずしお再定矩するこずも必芁だった。別の蚀い方をすれば、囜党䜓の利害を貎族院ず庶民院においお珟前させ、そこにおいお囜王・行政が提案する負担案増皎ぞの同意を調達する仕組みが必芁になったのである。
 そこに到る道は平坊ではなかった。平民・庶民が貎族の特暩を蚱す蚳がないからである。貎族特暩の倧きな郚分が残ったフランスは「自由・平等」を掲げた激烈なフランス革呜を経なければ近代囜家になれなかった。むギリスは17䞖玀末に貎族ず平民の利害調敎システム議䌚䞻暩を確立しおいたので、二倧政党政治や自由䞻矩的改革で緩やかに近代囜家ぞず倉質しおいった。
䞭倮集暩化ずはわかったようでよくわからない蚀葉の兞型である。簡単に説明するず人民を個人あるいは家単䜍で個別把握するこずで、地域瀟䌚・地方の独自性を気にせずに䞭倮政府が「人民の矩務」ずしお定めたこず課皎、城皎、劎圹を匷制できる党囜共通の制床を確立・運甚し、集めた皎の分配やむンフラ敎備の蚱認可暩を通しお地方を䞭倮に埓属する立堎に固定化するこずで、銖郜に物資も資金も情報も人材も集䞭させるしくみを䜜るこずである。
 この説明を前提にするず、ルむ14䞖時代のフランス絶察王政は、人民の個別把握は行われおいなかった。有力貎族は嫌でも顔を突き合わせるこずはあっただろうが、平民はギルドや蟲村共同䜓や地方䞉郚䌚を通しお把握され、個別亀枉するしかなかった。瀟団囜家ず衚珟される所以である。
 しかし、17䞖玀を通しお戊争は慢性化し、倚くの人間を軍事動員しなければならなかったが、圹に立぀のは歊噚を䜿い慣れた男性なので、䜏民の歊装を解陀するこずもできず、圓然ながら民衆反乱を防ぐこずはできなかった。だが、慢性的な戊争状態は加速床的に兵噚の進化ず軍事費の増倧を招いた。囜の郜合で必芁な皎額を集められる匷制できる官僚制ず暎力装眮が必芁ずなった。特に単幎床䌚蚈では戊費調達は䞍可胜な氎準になり、䌚蚈は財政に倉質した。しかし、それが達成されたのは19䞖玀であり、そのような囜家は近代囜家であっお絶察王政ではない。
 財政を理解したのはむギリスだっが。䞭䞖以来の特暩や自治暩を有する共同䜓は吊定されなければならなかったが、それは連合王囜ゆえに避けなければならなかった。軍事費の増倧は囜家財政の芏暡を拡倧させ、財政機構の成長、囜債発行(囜家による借金)を通しお長期の信甚垂堎を育成した。それが回るだけの資金は1694幎に蚭立され、オランダ資金を吞い寄せたむングランド銀行によっお調達された。
 近幎、「軍事革呜」「財政革呜」ずしお匷調される絶察王政䞋での囜家の倉質を指し瀺す抂念はこれらの事態が持぀重芁性を蚎えるものである。

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