老眼にも優しい「キングダム」を全巻一気読みしてきた
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キングダムと老眼
マンガ好きの後輩と話をしていて、たびたび言われることがある。
「キングダムを読んでいないなんてマジで人生を損してますよ」
良い作品に触れて興奮気味の人はこのトーンでグイグイ来ることが多い。若干ではあるけど発奮気味な場合がほとんどだ。こういった過度な物言いを見るに彼のオタク的な素養は高い。
さすがに「人生を損」までは言い過ぎだろう、お前に俺の人生の何がわかるんだと腹立たしさすら覚えるのだけど、そこまで言わしめる作品ということだ。ちょっと読んでみようかとなるのだから人間とは不思議なものだ。つまり、そういうトーンの布教活動は一定の効果があるというわけだ。
さて、彼が熱烈に勧めてくる「キングダム」とはなんだろうか。原泰久先生による漫画で、2006年9号から2026年現在まで週刊ヤングジャンプで長期連載されている漫画だ。
Wikipediaによると、古代中国の春秋戦国時代末期における、戦国七雄の争乱を背景とした作品で、中国史上初めて天下統一を果たした始皇帝と、それを支えた武将、李信が主人公となっている。
なかなか壮大な物語っぽい「キングダム」だが、多くの人の心を惹きつけてやまないようで、マンガ好きの友人たちがしばしば勧めてくるのだ。さきほどのトーンで勧めてくるのだ。
僕はこの「勧める」という行為がけっこう正気の沙汰ではないと思っている。基本的に、誰かに何かを勧めることは百害あって一利なしだからだ。
勧めた結果、本当に感動されたとしてもそこまで見返りはない。本当にあの漫画おもしろかったわ!サンキューな!と万札を握らせてくれるやつはいない。
さらには勧めたものが相手に響くとは限らない。イマイチだった場合は「こんなもの勧めてくるなんてセンス悪いな、今後の付き合いも再考しないと」と思われる可能性すらある。
まさにリスクしか存在しない行為なのだ。だからそう易々と人に何かを勧めるものじゃないのだ。
そういった不利な状況をものともせずに「読んでいないなんてマジで人生を損してますよ」とまで言うのだから、彼が根っからの無鉄砲で損得なんて考えていない人間なのか、それともそれ以上に「キングダム」という漫画が面白いか、このどちらかなのだ。そしてきっと、彼は無鉄砲ではなくけっこう聡明な奴なので、おそらく後者なのだろう。
「いやあ、読んでみようとは思っているんだよ」
そう返答すると、後輩は興奮した。
「いいなあ。まったく無の状態からキングダムを読めるんですよね。僕も記憶を消してもういちど読みたいですよ」
こういう言説は興奮したオタッキーな人の間で頻繁に用いられる。さすがに言いすぎだといつも思う。
普通に記憶が消えたらけっこう嫌だよな、深酒した時に記憶が消えることあるけど、ああいうの、けっこう怖いからね、と我に返ってしまうのだ。
「ただ、読みたいんだけどね、ちょっと老眼がきつくてさ」
これがいつも使う、無難な断り方だ。角が立たない断り方というやつだ。
もう、おっさんというか老人の域に足を踏み入れている僕は、大変ショックなことだけど、ここ1年ほどで急速に老眼が進行した。もともと重度の近視で乱視、そこに老眼まで加わってくるのでえらいことになっている。なんか目のマイナスポイントのグランドスラムみたいになっている。それを理由に読むのがキツいと断るわけだ。興味はあるけど視力的に厳しいと言えば角が立たない。
本当に老眼はなかなか厳しいのだ。特にマンガみたいなものを読む場合はかなり苦しい。老眼によってピント調節機能が狂っているので、そこそこの近い距離にあるマンガが読めない。
じゃあ、遠ざけて読もうとすると、今度は近視によって読めない。なにかを読むにあたって適切な距離が存在しない状態なのだ。
最近では、スマホやタブレットでマンガを読むスタイルも確立してきたけど、こちらもやはり苦しい。かなり拡大すれば読めるのだけど、拡大して戻して進んでとなるのでテンポよく読むことができず、マンガ特有の躍動感がなくなってしまう。
この老眼問題の解決は簡単だ。A3サイズぐらいのマンガ単行本があれば苦労なく読めるのだ。けれどもそんなマンガ本はこの世のどこにも存在しない。
「もう老眼でマンガは読めないのよ」
そう言うと、僕を慮ってか、後輩は寂しそうな表情を見せた。僕はさらに追い打ちをかける。
「俺にはもう、それ(漫画)がよく分からんのよ……!」
悲しいセリフを受け取った曽我のような表情を見せる後輩。けれどもすぐにパアッと明るい表情を見せた。
「ありますよ!老眼でも読めるキングダムが!」
そんなものあるはずがない。
「いや、A3サイズくらいよ、それくらいの大きさのマンガじゃねえと読めねえよ」
「余裕であります。A3サイズどころじゃないです!」
そんなものあるはずがないと思いつつも、あまりに熱烈に進めてくるので、ちょっと後輩のことを信じて、彼の指示通りに行動することにした。彼を信じてみることにした。やはり僕だって視力的に問題ないならきちんと名作を読みたいのだ。
「老眼でも読めるキングダム、そこに到達するには、まず飛行機のチケットをとってもらって……」
なにいってんだこいつは。やっぱり根っからの無鉄砲なのか。
まあ信じると決めたのだ。彼に言われた通りに飛行機のチケットを手配した。
佐賀県佐賀市 九州佐賀国際空港

なぜキングダムを読むだけで飛行機に乗らされるんだと思いつつも、彼の指示通りに行動すると決めたので、言われるがままに飛行機に搭乗し、気づけば佐賀空港に降り立っていた。
なぜか空港の名称が「佐賀キングダム空港」になっていた。ほう、佐賀空港はキングダムとコラボしているのか。
このコラボには理由がある。キングダムの作者である原泰久先生は佐賀県の出身である。その縁で、キングダムが連載20周年を迎えるこのタイミングでコラボしたらしい。空港の名称もその一環だろう。
調べてみるとキングダム×(駆ける)佐賀県ということでけっこう大々的にやられているようだ。
佐賀県はけっこう攻めたコラボをするPR戦略で有名だ。たぶん都道府県のPR戦略の中で随一といっていい攻めの姿勢を持っている。
僕自身も、佐賀県のPRでなぜか佐賀県とネットゲームであるところのリネージュWがコラボしたキャンペーンを取材し電ファミニコゲーマー様に寄稿したことがある。
タイトルからわかるとおり、「なぜか」佐賀県とネットゲームのリネージュがコラボしているのだけど、それと比べれば原先生の出身地という繋がりがあるキングダムはずいぶんと正当性がある。

それにしても、もともとそういうロゴなのだろうけど、キングダムの文字が燃え盛る感じになっているところが気になった。文字が炎上している。燃え盛っておる。
空港において燃え盛る感じのフォントはいささかまずいのではないのか。そう思いつつも、そこはやはり佐賀県の攻めの姿勢なのだろうと納得した。

空港の到着口を出てすぐに、なにかが目に飛び込んできた。

キングダムだ。
読んだことがないので分からないのだけど、おそらく主要キャラクターだろう。キングダムのキャラクターがお出迎えというやつだ。

階段もこんな感じになっている。僕は読んだことがないのであまり思い入れはないのだけど、これはファンのみなさんにとって嬉しいようで、みんなバシャバシャと写真を撮っていた。
あと、エスカレーターが登りしかないので降りるときには必ずこの階段を使う必要があるのだけど、僕が写真を撮ろうとしたら中腹まで降りてきていた空港の人がわざわざ引き返して姿を隠してくれた。気遣いが強い。佐賀空港にはおもてなしの心がある。

上の階まで行くと飛行機が見える場所があるのだけど、その一角に特に力が入ったゾーンがあった。
なぜかリネージュとコラボした時もそうだったけど、佐賀県はコラボするときは特に空港に力を入れてくる傾向にある。前の時も空港がリネージュだらけだったもんな。

入場無料のキングダム展みたいなものが催されていた。平日の昼間だというのにけっこうな賑わいだ。

場内ではこうやって大きなパネルで名場面であろうシーンが紹介されている。これだけ大きいと老眼でも楽勝で読める。
もしかして、後輩が「老眼でも読める」と言っていたのはこれのことなのか。いや、これでは名場面のワンシーンだけじゃないか。これだけでは話の筋が読めない。
それにしてもこのシーンはなんだろう、いままで共に戦ったり、時には敵対したキャラたちが集結してラスボスっぽいものに挑むシーンなのだろうか。いや、それも違う気がする。やっぱり1コマだけじゃ話の筋が全く読めないな。

場内では原先生の生原稿も展示されている。
いつも思うけど、マンガの生原稿ってむちゃくちゃ綺麗で美しい。もはや芸術品の域に達している。
そして、生原稿は実際の単行本より大きい。ひとまわりか、ふたまわりくらいは大きく、少し老眼に優しい。ただ、この生原稿もほんの一部分なので、ストーリーを追うことはできない。

名シーンがあしらわれた有田焼のお皿も展示されている。これだけ大きいとありがたいけど、全編を有田焼のお皿にしろなんて無理な話だ。

まだ読んでいない状態で想像だけで述べると、これは敵役だろう。悪そうな顔をしておる。とにかく、これだけ大きいとありがたい。老眼にやさしい。
さて、このように作品のファンを大きく喜ばせているキングダム展なのだけど、肝心の「老眼にも優しいキングダム」は空港にはないらしい。けれども、空港からそう遠くない場所にあるようだ。
というか、空港の時点でこれだけキングダムフィーバーであることを考えると、本当に老眼にも優しいキングダムがあるのかもしれない。そんなものあるわけないだろうと思っていたけど、あながち嘘でもない気がしてきた。ほんとうに、老眼の方のために全巻をA3サイズで準備しました、みたいなゾーンがあるかもしれない。佐賀県の狂いっぷりを考えるとけっして不思議ではない。
ということで、ここからはレンタカーを駆って老眼にも優しいキングダムを目指すことにした。
干潟よか公園
ただ広い田園風景のなかを縦横無尽に走る用水路たち、すごく佐賀県らしい景色の中をレンタカーで走っていく。
目指す場所は空港からそう遠くないけど、用水路というか運河というか、それらを渡るために大回りすることになる。けっこう距離があるので車じゃないと厳しいらしい。
いつものノリでここを歩いていこうとしたら日が暮れてたな、迷いなくレンタカーを選択した自分を褒めたたえた。
地平線が見えそうなほどどこまでも続く田園風景の中をまっすぐと伸びる道路。そこをひた走る。本当にまっすぐで笑ってしまうほどの道路だ。それらを経て、ついに目的地である「干潟よか公園」に到着した。

干潟よか公園
佐賀市東与賀町大字下古賀2885-2
JR佐賀駅から車で約30分
なるほど、公園の名称からもわかるとおり、ここには干潟があるのだ。佐賀県の有明海といえば干潟だ。その干潟を望むための公園ということだろう。
この公園、めちゃくちゃ大きい。広大な芝生広場に大型遊具、草スキー場まであるらしい。夏にはプールも楽しめるとホームページに書いてあった。

写真の中央に佇むガラス張りのヤグラみたいな建物、これが展望台だろう。干潟の景色を一望できる展望台まであるわけだ。
とりあえず展望台を目指して公園内を歩く。こんな公園に老眼にも優しいキングダムがあるのか。もしかしたら、あの展望台の建物の下部が図書館みたいになっていて、そこにA3サイズに作り直したキングダムの単行本があるのかもしれない。ちょっとだけ胸が高鳴った。

この展望台がある建物、「ひがさす」という名称らしい。かなりいいセンスしている。「ひがた」「日が差す」みたいなところからきているのか。
1階部分はけっこうひっそりとしていて落ち着いた雰囲気だった。中では干潟の生物などを展示する場所があったりするのだけど、A3サイズのキングダム単行本などは存在しない感じだった。
さすがにそういうコラボイベント的なものがあったら場内はもうちょっと人で溢れているはずだ。
というか、ここ「ひがさす」にはキングダムのキの気配すらない。これはもしかして騙されてしまったか。
とりあえず、展望台にのぼるエレベーターがあるようなので、ここまできたら干潟の景色をみないとな、と昇ってみることにした。

おお、これはなかなかすごい景色だ。堤防があって、その向こう側が泥と水が入り混じっている地帯だ。あそこにムツゴロウとかいるんだろう。そんな景色が延々と続いている。なかなか迫力がある。
海の向こうに見える山々は長崎県の山になるのかな。とにかく、雲の感じと太陽の感じもベストなタイミングでなかなかの絶景に出会うことができた。
「ちょっと待てよ?」
普通に干潟の景色は素晴らしいのだけど、その手前、堤防の様子がおかしい。皆さんもちょっと戻って画像をよく見てほしい。なにやら人がそこそこいるし、堤防がなんか変だ。あそこで何かが起こっている。

堤防が白い帯みたいになっている。そこに人がいる。なんだありゃ。

堤防になにか書いてある……?

あれ、マンガじゃね?
それもかなり巨大なマンガ。右側に写っている人間との対比でかなり大きいことがわかってもらえると思う。とにかくでかい漫画が干潟と公園を隔てる堤防に鎮座している。
ほんとうにマンガなのか、あれ。

ってことは、これぜんぶマンガなの!? 200~300メートルくらいありそうだけど、ええええ、これ、マンガなの。
そんなバカなことあるかよ、ともうエレベーターも待てないので階段を駆け下り、問題の堤防に近づく。

本当に堤防がそのままマンガになっている。マジか。マジで漫画だ。

ぎょえええ、すげえええ。完全に狂気の沙汰。霞むくらいはるか遠くまで延々とマンガが掲載された堤防が続いている。え、これ佐賀県がやってるキングダムのコラボイベントなの!?なにやってんの佐賀県。

どうやらこれ、キングダム読破堤、という企画のようだ。
なぜそういう考えに至ったのかは完全に不明だけど、キングダムの全巻がすべて堤防に掲載されているらしい。なんで?
普通、企画会議とかで向こう見ずな若手が「キングダム全巻が堤防に描いてあったら面白いっすよね」なんて言おうものなら、真面目に考えろと怒られるはずだ。それがなんで実現にまでこぎつけてるんだ。
ここでついに気が付く。
ちょっとまて。僕がここに誘われたということは、ひょっとして、これが老眼に優しいキングダム?
ということは僕、ここでキングダムを全巻読破すんの!? え、マジで?ここで? 堤防に描かれたキングダムを全巻読破すんの?
「そりゃそうだよ、ここは読破堤だもん。読破しなきゃですよ」
誘ってくれた後輩のそんな声が青い空から聞こえた気がした。「後輩……」って感傷に浸っている場合じゃない。
いやいやいや、めちゃくちゃなこと言うな。ここで全巻読破なんて、もっと落ち着いた環境で読ませてくれよ。それに、なんか立ち読みみたいで申し訳ない気持ちになってくるんですけど。
一応、閲覧中の注意みたいなものが記載されているので熟読する。

・防波堤には照明がありません。夜間のご観覧はお控えください。
・低温による路面の凍結や強風など、危険が予想される場合はご観覧をお控えください。
・安全管理はご来場者ご自身の責任においてお願いいたします。また、小さなお子様からは目を離さないようご注意ください。なお、観覧中に発生した事故・怪我・盗難・紛失・トラブル等につきましては、責任を負いかねます。
・ゴミは各自でお持ち帰りください。
ここで「延々と長時間は読まないでください」とか書かれていたら、これ幸いと「だって長時間よむなって書いてあるもん。名作はちゃんと購入して読みます」と言い訳できたんだけど、そんなこと一言も書いていなかった。いくら読んでもいいらしい。まだ連載が続いている人気作を全巻一気に無料で公開って太っ腹にもほどがあるだろ。何度も言うけど、会議で否決するべき企画だろ、これ。
さらに注意書きを熟読する。

「原作漫画の一部に過激なシーンが含まれるページにつきましては、佐賀県産の海苔で隠しております」
なに言ってんだコイツ。もう意味が分からねえよ。なんだよこれ。佐賀県の海苔で隠してありますってなんだよ。もうこれ、会議が長すぎて全員が訳わからないことになってる状態で決めてるだろ。
それよりなにより、注目すべきはここだ。

上部の看板。なにが書いてあるのか分かりやすいように拡大してみよう。

「1巻は約300メートル先」
嘘だろ!
この注意書きがあって、公園からアクセスしてきて最初に目にする場所は73巻くらいらしい。1巻ははるか先のようだ。
当然ながら全巻読破には1巻から読む必要があるので、1巻まで移動する必要があるわけだ。
おそらく僕のこれからの人生において「1巻は約300メートル先」という看板を見る機会はないと思う。たぶん来世でもないと思う。

1巻、はるか彼方だ。この視界の消失点のあたりが1巻だ。まさか漫画の1巻を求めて消失点を目指して歩くことになるとは思わなかった。
それでもまあ、読破のためには目指すしかない。
歩きながらも左手にある漫画たちを眺める。まだ堤防に漫画が掲載されているという状況を脳が受け入れていないのか、バランス感覚を失ってまっすぐ歩けない。

だいたいこの色がついた帯から帯までの間隔が単行本の1冊分になるらしい。それが70以上あるわけだ。本当にしっかり全ページが掲載されている。
何度も言わせてもらって悪いけど、何を食って育ったら「堤防に全巻掲載しよう」という思考に至るのか理解できない。会議で否決だろ普通は。
なんてことを考えつつ、ぜえぜえと息を切らしながら歩く。そして、ついに300メートルを歩き切った。

ついに1巻部分に到達した。ここがすべての始まりだ。「全巻読めちゃう!」じゃねえよ。お茶目に言ってるところが狂気じみている。
ちなみに、このキングダムが掲載された堤防だけど、マンガ部分はしっかりとした板とかパネルで作られているわけではない。

もともと堤防はこういう形状をしている。堤防を支える斜めの支柱みたいなものの間にテント地みたいな厚手の布が張られている。そこに漫画が印刷されているわけだ。

注意書きにも「幕の内部は空洞になっているので寄りかかるな」と書かれている。この注意書きを読んだ時は「ほーん」としか思わなかったけれども、この事実が後々の僕を大きく苦しめることとなる。
さて、こうして佐賀まで来たのだ。覚悟を決めてしっかりと全巻読破してやろうじゃないか。やるぞ、やってやるぞ。
(※ここからはキングダムのネタバレも含む記述が始まります)
キングダム 1巻

さっそく1巻から読み始める。読み始めてすぐにいま自分自身が置かれた状況が普通でないことに気が付く。
例えばネットカフェなどで78巻まで刊行されている漫画を読み始めた場合、本棚において1巻から78巻までのスペースを持って、これだけ読破するんだと意識する。幅にして1メートルくらいだろうか、大体は二段とか三段に分かれていて、キングダムの領域みたいになっている。この領域分を読破するんだと意識する。ただ、ここでは違う。

この距離を読破していくんだという感覚になる。そしてその距離がおかしい。読破した先が蜃気楼みたいに揺らめいている。
さて、そんな異常ともいえる状況に身を置きつつ、落ち着いて読み始めよう。
物語は紀元前245年から始まる。500年以上の長きにわたって中国の各国が争っている春秋戦国時代の話のようだ。その戦乱の世における秦という国の小さな村、そこに下僕として暮らしている信と漂という二人の少年から物語がはじま……ちょっとまて!
読み始めていきなり分かったわ。

300メートル延々と掲載というスケールに圧倒されていて気づくのに時間がかかったけど、あくまでも巨大なのはその全巻を掲載するというスケールの話であって、1ページ単位でみるとこれ単行本と同じ大きさだ。
もう一度いう。これ、単行本と同じ大きさだ。
そう、老眼にやさしいキングダムを求めて佐賀まで来た。たしかに桁違いにスケールがでかいキングダムはあったけど、ページの大きさは同じ、別に老眼に優しいわけではなかった。
いきなり佐賀まできた意味がスカスカに薄まってしまったけれども、ここで引き返すわけにいかない。俺が始めた物語だろ。ということで、同じ大きさというところには盛大に目を瞑って、しっかりと読破していく。
信と漂は下僕として暮らしながらも「天下の大将軍」を夢見て隙を見ては二人で剣術を磨いてしのぎを削っている。
あるとき、剣術に励む二人の姿を見た通りがかりの高官(役人)である昌文君(しょうぶんくん)が漂だけを「王宮で重要な仕事がある」と連れて行ってしまう。
漂がいなくなってしばらくすると、村に「王宮で反乱がおこった」という噂が届く。王の弟が王に対して反乱を起こしたというのだ。漂を連れて行った昌文君もその反乱に巻き込まれて命を落としたと聞く。信は漂も巻き込まれたのではないかと不安になる。
その夜、まさに命からがらといった感じで漂が納屋にやってくる。漂の傷は深く血まみれだ。漂はそのまま「大将軍になる」という二人の夢を語り、謎の地図を手渡して息絶える。
「なるほど、これは漂を失った信の出世物語なのだな」
春秋戦国時代に活躍したとされる将軍、李信が、ここでの信ならばそういう話の展開になるだろうと予想される。
ここですごく印象的だったのが、信と漂を下僕として住まわせていた屋敷の主人とその子供だ。主人公サイドが下僕という立場の場合、その主人やその家の子どもは嫌な悪役として描かれることが多い。基本的にそれらの悪役は主人公サイドの隆盛により酷い結末を迎える。ちょっとした勧善懲悪を物語のエッセンスとして盛り込むことが多い。
もちろん、このキングダム1巻でも主人とその家族は嫌な役回りとして描かれている。そうすることで信と漂がかなり抑圧されており不遇な立場であることを描写できるわけだ。
けれども、ここでは少し違った様子を見せる。信が漂の意思を受け継ぎ、地図を持って村を飛び出したあと、そこには漂の遺体が残される。その遺体の扱いと、漂を追いかけてきて死体を改めていた刺客への対応において、主人とその家族はまったく違うものを見せたのだ。
どちらかというと、良い奴として描かれ始めるのだ。
悪役を悪役として描くのだけど、一貫して悪として描かず、その中にある善を描写する。このシーンはなんか僕にとってすごく新鮮で、原先生はそういう悪を悪だけと認識しない人なんじゃないか、そう感じた。
言い方を変えると、一貫した救いようのない悪は描けないともとれるし、どんな悪でもその中に善があると信じているようにもとれる。1巻の時点で原先生のそういう善悪感みたいなものが感じ取れて本当に興味深かった。
物語の方はけっこう早いスピードで展開していく。漂から託された地図の場所に行くと、そこには漂と瓜二つの男がいた。名前を政(せい)という。
なんと、政は秦国の王だという。つまり、王と瓜二つだった漂は影武者として王宮に連れていかれ、反乱に巻き込まれて王の身代わりとなって死んだのだ。
漂を殺し、さらに信を追ってきた刺客と戦闘になり、信がずっと漂と二人で磨いてきた剣術によって立ち向かう。ここで1巻が終わる。
キングダム 2巻

1巻部分を読破してわかった。これめちゃくちゃきついぞ。
まず第一に、寒い。それに尽きる。ここ干潟の堤防は海沿いみたいなものなので風を遮るものがなく容赦なく体温が奪われていく。どんどん風が強くなってくる。市街地の気温よりマイナス3℃くらいで考えた方がいい。
そして、この堤防に掲載されたマンガ、容赦なく読みにくい。スケールは大きいけど、その大きさは単行本と変わらないことはもう述べた。けれどもそれ以上に、この斜めに掲載されているスタイルがかなり厳しい。
そう、しっくりとくる距離感で読める場所がほとんど存在しないのだ。

いま置かれている状況がこうだ。こういう状態になって読み進めている。
上の写真、説明のためにイラストを足そうとしたら、生成AIのやつがめちゃくちゃリアルな人物を追加してくれてびびった。ただ、この人間、ちょっとサイズが小さい。たぶん、生成AIもマンガの規模を測りかねてバグっていて、小さい人間を出力してしまっている。やはり生成AIからみてもこのマンガのスケール感はおかしいのだ。
で、この図からわかる通り、マンガの上部と下部においては、視点からかなりの距離がある状態なのだ。
下部の方はしゃがみ込めば読めるのだけど、問題は上部だ。斜めに角度がついているので、上部は自然と距離が遠くなる。それが読みにくい。単行本の紙面を2メートルくらい離れた場所から読むことを考えてもらえればいかに読みにくいかわかってもらえると思う。
ただ、もっと近づいて読もうとすると、かなり大変なことになる。ここで冒頭の注意書きを思い出してほしい。

「幕の内部は空洞になっているので寄りかかるな」
けっこう強めの言葉で書かれているので、本気で寄りかかることを嫌がっている。そうなると寄りかかって読むわけにはいかないので、近づいて読もうとすると自然とこういう状態になる。

マイケルジャクソンの斜めになるやつみたいにして読まないとダメなのだ。これはかなりきついぞ。ってかやっぱり人物のサイズ感がバグってる。小さすぎるぞ。
そんな苦しい体勢のまま読まざるを得なく、マイケルジャクソンになったりしゃがんだりを繰り返す必要があり、マンガを読むだけなのに体中の筋肉を使う羽目になっている。
そんな状態で読んだ2巻なのだけど、秦国の王である政はかなり追いつめられた状態であることが明かされる。反乱を起こした王の弟だけでなく、敵だらけで複雑だ。
特に、呂氏の存在が複雑だ。呂氏は秦国の右丞相(もっとも高い官職の一人)で国王である政の後ろ盾的な存在であるはずだ。ただ、いまは隣国の魏国を攻めに行っており不在にしている。
この呂氏さえ帰還すれば現状を打破できると期待されたけれども、実際には呂氏も王の座を狙っている敵に過ぎない。王弟の反乱を静観し、いざ反乱が成就すると「こんな非道なことが行われた、許してはならない」と、それを大義名分に秦国の都である咸陽に攻め入るつもりなのだ。民衆の支持を得ながら王族の血を根絶やしにして自分が王位に就くつもりなのだ。呂氏、けっこう策を巡らせてねちっこく攻めてくるタイプの敵だな。
つまり政は敵だらけ、王宮には味方がいない状態なのだ。
政は秦国を正常化するためになんとしても咸陽にもどり、王の座を取り戻す必要があるのだ。
信は、漂が命を落とす原因となった政のことが憎いが、自分が目指す大将軍になるには政を助けるしかないと考える。追いつめられていると言ってもそこは王だ。自分の夢を叶えるにはそれしかない。信は政と行動を共にすることを決意する。
政と信、途中で出会った河了貂(かりょうてん:史実には登場しない架空のキャラクター)と共に王宮を取り戻す行動を始める。
とても王道的な展開でワクワクする。信が刺客と闘うアクションシーンなどはかなり迫力があるのだけど、そういったマンガの王道的な展開とは別に、呂氏の存在など、政治的な要因が絡んでくる。ただ主人公が暴れて倒して解決とならないところがワクワクさせてくれる。
ただ、体勢はきつい。
キングダム 3巻

ここまで読んで気づいた。この読破堤、熟読してる奴なんて僕しかいない。

キングダムファンが次々とやってきて、常に多くの人がいるスポットになっているのだけど、多くの人がだいたい同じ行動をとる。
まず、そのスケールに圧倒されて驚く。そして「1巻は300m先」の看板を見つけて驚く。それでもせっかく来たんだしと1巻のところまで歩いてくる。で、すごーいとかいいながら写真撮影をし、そこから戻りつつ歩きながらマンガを見ていくのだけど、熟読はしない。読むというより見るという表現が適切なほどだ。なぜならみんなキングダム既読だからだ。
で、好きなシーンとかがきたときだけ立ち止まって思いに耽る。「このシーンがさ」と友人と会話する人もいる。ほとんどがそんな感じだ。

みんなそれぞれに好きなシーンがあるんだろうな。このひっきりなしにやってくるファンの人たちを見ているだけでキングダムが名作であることがわかる。
たぶん、キングダム読んだことなくて来ている人は少ない。そして、未読の状態でやってきて1巻から読破しようとしている人は僕しかいない。
だから熟読してるやつは僕しかいない。
さて、3巻ではいよいよ政たちが王宮を取り戻すために行動をはじめる。王宮に味方がいない政が頼ったのは「山の民」だった。
山の民は、その名の通り山岳地帯で暮らす民族だ。桁外れの戦闘民族なので味方になればこれほど頼もしいことはない。しかし、山の民の王である「楊端和(ようたんわ)」は過去の歴史より秦の王族を憎んでいる。
そんな事情から協力を得るのは難しいと思われたけれども、「中華を統一し国家間の争いのない世界にするという」政の覚悟に触れ、ついに政と山の民の同盟が結ばれる。
けれども、いくら山の民が獰猛な戦闘民族といえどもその数は数千、それに対する王の弟側の軍として迎え撃つのは8万の兵(左丞相である竭氏(けつし)の軍)。とてもじゃないが正面でぶつかって勝てるわけがない。
そこで政たちは一計を案じることにする。反乱を起こした竭氏は、この後に呂氏の大群が攻めてくることを知っているので、いまはできるだけ兵が欲しい。そこで山の民から同盟を持ち掛ければすぐにとびついてくると予想されるわけだ。
幸いにも、獰猛な山の民たちは独自の仮面をかぶっているので、そこに仮面をかぶった政たちを紛れ込ませることで、戦闘を経ずに王宮内部へと侵入できる。そこで王の弟を討ってしまえば少人数でも勝てるという算段だ。
いいねいいね、なんか単に戦闘だけでなく、こういう中国の故事成語に登場しそうな策略を張り巡らせるところがいい。味方の兵と思わせて仮面をつけて内部に侵入するとか、そういう故事成語ありそうじゃん。
ワクワクしながら3巻を読み終えた。体勢はきつい。
キングダム 4巻

完全に体が痛い。

もういちど同じ画像を出させてもらうけど、堤防の上部と下部はかなり視点から遠い。上部はマイケルジャクソンだし、下部はしゃがんで読む必要がある。
そして、この堤防のマンガ、ページが縦に配列されているのだ。

だいたい10ページくらいが縦に配列されている。上から下に読んでいく。つまり、マイケルジャクソンして、しゃがむ、を10ページ読む間にしなければならない。これはもう米兵とかがやる異常に負荷の高いスクワットだ。3巻まで読んだ時点ですでに太腿の筋肉がバカになっている。どうなってんだこれ。
さて、4巻はいよいよ王宮内部に侵入する。全体的にアクションが主体で手に汗握るシーンが多い。読んでいる僕の方も体中の筋肉を駆使しているのでほぼアクションシーンだ。読者諸兄は手に汗握ってくれているだろうか。
そして、ここで王の弟である成蟜(せいきょう)がしっかりと登場してくる。成蟜は敵役として存分に「悪」を発揮して描かれていた。こんな悪い奴おらんだろくらいの悪さで描かれている。
キングダム 5巻

内乱が決着し、政が王の座を取り戻す。竭氏は山の民によって首を取られ、成蟜は幽閉されることとなった。戦いを終えた山の民は山へと帰っていく。山の民、獰猛でほんとかっこよかったな。
王座奪還に貢献した信は家を与えられ、ここまで行動を共にしていた河了貂と住むことになった。与えられたのはボロ屋だったけど、下僕だった信にとってはじめて我が家と呼べるものだった。
ここで王騎なる大将軍が登場する(もっと前からちょくちょく出てたけど、ここでクローズアップされる)。このキャラがかなり個性が強い。めちゃくちゃ体がでかいし、なぜか喋り方がオネエっぽい。
僕、出てきた瞬間に雰囲気で分かったよ。実写版で大沢たかおさんが演じて、さんざんネットミームみたいになっていたキャラでしょ、これ。主婦がなんかしてたやつでしょ。
大沢たかおさんが演じるということは絶対にモブキャラでは終わらないはずなので、王騎はこのあと重要なキャラになっていくとこまで読めた。
ということで、5巻までで王都奪還編が終わり、ここから新たな展開が始まるようだ。
5巻の後半では、いよいよ信が兵士として戦場に向かう様子が描かれる。ここでは当時の中国での戦というものがどういうものだったか詳細に説明されている。これから描く当時の戦のチュートリアルみたいなパートだ。
なかでも興味深かったのが「伍」と呼ばれる5人一組の基本単位だ。5人一組で戦ってお互いに補強しあうのがもっとも効率的な戦術とされていた。この伍を束ねる伍長がリーダーとなる。
初陣となった信も伍を作ろうとするが、当然ながらガタイがいい男や名前が知れている男が人気となる。弱いものと組むとすぐに死んでしまうからだ。
見た目が少年のような信も当然に売れ残ってしまい、余り者で伍を組むこととなる。そうして同じく売れ残っていた羌瘣(きょうかい)たちと組むことになる。
お、このキャラクターは知っている。どこかで見たことがあるので重要なキャラクターなのだろう。
この流れで行くと、おそらく羌瘣は強い。すでに強者のオーラが出ている。つまり、余り者で組まされた最弱の伍なのに、この伍には信がいるわ、羌瘣がいるわで、めちゃくちゃ強いという展開がくるはずだ。僕もそうだけど、こういう展開ってみんな大好物だよな。
ということで、伍も組み終わり、いよいよ信の初陣がはじまった。
ああ、本当に体が痛い。
キングダム 6巻

たいへんなことになってしまった。
6巻まで到達した時点でめちゃくちゃトイレに行きたくなった。でも安心してほしい。ここは堤防とは言っても公園に隣接している場所なので、公園に戻ればトイレがあるのだ。

ただ、そのトイレが異常に遠い。中央左に朧気に見える尖った建物が、さきほどいった展望台付き施設だ。あそこまで行かないとトイレがない。
あそこまで行ってトイレをして戻ってくる。これだけで15分くらいかかりそう。とんでもないことだ。
ヒーコラいいながらトイレまで歩き、またヒーコラいいながら戻ってきた。
頻繁にトイレに行きたくなったらタイムと体力のロスが大きいぞと思いつつも、基本的に読み進めれば読み進めるほど掲載位置は公園側になるので、トイレとの距離が近くなる。その点では希望の光みたいなものがある。早く読み進めなければ。トイレに近づかなければ。
6巻では全般的に戦闘の様子が描かれている。魏国(敵国)の装甲戦車隊という異様に殺傷力の高い兵器まで飛び出してくる始末。本当に当時にこんな兵器があったのかよ。めちゃくちゃ強いし残虐じゃないか。
あまりに気になったので史実を調べてみたら、このキングダムで描かれている春秋戦国時代においては、ちょうど農機の普及とともに鉄器が発達した時期で、その鉄を使った戦車が登場してきたらしい。戦車の数が勝敗を左右するとまで言われていたらしい。現代の戦車とは異なり、チャリオットという、馬に引かせる車輪付きの箱だ。なるほど、ここまで残虐だったかどうかは定かではないけど、戦車としては存在していたようだ。
さて、ここでキングダムファンの皆様に謝らなければならないことがある。
僕が佐賀空港のキングダム展の時点で述べた感想だ。

未読状態で見てしまったため、この悪そうな顔は敵役だろと述べてしまったが、秦国側の将軍だった。つまり味方だった。敵だろ、とか言ってしまって申し訳ない。麃公(ひょうこう)というけっこうな猛将らしい。
ただ、「悪そうな顔しとる」「敵だろ」というのは自分のセリフながら的を射てると思う。なぜなら、あくまでも主人公サイドの味方というだけで、別に正義でも善でもない。敵国サイドから見れば敵でしかないわけだ。ただ、このキングダムでは秦国視点で描かれているから味方というだけだ。
何気なく空港で発した「悪そう」だけど、けっこう「戦争とは何か」みたいな核心に迫る言葉だったように思う。なにが悪でなにが善なのか、図らずも深く考えることになってしまった。
それはそうと、喉が渇いたけれども、自動販売機はトイレに負けず劣らずの、遥か先にあるので我慢するしかない。何か飲むとまたトイレ行きたくなる可能性もあるしな。ここは我慢だ。
あ、あと、予想した通り、やっぱり羌瘣がめちゃくちゃ強かった。人間離れした強さだった。
こういう、ちょっと謎めいていて無口でめちゃくちゃ強いキャラ、しかも濃厚な男ばかり出てくるこの作品において、ほぼ紅一点(この時点では気付かれていないがあとで女性だと判明する)。こういうキャラクターは人気あるだろうなってわかる。おまえらそういうキャラ好きだよな。ほむらとか。
キングダム 7巻

キングダムが70巻以上の大作であることを考えると7巻は序盤だ。序盤もいいところだ。だって1/10だもん。
この序盤戦はその堤防のスロープ角度の問題もあって読みにくいのだけど、それ以上に読みにくくしている要因がある。
それが、やってきた人たちの記念撮影だ。
前述したとおり、けっこうひっきりなしにやってくるキングダムファンの人たちは、とりあえず「1巻は300m先」の看板に驚きつつ1巻の場所までくる。
そして、だいたい1巻の場所で記念撮影をする。その際に、マイケルジャクソンみたいになって熟読している僕はかなり邪魔になると思うので、撮影の気配を感じたらさりげなく堤防から離れるようにしている。つまり米軍式にスクワット動作に、堤防から離れる動作まで加わることになる。これが読み進める際の大きな障害となる。
だいたい、10巻ぐらい読み進めれば、1巻の場所で記念撮影する人たちの画角から外れそうなので、頑張ってそこまで耐えるしかない。
7巻では相変わらず戦闘が続いており、主婦たちのネットミームとなっている王騎将軍が乱入してカオスな展開になる。最終的に将軍同士の一騎打ちとなる。
このあたりは将棋と同じだ。というか当時の戦いはほとんど将棋だ。それはゲームとしてのルールではなく、将軍が殺された軍は意気消沈してしまい、いくら数で圧倒していようが負けという点だ。将棋でいうところの王を取られる状態だ。将軍を取られたら負け、それが絶対的ルールとして存在する。
あと、雰囲気的に一騎打ちに横から手出しができない感じがある。タイマンにちょっかいかけるのは野暮というやつだ。将軍を取れば勝ちなのだからみんなで囲んでボコボコにすれば良さそうなものだが、それは野暮というやつらしい。当時の戦は、そういった戦術としては非効率ともいえる側面が強かった。
最終的に僕が間違えて「敵だろ」といってしまった麃公が一騎打ちを制し、この戦では秦国が勝利を収めた。
キングダム 8巻

信の初陣となる魏国との戦いが終わり、8巻では政の過去の話が展開される。単刀直入にいうと、この政の過去編がめちゃくちゃよかった。
正直に言うとここまでフーンという感じで読んでいたけど、8巻で一気にキングダムの世界に引き込まれてしまった。
王宮内には後宮(こうきゅう)と呼ばれる閉ざされた世界がある。そこには美しい女性が集められており、夜の伽(とぎ)相手をすることになっている。王家の跡取りを生むためだ。
後宮の女の中でも比較的に地味な向(こう)に政から何度も声がかかるも、政は手を出してこない。どうやら誰かを呼んでいる間は干渉されることはないので読書に集中できるということで向に声をかけているらしい。
けれども、徐々に向に対して心を開いていく政は、自分の過去の話を始める。
政はいまでこそ秦国の王であるものの、幼少期は人質として母親と共に趙国で暮らしていた。どうやらこれは史実どおりらしく、妾の子であったために王位を継ぐ可能性はないとして人質になっていたようだ。
趙国では秦国および秦の人間は信じられないレベルで憎悪の対象になっていた。
これは前の王の時代に起こった「長平の戦い」で起こった恨みに起因する。戦いに勝利した秦の将軍「白起」は、投降した40万人の趙軍兵をその場で生き埋めにする虐殺を行った。40万人というと相当なものだ。ちょっとした中心都市の人口に匹敵する。それを生き埋めにしたわけだ。
その恨みは秦人である政と母親に向かっており、とんでもない暮らしを強いられ、迫害を受けた政はすっかり心を閉ざして生きる気力を失っていた。
しかし、当時の秦王が没したことにより、突如として政が次の太子(王の位を継承する第一順位の男子)となるため、趙国を脱出させて秦に戻す計画が生じた。当然、趙は人質としての重要性が増したので趙から出すまいとする。
政の脱出計画を請け負ったのが闇商人である紫夏(しか:史実には登場しない架空のキャラクター)という女性だ。
この紫夏がとても魅力的な女性で、太陽のような輝きで心を閉ざした政を回復させていく。趙国政府に気付かれないように、いつもの商取引のように見せかけて数々の関所を突破していく。
この紫夏と政の脱出劇は本当に素晴らしい。ぜひ読んで欲しい。あまりの結末に、
「紫夏……」
と堤防でしゃがみ込んで泣いてしまった。まさか自分の人生で堤防で泣く日がくるとは思わなかった。
8巻の表紙は紫夏。堤防掲載のマンガにはしっかりと表紙も載っているので、その姿をみてまた涙してしまった。
キングダム 9巻

とんでもないエロい格好をしたギャルが2名やってきた。なぜキングダムを読むのにそんなエロい格好が必要なのか問いたくなるほどのエロい格好をしたギャルだ。
さて、エロいギャルはさておき、9巻では羌瘣の強さの秘密と過去、そして宿命みたいなものが明かされる。あと、実は羌瘣は女だったということが明かされるけど、たぶん僕は実写化かなにかのCMを見ていたので最初から女であることはわかっていた。
8巻の後半からこの9巻にかけて、呂氏が放った暗殺者集団が政を狙う展開になる。その集められた暗殺者の中に羌瘣の姿があった。
羌瘣は伝説的な暗殺一族である蚩尤族(しゆうぞく)であることが判明する。本来、蚩尤族の暗殺者は血も涙もなく冷徹に暗殺をこなしていく存在だが、羌瘣は同じ伍で戦った信を斬れないでいた。
重く深い羌瘣の宿命、羌瘣は姉的存在を卑怯な手で殺した仇を探していた。その目的のため色々な国に出入りすることが可能であると兵士を志願したのだ。
もしかしたらこの際どく攻めたエロい格好のギャルもこういう格好をしなければならないという宿命を背負っているのかもしれない。悲しく重い宿命があるのかもしれない。人は人知れず何かを背負っているものだ。でも、たぶんそれはない。
キングダム 10巻

10巻では、ついに噂でしか聞いていなかった呂氏が登場してきて、王である政と相まみえることになる。呂氏は王の血を根絶やしにして自分が王の座に座ることを画策しているのだ。ただし、表向きは王を支える役職なので、そんな態度はおくびにも出さない。王である政も表立って敵意を見せない。化かしあいというやつだ。
ここで同じ秦国内であっても、王派と呂派に分かれる構造が明確に描かれることになる。
そして、信は、このままじゃダメだと悩んでいる。強くなるためにはどうしたらいいか。考えに考えた末、王騎将軍に弟子入りすることを決意する。あのさんざんネットミームにされた大沢たかおさんだ。
弟子入りした信は、王騎によっていきなり崖から突き落とされる。
落とされた先は秦国の無国籍地帯。ここでは小さな部族が覇権を争って小さな戦争を起こしている。王騎の命令は、この無国籍地帯の中でもとりわけ小さい部族を率いてこの地を平定しろというものだった。弟子入りはそれができたらという感じだった。
正直に言うと、僕はこういう展開にむちゃくちゃワクワクする。きっと次の11巻では、なんとか苦労しながらこの地を平定しようとする信の姿が描かれるはずだ。
「これはワクワクしますなあ」
ついつい呟いた僕の言葉は、堤防の奥へと消え行った。
この無国籍地帯は、何万の軍勢みたいな戦と比べて規模は小さいし、どの部族もろくに兵器もないのでかなり低レベルな戦いなのだ。信の強さをもってすれば無双できるはず。ただ、その地を平定するというのは真っすぐな強さだけではどうしようもないはずだ。人心を掌握しなければならないだろうし、ときには汚い手や残酷な手を使う必要があるはずである。その過程を通じて信が本当の強さみたいなものを手に入れるはずだ。
僕はこういう展開に弱い。
こりゃ早く11巻が読みたいぞ!これがネットカフェとかだったら急いで本棚に取りに行くし、電子書籍で読んでいたらすぐに11巻をポチる。でも、ここ堤防では1歩横にスライドすれば11巻が読めるのだ。この点は素晴らしい。
ワクワクするな!この展開!信はどうやってこの地を平定するのか。
急いで一歩横の11巻の場所にスライドした。
キングダム 11巻

あんなにワクワクしたのに、11巻になると「3か月かけて平定した」と、いきなり1コマで無国籍地帯を平定してた。まったく過程が描かれていなくてビックリした。1巻くらい読み飛ばしてしまったかと思ったほどだった。
王騎の課したミッションをクリアしたので弟子として成長する信の姿が描かれるかと思ったけれども、それもないようだ。
いきなり攻めてきた趙を迎え撃つために王騎を総大将として出陣することになったのだ。それに信も駆り出されていく。
ここからは趙を迎え撃つために馬陽という場所で戦うため、馬陽の戦い編となる。

堤防の上には、節目の目印として「ここから馬陽の戦い編」という看板が設置されている。親切な設計だ。
それにしても、ダイナミックな空と雲、美しい干潟、堤防、馬陽の戦いという謎の表記がされた看板、その下に漫画という、下手したらAIが出力しかねない支離滅裂な画像だな。

試しに出力してみたらこうなった。けっこういい感じなのだけど、やっぱ堤防に漫画が描かれているところは理解できないらしい。
さて、この節目の看板、その存在はけっこう手前で感じ取れるので、あそこまで読んだらひと段落着くんだなと目安にできる。
ただし、なんか看板あるぞ。ちょっと早いんじゃないか。いまの展開は終わりそうにないぞ、これまた無国籍地帯の戦いみたいに1コマで唐突に終わるんじゃないか、と思いつつ、問題の看板に到着するとこういうこともある。

「のぼるとキケン」
なんかキングダムにひっかけたそういう演出かなとしばらく考えたけど、これ単なる堤防の注意看板だ。この企画で堤防に人が来ることを予想して新たに設置した看板の可能性もあるけど、これ、もともと堤防にあった看板じゃないかな。ちょっと年季が入ってるもん。
キングダム 12巻

12巻では、王騎がかなり優秀な将であることが描かれる。そして重要な展開がある。
王騎の作戦は、乱戦に持ち込みつつも、敵の優秀な将を一人づつ始末していくこと。この時代の戦は、将さえ取ってしまえば、いくら兵士が残っていようとも士気が落ちるので、勝ちになるというものだった。
それをするため、正面からぶつかりつつも、ひっそりと脇に回り込んでどさくさにまぎれて将を討つ作戦をとる。そのひっそりと脇に回る役目を命じられたのが信たちの部隊だった。
信たちの部隊は王騎によって飛信隊(ひしんたい)と命名される。まさに飛ぶように奇襲をかける部隊だ。
作戦通り、敵軍の脇をつくことができた飛信隊。紆余曲折を経て信は敵将の首を取ることに成功する。
最初から思っていたのだけど、信はけっこう人を殺すことに躊躇がない。そこに葛藤みたいなものもない。とは言っても決して人の命を軽んじているわけでなく、人の死を悲しむし、涙も流す。人の命の重さを知っている。けれども戦になるとそのリミッターみたいなものが外れる。
おそらく、当時の戦においてはそれが普通だったと思う。けれども、これをマンガの主人公サイドでやられるとけっこう怖い。
僕はこの時点で、キングダムという作品における矛盾というか、歪みたいなものを感じた。ただ、これは多くの創作物で避けて通れないものだ。
この小さな歪は、ここから先のかなり壮大な展開を経て、解決というか、自分なりの一定の理解みたいなものに近づける。ただ、この時点ではそれは小さな種でしかなかった。
キングダム 13巻

めちゃくちゃ疲れてきた。
もちろん、体勢がきつくて、米軍がやる極度に負荷の高いスクワットみたいになりながら読んでいて太腿はパンパン、全身も疲れ果てているというのもあるけど、精神的にもかなり疲れている。
なんというか、キングダム、めちゃくちゃ面白いんだけど、なんというか、カロリーが高い。そう、カロリーが高いんだ。
普通の日常系のマンガの数千倍くらいカロリーがある。よってめちゃくちゃ疲れる。
ただでさえカロリーにやられているのに、13巻では龐煖(ほうけん)というめちゃくちゃカロリーが高い敵役が出てくる。
趙の将軍である龐煖が飛信隊の前に立ちふさがるのだけど、この龐煖がでたらめに強い。こんなの倒せねえだろと絶望してしまうほどだ。もうめちゃくちゃハイカロリーだ。
ここからどんどんカロリーが上がっていくのだろうか。体と精神がもたないぞ。一抹の不安を覚えた。
キングダム 14巻

ハイカロリー敵将である龐煖と羌瘣が相まみえる。ここでデカコマが登場する。

このシーンはめちゃくちゃ印象的なシーンらしく、通りがかったカップルが、いいよね、このシーン、「トーン、タン、タン」と羌瘣が見せる呼吸を真似して見せた。イチャイチャしてた。どうせアパートに帰ったら夜の呼吸ってことで似たようなことするんだろう。
羌瘣は独自の呼吸を使って戦う。ここはファンにとっても納得のシーンというところだろう。
皆さんお気づきかもしれないが、ここ読破堤ではこのように名シーンは特段に拡大された大きさで掲載されている。堤防に掲載された状態なのでスケール感がバグるんだけど、その下のコマが普通の単行本の紙面と同じ大きさなので、トーンタンタンのコマはかなり巨大であることがわかってもらえると思う。新聞の一面の2倍くらいはあるんじゃないかな。
これがすごくリスペクトを感じていい。この読破堤、干潟の堤防にキングダム全巻の全ページを掲載するという、佐賀県が悪いハーブでもキメてしまったみたいな企画なのだけど、そこにリスペクトがあるから素晴らしいのだ。
どういう過程を経たのか分からないし、この企画にかかわった人のうちの複数の人が何かをキメているとしか思えないし、いまだに会議で否決されるべきものだと思っているけど、その結果であるこの企画からふんだんにリスペクトを感じるのだ。
堤防に全巻の内容を載せましょうやとなったとき、そこは「全巻を載せる」がメインとなるので、そのままザーッと機械的に掲載しがちだ。悪い言い方をすると全巻を掲載するだけで満足しがちだ。
けれどもそうではなく、多くの人の心に残っている名シーンをこうやって大きく印刷する。のんべんだらりと載せているわけではなく、大きくするコマの選定過程に愛があるのだ。それがきっと、企画者による作品へのリスペクトにほかならないのだ。
こういったリスペクトを感じる企画だからこそ、こちらもリスペクトを持ってしっかりと読破していきたい。体は痛いけどやるぞ。
キングダム 15巻

15巻では熱い展開が待っている。まず、ハイカロリー将軍である龐煖と王騎(大沢たかお)の一騎打ちがある。龐煖はあまりに強すぎて羌瘣では倒せなかった。そこで王騎の出番というわけだ。
そして、趙軍の李牧(りほく)という男が本格的に登場してくる。こいつが情報封鎖を行っていて、どうも10万からの趙軍の兵士を隠しているのではないかという疑惑が持ち上がる。
秦の王騎は、まだ趙軍の援軍は到着しないという算段で前線へと出ていたが、10万の兵が隠されているとなると話が違う。一気に苦境に立たされる可能性がある。
いまでこそ情報の重要性は多くの人が知るところだけれども、この時代にそれを知り、それを操る戦術を用いる李牧という男、この事実だけでただものではないことがわかる。
このあたりは、あまりに武が強すぎる龐煖と、頭が切れて情報を操る李牧。趙国が秦にとってあまりに巨大な敵だと理解するしかない巻だった。
情報を操る。それは本当に重要だ。
15巻まで読んでわかったけど、これ今日中に読むのは無理だ。そろそろ日が暮れそうだ。
ということはどこかで宿泊しなければならないのだけど、僕はあらかじめこうなることを見越してホテルを予約していた。それも格安のホテルだ。まさに情報を操っているわけだ。
情報弱者という言葉からも分かるように、現代社会では情報を操ることはすなわち社会での強さに直結する。けれども、中国の戦国時代においてそれをしている李牧、けっこうイケメンに描かれているし、ただものじゃない描写もあからさまだ。おそらく作品を通じて最大の敵みたいになっていくはずだ。
キングダム 16巻

王騎ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!
こんな展開が許されていいはずがない!
王騎ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!
キングダム 17巻

16巻までで馬陽の戦い編は終わる。ここでは次の展開への場繋ぎの巻だろうか。
王騎の死から1年が経過し、王騎の矛を受け継いだ信は三百人将に出世していた。当時は束ねる兵士の人数によって百人将、三百人将、千人将などとランクアップしていく。5人を束ねる伍長から数字が増えていくわけだ。下僕出身の信がついに三百人をまとめ上げるまでに出世したのだ。
ちなみに、僕の場合は、職場で僕の下には誰もいないので明確に零人将である。それは果たして将なのかという疑念も残る。
この巻では、春秋戦国時代の各国の微妙な関係と、統一のむずかしさが描かれている。この時代に覇権を競った有力な7つの国は「戦国七雄(せんごくしちゆう)」と呼ばれていた。信や政のいる主人公サイドの秦、李牧などがいてたぶん最大の敵になってくる趙、南にある強国:楚(そ)、斉(せい)、燕(えん)、魏(ぎ)、韓(かん)だ。
この七国が微妙なバランスによって成り立っている。例えば、秦が本気で韓を滅ぼそうと軍を出したとしても、韓攻めで兵が手薄になったところを他の国に攻め込まれる。だから本気でどこかに攻めるということができず、何百年も睨みあいが続いていた。
そんな折、秦にやってきた李牧によって秦と趙の同盟、秦趙同盟が結ばれる。それは完全な同盟というよりは、とりあえず一定期間、お互いに攻め込むのをやめないか、というものだ。一方だけでも攻め込まれる心配がないということは両国にとって大きなメリットがある。安心して他の場所を攻められるからだ。
ちなみに、策略によって王騎をはめて殺した李牧は秦国では恨まれていた。特に信は信頼する師匠を殺されたことに深い怒りをもっていた。では、なぜそんな殺されてもおかしくない秦国にノコノコと李牧がやってきたかというと、これには呂氏が絡んでいる。
李牧のいる趙国は李牧は優秀だけど、王はけっこうどうしようもないらしく、そのどうしようもない王や側近たちに振り回されている李牧という構図が見えてくる。
そのどうしようもない趙王が溺愛する春平君という美少年を呂氏が拉致した。春平君を返して欲しいならば李牧を迎えに来させろと要求した。趙王はけっこうどうしようもないので趙国の戦術において重要な李牧でも平気で行かせてしまう。それくらい春平君に夢中なのだ。
殺されてもおかしくない李牧、それでも同盟を持ち出してそれを成立させることで切り抜けるのだ。
さて、この巻では主人公である信の目標が示される。百人将、三百人将と出征してきた信だが、5年以内に将軍の座を目指すことになる。けっこう大きく出たな。
キングダム 18巻

エロいシーンあり。
キングダム 19巻

18巻から19巻にかけて、魏攻略が始まる。同盟によって趙は攻めてこないので安心して魏を攻めようというものだ。
ここでは攻城戦が繰り広げられるのだけど、秦軍はあっという間に魏国の城である高狼城を攻め落とす。ここでさらに重要な展開がある。
信はそこで行われた虐殺、略奪行為を目撃してしまうのだった。当時、侵略された城は侵略者によって蹂躙されるのが普通だった。
金品は奪われ、女性は犯され、男と子供は復讐の芽を摘むため虐殺される。高狼城を攻め落とした秦国の千人将とその配下の兵士たちも攻め落としたハイテンションのままに蹂躙行為を始める。
この19巻での略奪および虐殺行為とそれを目撃する信の怒り、これはキングダムという作品のターニングポイントでないだろうか。
虐殺行為を目の当たりにした信は怒り、すぐにやめるように本来は同じ秦国の仲間であるはずの千人将に詰め寄る。しかし、千人将は悪びれる様子がなく、こちらが殺されてもおかしくない戦を勝ち抜いて城を攻め落としたのだ、占領されるとは全てを奪われることだ、好きにさせてもらうと反論する。逆に自分たちの国が占領されれば同じことをされるのだ。
おそらく、この考えがこの戦国時代においては当たり前の正論だったのだろう。けれども信は虐殺行為に怒りを持ち、同じ秦国の仲間である千人将を斬ってしまう。
これで、主人公である信と飛信隊は虐殺行為を行わないという立ち位置が決定的になった。
史実によると、信のモデルである李信は虐殺行為を行ったとも行わなかったとも記録されていない。ただ、当時の常識から言って虐殺行為がなかったことはないんじゃないだろうか。
だから、信のこの立ち位置はキングダムオリジナルのものだと思う。そして、これこそがキングダムにおける歪であり、作品としての奥深さになっている気がする。
信が虐殺行為に怒りを見せるのは信の主人公性によるものだ。みんなに応援されるタイプの漫画の主人公が、戦に勝ったら村人の女を犯して子どもを殺して、遊び半分で虐殺する、奪う、犯す、殺す、では主人公として応援されない。
本来、攻め落とした村などでこれらの虐殺行為をしないことは将として合理的な考えなのだ。なぜなら、攻め落とした後に村を統治をする必要があるからだ。虐殺によって残された人に深い恨みを抱かれたのでは統治どころではない。
ただ、これは統治を考えるレベルの上の方の将の話で、この時点の信が統治まで考えて虐殺に反対するのは不自然となる。そこまで打算的ではない。
怒りを持った理由が「なんだか許せねえ」なので、そういう魂の熱い部分が拒否したような形になってしまう。ただそうやって熱さで拒否する形をとると、バッサバッサと敵兵や敵将を無邪気に殺すところとの整合性が難しくなる。
その立て付けとして「俺は大将軍になる」だからこんな虐殺なんてバカみたいなことしてられねえんだ、となる。
戦において当たり前の虐殺行為と、信の主人公性、その矛盾みたいな部分が、今後、このキングダムという作品を深いものへと変貌させていくのだった。
なんというか、この巻には倫理観という側面での作品の覚悟みたいなものがある。重要なポイントだよ、これは。
キングダム 20巻

体が痛い。
かなり無理な体制で長時間読み続けたことが原因なのだけど、筋肉痛というわけではなさそうだ。
筋肉痛は筋肉を酷使した後に出る痛みだけれども、年老いるほどに出にくくなる。老眼に悩むおっさんがそうそう簡単に筋肉痛になるわけがない。これは筋肉痛ではなく単なる痛(つう)だ。単純に酷使されたことでダメージを受けているだけだ。

と、20巻まで読んで肉体的に限界を迎えたところで日没になってしまった。干潟に沈みゆく夕陽、なんちゅう綺麗な景色なんや。
あまりに素晴らしいので、ダイナミックな日没とキングダムの景色を何枚も貼っておく。



多くの人が訪れる読破堤だけれども、太陽が傾いて色付いたあたりから徐々に人の影が少なくなり始めていた。
さすがに日が沈み始めたらもう帰ろうかとなるみたいで、すっかり僕だけになってしまった。

ほら、無人でしょ。

しっかりと無人ですからね。
完全なるシャッターチャンス。人気があるスポットなので無人の状態を撮影しようと思ったらこういう時間しかない。
画像を見てもらってもわかると思うし、注意書きにもしっかりと記載されていたけれども、この堤防には街灯がないので、夜になると読むことができない。
ということで1日目はここまで。続きは明日に。

本格的に日が落ちる前にホテルに向かおうと、また長距離を歩いて70巻あたりの方まで戻った。
駐車場ではめちゃくちゃ地元のヤンキーみたいな人がたむろしており、めちゃくちゃ治安が悪かった。
とりあえず、早くホテルに移動して休みたい。体がギシギシだ。治安もあまりいいものを感じないので日が落ちきるまえに移動したい。

その願い空しく、読破堤がある場所からホテルがある佐賀駅前まではけっこう距離があったみたいで、車で30分くらいかけて移動しているうちのどっぷりと夜になってしまった。
2日目
この日に宿泊したホテルがすごかった。
佐賀駅前にあるカプセルホテルを予約していたのだけど、お値段は破格の1,500円。嘘でしょ。爆安すぎるでしょ。一桁間違えていて本当は15,000円じゃないのと思ったけどそれだとカプセルホテルとして高価すぎる。
これだけ安い宿なのだからアヘン窟みたいな場所を想定してちょっとビビっていたんだけど、チェックインしてみると普通に綺麗だし大浴場にサウナまであるし、おまけに駐車場まで無料だったし、ウェルカムドリンクまで飲み放題だった。明らかに価格設定が間違っているでしょ。
こんな素晴らしい宿をみつけた僕は完全に策士。完全に李牧。令和の李牧とは僕のことだ。

まだ薄暗いうちからチェックアウトし、読破堤へと向かう。昨日は到着が遅かったとはいえ日没までに20巻までしか読めなかった。まだあと50巻以上残っていることを考えるとスピードアップして読まないと3日目に突入する羽目になる。

読破堤のまわりはコンビニもないのでしっかりと朝ごはんを食べておかなければならない。途中の飲食店で食べているうちにすっかり明るくなってしまった。

2日目の読破堤に到着する。誰もいない。さすがに早起きしてキングダムを読むかという人はいないようだ。早朝もまたシャッターチャンスといえる。何度も言うけど、期間限定の人気スポットなので無人の状態で撮影するのは難しい。

本当に誰もいない。

また絶望的な看板を眺めつつ、昨日のうちに到達した20巻の場所まで移動する。さすがに20巻までくると移動距離は250mくらいになるだろうか。

この壮大なキングダム全巻を早朝の僕が独り占めだ。よし、2日目いくぞ。
キングダム 21巻

内容に全く触れてなかったけれども、21巻では19巻くらいから続く秦と魏の戦いが佳境になってくる。
特に、信が戦っている輪虎(りんこ)という二本の曲刀を使うやつが強い。そこまで強そうな見た目ではなく、どちらかというとモブっぽいのに強い。あと、20巻あたりから登場してくる桓騎(かんき)という将軍が重要な役割を担ってきそうな雰囲気を漂わせている。
なぜ桓騎が重要だと思うのか。それはもう、昨日の夕陽の時点で気づいた人がいるかもしれないけれども、ある画像から読み取れるのだ。その時の画像を見てみよう。

この壮大で美しい干潟の画像、その手前に看板があることがわかる。「桓騎注意」と書かれている。
この看板は新展開が始まりそうな場所に「この巻から馬陽の戦い」みたいに書かれているのだけど、なぜか新展開のところとは別に、桓騎が登場するところだけ「桓騎注意」の看板がある。他のキャラクターにはない。桓騎だけだ。
この事実だけで桓騎がものすごく重要なキャラクターか、もしくはめちゃくちゃ人気のあるキャラクターであることが伺える。
キングダム 22巻

めちゃくちゃに強い輪虎と信の戦いが決着する。この決着のシーンにおいて、あまりに唐突にそのシーンがやってきた。

「※過激な表現が含まれておりますので、佐賀の海苔で隠しております」
このコマがめちゃくちゃ大コマで出てくる。
みんな忘れてるかもしれないけど、ここは堤防だ。ただマンガが延々と印刷されているという特殊性から忘れがちだけど、堤防であり、公共の場所だ。
公共の場所でこんなズボッとなっている過激なシーンを出してはいけないという配慮なのだろうけど「なんで海苔で隠すねん」みたいな感想以前にもっと根本的な部分が気になってしまう。
ここまで読んだ人ならわかると思うけど、キングダム、さすが戦の話だけあってポンポンと首が飛ぶ。強い武将が出てきたら挨拶がわりに雑魚兵の首が20個くらい簡単に飛ぶ。一振りで飛ぶ。流れ作業のように飛ぶ。
そんな、首が飛ぶ残虐なシーンはそのままに、なぜかここだけ海苔で隠されている。なんでなんだろう。大ゴマだからかな。ちょっと基準が分からない。
キングダム 23巻

魏との戦いが終わる。戦いが終わると、飛信隊で大活躍を見せていた羌瘣が隊を離れることになる。自分が成すべきことを成してくるという理由だ。
そう、羌瘣が背負う宿命に決着をつけるために隊を離れるのだった。
それと同時に、物語の初期の王都奪還編で信と行動を共にしていた河了貂が戦の作戦を指揮する軍師として飛信隊に加わる。河了貂はなんとか戦においても信の近くにいたい、けれども女であり、羌瘣のような武力もない自分は軍師になるしかないと修行に出ていたのだ。
軍師、河了貂を加えた飛信隊の快進撃が始まる。
ちなみに、まだ読破堤に人の姿は見当たらない。完全に独占した状態で読み進めている。早朝状態は誰にも気兼ねせず読み進められるのでお勧めだ。
キングダム 24巻

どうしても仕方がなかった。本当はかなり長距離を歩くことになるのでなるべくトイレに行くべきではないのだけど、めちゃくちゃお腹が痛くなったので、公園の入口に戻ってトイレに行くことにした。
公園の入口あたりには老人がたくさんいた。読破堤は主に観光客に向けたものなので、早朝には人がいないけど、公園部分はけっこう大きなしっかりとした公園なので、早朝散歩などで地元の人に使われている。
色々なグループがあって、散歩や体操の後に雑談をしているみたいなのだけど、その中の一つの老人グループがずっと跡取りの話をしていた。けっこう切実な問題らしい。いろいろな人の噂話をしているっぽいのだけど、その人に跡取りがいるかどうかが重要な基準になっているようだった。もしかしたら伝統工芸の職人とかそんな集まりなのかもしれない。
ここ24巻でもちょっとそういう話がでてくる。単純に言ってしまうと王の跡取りに関連した話だ。跡取りを設けるために後宮という独立した組織があることはもう話したけれども、どうやらそこで不穏な動きがあり、呂氏陣営に味方していく動きがあるということだった。
そうそう、他の国もそうだけど、同じ秦国内での敵である呂氏をなんとかしなければならない、秦国にはそういう問題もあるのだった。これはけっこう厄介な感じがするよ。
不穏の空気をはらみつつ話が進んでいく。
キングダム 25巻

25巻ではとんでもないことが起こる。それと同時に読破堤でもとんでもないことが起こる。どっちから説明したほうがいいだろうか。
まずはキングダムの方から説明しよう。この25巻では戦が起こる。しかも秦国が攻められる。腰が重く、なかなか戦を仕掛けてこないと言われていた楚国が秦に向けて軍を放ったのだ。
と思ったら、魏国まで秦に向かって軍を放っており、趙まで参戦してくる。おまけに秦から距離的に遠いはずの燕と斉まで軍を放ってきた。もうめちゃくちゃ。
それらの国が合従軍を結成し、よってたかって秦を攻めて滅ぼしてしまおうとなったのだ。
この合従軍は、それぞれの国の利害が絡むのでそう簡単に結成できるものではなかったのだけど、何者かが裏で暗躍していたのだった。
そう、それは趙国の李牧だった。またも李牧だ。令和の李牧と呼ばれる僕でも「またお前か」と叫んでしまったけれども、堤防には誰もいないので恥ずかしくなかった。早朝で誰もいないと叫び放題だな。
とにかく、秦国が大量に攻め込まれて大ピンチなのである。
秦国はこれらの合従軍を函谷関(かんこくかん)で迎え撃つことにする。函谷関は秦の防衛の要所で強固な防御力を誇る城壁だ。函谷関がめちゃくちゃでかい門として描かれてい、圧倒的迫力でびっくりした。この絵を読破堤で見ると迫力の相乗効果が生まれるな。
ちなみに、函谷関は2014年に世界文化遺産「シルクロード:長安-天山回廊の路網」の構成資産として登録されている。その世界遺産の画像を見てみると、そこまで巨大な関というわけではないっぽい。それでも作品中ではめちゃくちゃ防御力が高い圧倒的な関として描かれている。
さて、読破堤で起こった大変なことも説明しよう。
早朝すぎて誰もいないと思われた読破堤だけれども、いつの間にか人がいた。気づいたら横にいた。誰もいないと思って令和の李牧が「また李牧か」と叫んだのだけど、それも聞かれてしまったことになる。
その横にいた人物が、なぜかハウスマヌカンみたいな髪型をした男性だったのだけど、そいつが26巻くらいから熟読しているのだ。
最初の方で、ここ読破堤では熟読する人は僕以外にいないと言ったけど、ここで熟読するハウスマヌカンが現れたのだ。しかも、腹立たしいことに僕より1巻さきに進んだ状態から熟読し始めた。そのくせに、さも1巻から熟読してますみたいな顔をしているのだ。
なんかおかしな感情だな。俺だけが熟読しているのにといった独占欲みたいなものが生まれつつある。
ただ、やはりよほど目が良い人じゃないと苦しいので、ハウスマヌカンも27巻くらいまで読んだところで帰ってしまった。
この読破堤は守備力が高い。読もうと思ってもなかなか読み進められるものではない。さながら函谷関(かんこくかん)だ。かんこくかんか、ハウスマヌカンか、といったところか。
キングダム 26巻

クソ、またお腹が痛くなった。またトイレにいくために何百メートルも移動しなくてはならない。完全に体が冷えている。それでお腹が冷えて下痢になっている。この腹痛の根本的な原因は体が冷えたことだけでなく、思い当たる節はある。ただ今は話すべき時ではない。
展望台のある建物のところのトイレに何度も行くのは、いまだその前でさきほどの爺さんたちが陣取っていた。僕のことを覚えていて「またあいつウンコにきよった」と言われたら嫌なので駐車場の方のトイレに行くことにした。

トイレを出るとある光景が目に留まった。駐車場脇にある田んぼだ。なにかいる。

鳥がいる。鶴なのかな。鶴っぽい鳥がまったく微動しない状態で棒立ちしていた。
その1時間後くらいにまた腹痛でトイレ行ったら、まったく同じ体勢で立っていたので、ずっと立っているみたいだ。ただ、僕の方がこの鶴よりずっと立っている自信がある。もう昨日からずっと立ってマンガを読んでいる。お前ら鶴は堤防でずっとマンガを読んだりしないだろ。なんだろう、やはり読破堤に対する謎の独占欲みたいなが沸いているな。
キングダム 27巻

相変わらず函谷関での合従軍との攻防が描かれている。この攻防はけっこう長いシリーズになりそうだ。そりゃそうだ、秦以外の国(直前に金で寝返った斉を除く)と秦の攻防なのだ。戦のスケールとしてはこれまでで最大だ。
二十七巻を熟読していると、ヤンキーみたいなグループが僕の後ろを通り過ぎた。
「すげえ」
「すげえな」
読破堤のスケールに圧倒されているようだ。会話の感じからすると、そこまでキングダムファンというわけではなく、地元で話題になっている場所があるからちょっと行ってみるか、程度のノリのようだ。
「でもさすがに、いくらキングダムの大ファンでも、これをここで全部読むやつはいないだろ」
ヤンキーは呆れたような口ぶりでいった。
怖いか。この俺が怖いか。大ファンというわけではなく、初見でこれを読破しようとしている俺が怖いか。昨日からずっと読み通しで、今朝も日の出とともに読み始めている俺が怖いか。
さしものヤンキーも俺のことが怖いとみえる。そうそうに立ち去ってしまった。せっかく来たなら読んでいけばいいのに。
とにかく、函谷関の攻防は手に汗握る展開の連続なので、ヤンキーたちもせめてここまで読み進めてきてほしい。おすすめだぜ。
キングダム 28巻

28巻では変わらず函谷関での攻防が描かれており、桓騎が大活躍する。28巻の表紙も桓騎なので、まさに桓騎の巻といえるだろう。
それにしても、桓騎という存在が不思議でたまらない。
確かに桓騎は強いし、イケメンに描かれているし、思いっきりのいい残虐性みたいなものが描かれているしで、他のキャラとは一線を画す存在であることはわかる。

ただ、この看板のようにわざわざ桓騎の登場シーンを案内するほどのものなのかと思えて仕方がないのだ。人気のあるキャラクターであるのは理解できるのだけど、ここまで特別扱いされる理由はわからない。
まだ僕の中での桓騎の評価は、残虐だけど格好いい、一風変わった将軍くらいでしかない。これがこの先に変わっていくのだろうか。
キングダム 29巻

まだ函谷関での攻防が続く。手に汗握る展開なのだけど、肉体的に精神的に限界を迎えつつあった。
早い話、もう勘弁してという状態になったのだ。
なんというか、特に心配することではないのだけど、こういったチャレンジ的なことをしているときには、ふと我に返る瞬間が訪れるのだ。
例えば青春18きっぷで5日間かけて日本縦断しているときなども、ふと我に返って「新幹線に乗れば一瞬なのでは?」「飛行機で移動すればいいのでは?」みたいに元も子もない考えがよぎるのだ。
今回に至っても、「普通に全巻を購入して家でロッキングチェアにでも揺られながら読めばいいのでは?いくら老眼でもそっちのほうがラクに決まってる」という考えがよぎる。
けれども焦ってはいけない。こういう元も子もない考えは、こういったチャレンジにおいては必ず生じるのだ。なあにハシカみたいなもんだ。しばらくすれば治まる。
キングダム 30巻

治まった。
この巻では、かなりの長さで描かれていた函谷関の攻防が別の展開をみせる。
秦を守護する函谷関とは別に、南側に武関という関があった。その関が攻められた様子も、破られた様子もないのに、その先にある華沙(かさ)という小さな城が合従軍の攻撃を受けたのだ。函谷関も武関も破られていないのにだ。
これも李牧の策だった。また李牧である。
李牧は函谷関の戦いが始まると同時に少しづつ兵を戦いから離脱させ、森に紛れ込ませていたのだ。誰にも気づかれることなく消えていった兵たちは森を抜け道なき道を移動して武関より内側の南道に現れる。函谷関の戦いに注意を惹きつけてやり遂げたのだ。
しかしながら、その李牧の策に麃公が気づいていた。僕が悪そうな顔だから敵だろと言った将軍だ。
こっそり南道を進む李牧たちの軍を追うようにして麃公軍と飛信隊が進む。
そして、ハイカロリーな敵であるところの趙軍の龐煖と秦国の麃公の一騎打ちが始まる。

空港で見たこのシーンは龐煖に敗れた麃公の最後を描いたものだった。めちゃくちゃいいシーンじゃないか。悲しく寂しいながらも、自分の内にある熱いものが震えるのを感じる。
こんな感動の名シーンを前にして「悪い顔、敵役だろ」なんて言えるやつが信じられない。人の心ないんか。
キングダム 31巻

31巻、32巻においての展開は、一言で言うと秦国の窮地だ。
まず、秦の都である咸陽では呂氏が不穏な動きを見せる。秦国が劣勢とみるや、暗殺集団を招き入れて王である政の首を取り、それを手土産に降伏して和睦を申し入れようとしていた。こいつ本当に嫌な奴だな。裏切ることしか考えてねえ。
また、麃公が龐煖に敗れたことにより咸陽を守る手立てを失ってしまったのだ。主要な兵はすべて函谷関の防衛に回されているので、とてもじゃないが咸陽を守れない。
政は、咸陽の手前にある蕞(さい)という城に目をつける。そこで籠城し李牧たちの兵を迎え撃つしかない状況だが、蕞の城にも兵士はおらず、一般人しかいない状態だ。ここが陥落するといよいよ都が落とされてしまう。それは秦国の負け、滅亡を示している。
絶体絶命の大ピンチ。もうだめだ。
しかしながら、この状況を打破するため、王である政が動いた。蕞へと趣いたのだ。そして兵士ではない民衆を鼓舞する。
王の言葉で闘志に火がつく蕞の民衆。ただの民衆が一気に戦力になった。
もちろん飛信隊も必死で戦う。なんとか防衛できるのではとおもったけれども、やはり戦局は良くなかった。特に夜通し行われる李牧のねちっこい作戦にひっかかってしまい、思いっきり劣勢に立たされる。また李牧だ。
いよいよもうダメだ。秦が滅びてしまう。
そんなところまで追い込まれてしまう。
キングダム 32巻

や、山の民……!!!!やまのたみいいいいいいいいいいいいいいいい!
(山の民好きなので、語彙を失うくらいに山の民が救いに来るシーンが最高:もちろん大ゴマ)
キングダム 33巻

長かった合従軍編が完結する。蕞の民衆を奮起させた政と、俺たちの山の民の活躍によって李牧たちは退けられ、合従軍は函谷関からも撤退を余儀なくされた。守り切ったのだ。
この戦の論功により信は三千将となる。三千人を率いるわけだ。いよいよ将軍の座が見えてきた。
また、この巻では同時に飛信隊を離れた羌瘣の敵討ちが描かれる。いよいよ羌瘣が背負う宿命に立ち向かうわけだ。
それと同じように、読破堤にいるこちらも宿命に立ち向かう時がきたようだ。
前日からわかっていたことだけど、この読破堤がある堤防と公園は、周囲に何も存在しない。見渡す限りの地平線と言っても過言ではない場所に立地している。
つまり、飲み物や食べ物を入手できるコンビニなどが存在しないわけだ。公園内に自動販売機はあるけど、けっこう遠い。それこそ60巻くらいまで読み進めないと距離が長くなってしまい現実的ではない。ほぼ兵糧攻めみたいな状況に追い込まれているということだ。
ただ、それ自体は珍しい事ではない。長いこと歩いたり長いこと電車に乗ったりする取材において、ほとんどが食物や飲料の入手に苦労している。まあ、自分でも旅程を優先するあまりそういう状況になりにいっている部分もあり、セルフ兵糧攻めみたいな状況であることも否めない。
そう、これは宿命なのだ。
その宿命を、こういう取材だから仕方がないと受け入れることはたやすいことだ。けれども、老眼ともいえる良い年齢になった僕は違う。いつまでもセルフ兵糧攻めではダメなのだ。自分の宿命に決着をつけなければならない。

ということで、朝の段階でめぼしい食料と飲料を購入し、マイバックに入れて持参していたのだ。完全に策士、李牧。これにより、食料と飲料で困ることはなくなった。僕だって進化してるんだ。宿命に打ち勝った僕は強いよ。
キングダム 34巻

羌瘣の敵討ちが終わり、帰るべき場所である飛信隊へと戻る。羌瘣がやっとたどり着いた、帰るべき場所だ。
前半戦でも書いたけど、この読破堤、読破とは名前がついているものの本当に読破しようと読む者は、僕以外にいない。早朝にいたハウスマヌカンもすぐに帰った。それくらい読破には過酷な状況なのだ。
やってくる多くの人はザーッと眺めながら、印象的なシーンなどを立ち止まって見ている。つまり、1巻からゆっくりと横にスライドしながら移動してくる奴は僕くらいしかいない。
けれども、稀に直立不動で好きなシーンを眺めている人にぶち当たることがある。その場合は、その3巻くらい手前から読む速度を調節して、到達する頃にはその人も満足して立ち去っているパターンにもっていく。
ただ、ここの巻では長いこと立ち止まっている夫婦がいた。けっこう口論というか、独自の解釈を語り合っていて、長居しているようだ。
激しく意見を戦わせているな、ちょっと時間がかかるかも、と3巻前からかなりゆっくり移動するようにして調節していたのだけど、到達してもまだ論を戦わせていた。
そんなに長いことなにを言い合っているのか耳を傾けたところ、
「もしかしたら自治会長の辻本さん死んだかも。さいきん姿をみない」
なかなかショッキングなこと話していた。
「きのう見た」
「いや、それは辻本さんのそっくりさん。いるんだよ自治会内に。それたしか高橋さんだよ。だから、依然として辻本さんの姿を見た者はいない」
「高橋さんは私も知っている。でも、私が見たのは辻本さんだった」
辻本でも高橋でもどっちでもいいけど、キングダム34巻の前でやらなくてもいいのではないか。
キングダム 35巻

34巻、35巻では、成蟜の起こした反乱について描かれている。成蟜とはキングダムのいちばん最初のシリーズ、王都奪還編に登場した敵役である王の弟だ。
成蟜は王都奪還編での乱の責任を取って幽閉されていたが、政が呂氏陣営に対抗するため、とりあえずこちら陣営の頭数を揃えようと幽閉を解かれていた。それから成蟜も改心し、成蟜派の人間も増えつつあり、徐々に勢力を増しつつあり、政の助けになりそうな雰囲気だった。
そんな折、事件が起こる。成蟜の妻・瑠衣(るい)がお祝いのために屯留(とんりゅう)へと向かった。それと同時に、敵である趙国が2万の兵を率いて屯留に向かったという報せが入る。大ピンチだ。
成蟜は妻である瑠衣を救うために自らが兵を率いて屯留に向かうと志願する。
屯留に到着し、趙国の兵を蹴散らした成蟜であったが、もともと屯留を治めていた蒲鶮(ほかく)によって捕らえられてしまう。
蒲鶮の狙いは、王家の血を引く成蟜を担ぎ上げての反乱だった。
実は、蒲鶮は呂氏と通じており、成蟜が反乱を起こしたという事実を作り出すことで民衆の心を王族から引き離す作戦だったのだ。悪いことに成蟜には反乱の前科がある。うってつけというわけだ。
成蟜が屯留にて反乱を起こした、という連絡が政にも届く。
もしかして成蟜ははめられたのでは、と疑問をもった政は飛信隊に成蟜の救出を依頼する。
ここでも成蟜の姿が完全なる善として描かれている。瑠衣を愛し、瑠衣を助けるために命を落とす。というか、めちゃくちゃかっこよくなっている。
王都奪還編では、あれだけの醜悪な悪として描かれていたのに、30巻くらいを経て成蟜の描かれ方がめちゃくちゃ変わっている。
これは最初の方で述べた、原先生の善悪感によるものじゃないだろうか。原先生は悪を一貫した悪として描かない。必ずそのあとに悪の中の善の部分を表現する。それは試合終了後のノーサイドの感覚に近い。あんな嫌な奴だったのに今や、というやつだ。人間の中にある本質的な善みたいなものを純粋に信じている気配すらあり、原先生の優しい人間観みたいなものが垣間見えるのだ。
この「成蟜の乱」は史実にも登場してくる。Wikipediaによると、
王弟の長安成蟜君が軍を率いて趙を攻撃した。しかし、屯留で反乱を起こした。反乱討伐軍として将軍の壁が派遣された。乱の詳細は不明である。反乱鎮圧軍の将軍の壁は死んだとされている。成蟜は屯留で死に、軍吏はみな斬首された。屯留の民は臨洮に遷された。屯留と蒲鶮の兵も反乱に加担したが鎮圧され、その亡骸は辱められたとある。
この史実の解釈自体も諸説あるようなのだけど、この記述を見るとけっこう普通に反乱を起こしただけにも見える。
成蟜は改心しており、反乱も呂氏にはめられたからであり、瑠衣を守ったというのは、原先生が付け足した設定である可能性が高い(史実では、壁(へき)という将軍がこの乱で死んだとされているが、キングダムでは初期から登場するお馴染みメンバーである壁が生き残っている)
そこまでして成蟜の善を描きたかったのだろうと思うと、原先生の思想はかなり強いのではないか、そんな風に考えてしまう。
キングダム 36巻

「史実という猛烈なネタバレがある中でキングダムは……」
僕の後ろを通り過ぎた男性二人がそんな会話をしていた。
そう、このキングダムは、古代中国の春秋戦国時代末期の争乱を背景とした作品だ。史実から見るに最終的には秦が天下統一を果たし、政が秦の始皇帝となることは分かりきっている。
もちろん、キングダムでは細部において史実とは違う展開や解釈、設定が散りばめられている。先の成蟜の乱でもそうだった。
けれども、負けた戦を勝ったことにするなど大枠でオリジナリティを出してくることはない。登場するキャラクターの性別や性格が史実と異なることはあっても、さすがに政が道半ばで亡き者になり秦が天下統一に失敗するという展開はないわけだ。
そういった意味では、最終的に秦は負けないし、政も死なない。ちょっと調べれば李信がどこまで活躍したかも分かるので、信の生死にすらハラハラドキドキする必要はない。下手したら、「〇〇の戦い」という部分すら、どちらの国が勝つのか分かってしまう。早い話、マンガの展開が数千年前から決まっている状態だ。
こういった史実に基づいた作品は壮大なネタバレを内包したものだといえる。
「作品においてネタバレがあるってのは致命傷だと思うけど、それを補う魅力がキングダムのどこにあるかというと……」
男性は淡々と話す。話の展開が上手い。意識しなくとも聞き耳をたててしまうし、続きが気になってしまう。とても興味深かった。しかし、男性の友人と思われる話し相手は違った。話が下手だった。
「そんなことよりさあ、この間、すげえことあったんだよ!」
そのトーンから、いつも理屈っぽいことをグダグダ述べてくる友人に嫌気がさしている感じだった。
「この間さあ、牛丼を食べに行ったわけよ」
史実という壮大なネタバレという興味深い会話から、一気に牛丼を食べに行った話に変わってしまった。話に脈略がなさ過ぎてちょっと怖い。
「それでさ、ぷぷぷぷ、すげえ笑っちゃうんだけど、ぷぷぷぷ」
話を遮った方の男は、笑いが堪えられないといった様子を見せた。
その彼の表情にふと目をやると、あの人に似ていた。
ネットミームとなった「チー牛」の人だ。チーズ牛丼くださいという画像が爆発的にネットで広まった。その後、「チー牛」という言葉が、イケてない男、オタクっぽい男、などを揶揄する呼称へと変わっていった。ちなみにあの画像、描いた人の自画像らしい。
けっこうチー牛っぽい見た目の男が、面白い話として笑いを堪えながら牛丼屋でのエピソードを語る。これ確実にチー牛関連のオチがくるだろ。チーズ牛丼を絡めてくるだろ。
絶対にチー牛がオチに来るという壮大なネタバレを抱えつつ男の話が展開されていく。
「俺さあ、自分でもめちゃめちゃあのチー牛の男に似てると思うんだけど、そんな俺がチー牛を頼むとさ、レジで店員の手が止まるわけよ」
「絶対に、心の中で、チー牛がチー牛を喰っとるとか、共食いみたいに思われているわけよ。絶対にそのワードが悶々と頭の中を駆け巡っているわけよ」
「そこでダメ押しで、チー牛を頼みました。と念を押すように言うわけよ。もう店員とかプルプル震えているわけ」
「そしたらさ、その店はさ、レジが2台並んでるんだけど、隣の客まで「チー牛頼みました」とか言ってるわけ、顔見たら、そいつ生き別れの兄弟かと思うほどにチー牛でさ、思わずハイタッチよ」
どうせチー牛ネタで来るという壮大なネタバレがあったのに、男の話はけっこう面白かった。史実だろうがチー牛だろうが、ネタバレがあっても面白いものは面白いということだ。でもハイタッチはちょっと盛っていると思う。
けっこうやるじゃん。興味深い話をした男性二人の後ろ姿に親指を立てて祝福した。
キングダム 37巻

35巻から続く魏軍との戦いに秦国が勝利する。咸陽の王宮において勝利によって得られた城をどうするか話し合っているところに意外な人物が現れる。
それが太后だった。太后とは政の母親であり、秦国の第三勢力とも言われる後宮を治めている存在だ。政と同じく趙国で不遇な経験をしており、政のことを恨んでいるというか、政に対して母親としての感情を持ち合わせていない女だ。
その太后が先の戦で得られた土地を後宮でもらい受けると宣言する。
得られた土地は維持するのにかなり金がかかる。そこに後宮の金を使うのは名案という雰囲気が広がる。
ただし、太后がその地に長官として送り込もうとした男は嫪毐(ろうあい)であった。嫪毐とは呂氏が後宮に送り込んだ男である。14巻のエロいシーンでは呂氏と太后の肉体関係が描かれていたが、あまりに貪欲に体を求めてくる太后に嫌気がさした呂氏は、性に強い嫪毐を後宮に送り込み太后の相手をさせていた。
「性に強い」という理由だけで起用される人生ってすごい。自分も性に強いという理由だけで起用されたい人生だった、と思って少しだけ史実の嫪毐について調べてみた。
嫪毐は巨根で知られ、宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという。
なんだこいつ。とんでもなくおもしろいやつじゃねえか。どれだけの巨根だったらWikipediaに「巨根で知られ」って書かれるんだ。なにをどうやったらイチモツで馬車の車輪を回すという思想に至るんだ。
王以外の男性で後宮に出入りできるのは、男性器を切除した宦官のみであり、巨根が売り物の嫪毐が性器を切除しないまま後宮に入れるにあたり、眉と髭を抜き取るなどして宦官のような容貌に変えさせ、さらに宮刑を執行されたという記録をでっちあげるなどの裏工作をした。
後宮に出入りできるのは男性器を切除した宦官とか衝撃の事実が出てくる。というか、たしかに後宮は王の跡取りを産むためのものだから、男性器を有した王以外の男が出入り出来たら托卵みたいなことができてしまう。理に適っている。
さて、そんな面白い事実ばかり出てくる嫪毐だけど、巨根を有したまま後宮に出入りできたのはやはり呂氏の力が強かったのだろう。
そんな嫪毐だが太后と共に反乱を起こし、毐国(あいこく)として独立することを宣言する。嫪毐ファンとしては目が離せない展開になってきた。
キングダム 38巻

嫪毐と太后による毐国建国の混乱の中、政の加冠の儀が執り行われる。
加冠の儀とは王が成人に達し正式に王として認められるための儀式である。これはつまり、秦国内の内部対立である政と呂氏の最終決着の場ということである。
政が加冠の儀を終えれば正式に王となる。呂氏はそれを阻止して自分が王位を手に入れたいと考えている。
そんな折、咸陽の王宮に嫪毐と太后の間に子どもがいることまでバレてしまう。隠し子のことを知った王宮は怒って兵を差し向けてくると予想し、太后は決意する。毐国側から先手を打って加冠の儀に合わせて挙兵するのだった。
ただ、怒り狂った王宮が兵を差し向けてくるという情報は呂氏の流したデマだった。呂氏は毐国の反乱軍に王族を皆殺しにさせ、その非道を民衆に知らしめながら自分たちが毐国軍を殲滅させ、王の座に着こうとしていた。ほんと、呂氏はいっつもこんな感じのことを考えてやがるな。
しかし、政をはじめとする王宮の首脳陣は焦る様子もなく加冠の儀を続ける。政たちは毐国軍の反乱を鎮圧する兵を差し向けていたのだった。
キングダム 39巻

キングダムの世界は裏切りの連続である。というか史実においてもこの時期は裏切りに次ぐ裏切りの連続だったようだ。人間の本質は裏切りであると思いたくなるほど、戦乱の世は裏切りだらけだ。
呂氏の企みは思い通りに進まなかった。呂氏陣営の昌平君の裏切りが起こったのだ。これでもどちらに転ぶかわからない。そんな瀬戸際に呂氏は突如として、天下について語り合おうと政に提案する。
政と呂氏が二人っきり国について語り合う。
呂氏は、貨幣制度、つまり経済によって中華を統一したいと考えていた。人は本質的に愚かで醜い。我欲の塊である。その我欲という人間の醜い本質を刺激し、秦を中華でいちばん経済的に豊かな国にすることで統治しようと考えた。思いっきり資本主義で、当時としてはかなり先進的だったと思う。これもう、春秋戦国時代のイーロンマスクでしょ。
さらに、人間の本質とはなにかという問いに政は大ゴマで答える。
「人間の本質とは光だ」

かあー、いいシーンを大ゴマにするなー。この読破堤を企画した人、わかってんなー。最初はちんぷんかんぷんだったけど、キャラへの思い入れなどが出てきた今、この大ゴマの演出はけっこう「わかってる」人が采配しているぞ。
凶暴性も醜悪さも人の持つ一つの側面ではあるけど、それは本質ではない。政はその中に光を見出している。
このシーンでめちゃくちゃ興味深いのは、現代社会は、むしろ呂氏の唱える社会になっているという点だろう。僕らは我欲にまみれ、誰かより豊かになりたい一心で生きている。SNSなんかみんなそうだ。僕らは刹那的な豊かさによって統治されているわけだ。
そこで、原先生が一貫して醜悪な敵役の中にも「善」を描いてきた事実と繋がる。キングダムにおいてそれは光を描いていたのだろう。つまり、呂氏のいう統治機構に近い現代において、それでも人の本質は光であると信じたい、その願望がキングダムには込められているのだ。
キングダム 40巻

人の本質は光である語った政は、趙で人質として虐待されていた時代に、光を失った経験を話す。
しかし、政の命を救った闇商人である柴夏の中に光を見出す。
「柴夏キタコレ」
柴夏ファンの僕としては、思いがけぬ再登場に堤防で声をあげてしまった。何度も言うけど、たぶんキングダムを初見で、この場で熟読しているのは僕だけなので、こうやって意外な展開に声を上げるのも僕だけだ。
柴夏をはじめ、命を落としていった者たちはみんなそれぞれに自分の中の光を輝かせていた。政が目指す世界はこれである。
「人が人を殺さなくてすむ世界にする」
このキングダムという物語の大筋がここにきて見えてきた。
そして、毐国の反乱に決着がつく。反乱は失敗に終わり、呂氏は負けを認める。呂氏は失脚し、反乱を主導した嫪毐は公開処刑されることとなった。そして、将来的な復讐の芽を摘むため、当然のように太后と嫪毐の間に生まれた子どもも処刑されることとなった。
ここで太后がなんとか子どもだけは救ってもらえないかと懇願する。あれだけ醜悪に描かれ、自分の子どもである政には愛情のカケラも見せなかった太后が、嫪毐との子どもだけは命を助けてほしいと、死ぬほど憎んでいる政に懇願するのだった。
これも、形は違えど太后の中の善の部分だろう。やはりキングダムにおいては一貫した悪は描かれない。悪の闇の中に必ず救いがある。光がある。人の本質は光なのだ。ただ、ここではその善は政には向いていない、それが寂しい。
人にとって、他人が悪に見えたとしてもそれはただの側面であり、かならず人の中には光がある。そう言いたいのだ。
キングダム 41巻

反乱を鎮圧させ、呂氏との争いにも勝利した政は、とりあえず国内においては心配がなくなった。
そこで、これからの在り方について信と話をする。政は秦以外のすべての国を滅ぼして中華を統一するのに15年と宣言する。
作中での信が驚いたように、これはかなりのスピード感だ。本当に15年で終わるのか。かなりハイスピードで戦いを仕掛ける必要がありそうだ。
ということで、この巻ではハイスピードに次の戦いが始まる。黒洋丘(こくようきゅう)の戦いだ。信が率いる飛信隊は桓騎軍の援軍として戦に参加することになる。
桓騎の登場。そう、桓騎注意というやつだ。

ここまでも、何度か桓騎は登場してきていて、型破りな戦いをする将軍で、なおかつめちゃくちゃ強いという印象だ。ただ、こうやって看板で注意を促されるほどのキャラクターには思えない。
ただ、これはもしかしたら、過激なシーンを佐賀県の海苔で隠した処置に近いのかもしれない。桓騎は型破りで強力な将軍であると同時にかなり残虐だ。漫画が違えば残虐超人と呼ばれてもおかしくない残虐さだ。
彼が登場してくると残虐な描写が増えてくる。敵を挑発するために虐殺した村人の遺体でアーチを作るみたいな描写がガンガンでてくる。
こういう過激な描写をなんのアナウンスもなしにいきなり出すのもいかがなものか、みたいな配慮かもしれない。
桓騎がでてくるということは残虐な描写がでてきますよ、という注意喚起かもしれない。桓騎だけに。
さて、どこかでも書いたけど、飛信隊および信はこの作品において主人公サイドということから、戦に身を投じているのに虐殺はしないという矛盾を抱えている。信と桓騎はそのスタンスでは正反対の立場をとっている。そんな信と桓騎はこれまでダイレクトに交わってこなかったけど、援軍という形でついに交わることとなった。
おそらく、この作品が抱える矛盾において大きな確執が生まれるだろうと予想される。それはずっと指摘してきた信の主人公性に決着をつける展開になるのかもしれない。
と思っていたら、案の定、虐殺に対する姿勢で桓騎と信がいきなり対立する。桓騎は略奪・虐殺、やりたいことはなんでもやるからそのつもりでいろと宣言する。
「ここで大人の戦いを覚えていけ」
このセリフはなかなか深い。虐殺を行わない飛信隊は桓騎軍からみて子どもの戦いに他ならないのだ。それは漫画の主人公として避けようのない少年性、主人公性を指摘されているというわけだ。
やはりここだよな。ここは避けて通れないよな。
キングダム 42巻

42巻まで進んでくると、体が痛いとかそんなことはなくて、痛みが麻痺してきて何も感じなくなってくる。
日が高くなって人が増えてきたために、僕の後ろを通りすぎる人たちも増えてきた。まだまだ序盤のうちは「やっと1巻にたどり着いたー」という人ばかりだったのに、42巻ともなると完全に中盤戦だ。後ろの人のセリフも「え、これ本当に1巻まで続く感じ?」みたいになっている。半信半疑というやつだ。

ちなみに、この読破堤の裏側はなにか新しい施設を作るための工事が行われている。昨日は工事が休みみたいな感じだったけど、今日はバリバリにやっている。
ギガガガガガと工事音が鳴る傍らで全巻読破をしなければならない。こういった工事の音と読書は相性が悪い。
「あ、工事やってる」
「仕方ないとはいえ、読書と工事音は相性悪いね」
ちょっと年配っぽい男女が僕の後ろを通り過ぎながらこんな会話を交わしていた。
「いやいや、ここで集中して読書する人はいないでしょ。好きなシーンをみるだけだよ」
男性の方がそんなことを言っていた。男性の言葉は正しい。ただ、ここに一人だけ集中して読破しようとしている男がいる。それを忘れてはならない。
ちなみに、ここまでマンガのスケールが大きいし、開放空間だし、干潟は壮大だしで、工事音はあまり気にならない。読書のスケールが大きいと集中とかそういう話ではなくなってくる。そういうのは些末なことだ。俺たちゃ壮大な、いうなれば地球規模の読書をしてんだ。
キングダム 43巻

43巻でも桓騎軍の戦いは続いている。けっこう長いパートになりそうだ。ここでは桓騎のめちゃくちゃで型破りな戦い方がクローズアップされている。
そんな戦いの描写に夢中になっている僕の横に、それに負けないくらいが型破りな男たちがやってきた。背広姿の2名のおじさんだ。
この読破堤にやってきたばかりっぽい二人は何か会話をしている。
「どうです、すごいでしょ」
「いやー、これはあっぱれ」
そんな会話だ。様々な人が訪れる読破堤だけど、さすがに背広姿の人はほとんど見られないので目立つ。
「こんなスケールのものが計画から1年で実現したわけです」
「ほう、これが1年ですか」
「色々と困難なこともありました」
「ふむふむ、わかります」
話している内容が、あきらかに読破堤の企画側の人だ。背広姿、企画側の人っぽい口ぶり、これ佐賀県の人だ。
そう思ったのは僕だけではないようで、近くにいた主婦っぽい人がそのスーツの2人組に話しかけていた。
「すいません、これを企画した方ですか?」
ニュアンス的に、この読破堤のスケール感とか、キングダム愛を企画という形で実在化したことに感動してお礼を言いたいみたいな感じだった。けっこう大胆な主婦だ。
うんうん、もしかしたらけっこう感動的なエピソードを描ける場面に遭遇したかもしれない。
それを受けてスーツの人が口を開く。
「いや、ぜんぜん関係ないです」
「普通に県外からきました」
えええええええ。
そのスーツ姿で、あの立ち居振る舞いで、企画から1年で、みたいな口ぶりで赤の他人なの!?企画に関与してないの!?県外の人なの!?何が起こってるの?
とんでもない型破りだろこれ。お前らが型破りナンバーワンだ。
キングダム 44巻

キングダム本編では、やはりというかなんというか、予想していたことが起こる。まさにターニングポイントだ。桓騎軍と飛信隊の確執。この巻はすごく印象深い。
戦については、信と飛信隊の活躍によって大勢が決しており、ほぼ秦国の勝ちといった状況だった。
戦を終えて自陣へともどる飛信隊、そこで不自然な砂煙を発見する。それは桓騎によって焼き払われていた趙国の村だった。村人たちは一人残らず惨殺されていた。
ただ、その村は羌瘣が瀕死の状態でたどり着いた時に世話になった村だった。献身的に介抱してくれた老婆の遺体を死体の山から見つけた羌瘣は怒りに震える。
信は桓騎に詰め寄る。
信の主張はこうだ。反乱に対する刃と無力・無抵抗の人間に向ける刃とは決して違う。それが戦争だと言い切るならばそれは武将じゃなくただの略奪者だ。そんな奴らがどれだけ勝ち続けようと中華統一などできるわけがない。
それに対し、桓騎は逆に信こそ最大の極悪人だと言い放つ。
中華統一とは敵国が抵抗できなくなるまでとことん殺しまくって土地と人と物をぶん捕ることで、大殺戮であり大略奪である。それをやって平和な世界が来たって喜ぶのは秦人だけだ。
僕自身、これはどちらの言うことももっともで、その答えはこれだけ科学や倫理が発達した現代でも出ていないと思う。思えば人間はずっとこんなことを繰り返している。なにも進化していないとすら思える。
いまは桓騎と信の対立という形で描かれているけど、この部分は作品の初期から歪という形で描かれてきた。いよいよそれが対立という形で表面化したに過ぎないのだ。
キングダム 45巻

長かった桓騎軍との共闘が終わる。ここでは次のステップとして、秦の王である政の見据える未来が示される。
それが「平和と平等による法治国家」だ。ここで法治国家という概念が登場してくるとは思わなかった。これは僕が不勉強だっただけで、史実を調べてみると、統一を果たし、始皇帝となった政は徹底した法治国家を築いていたみたいだ。
単純に言ってしまうと、いちばん偉い王様がお前死刑というと死刑になるような人治国家とは違い、死刑になる要素はあらかじめ法律で決められており、その法律はすべての人に平等に適用されるというものだ。
法治国家にすると、たとえ王が変わっても変わらず同じ統治体制が続く。つまり政は、この時代にあって持続可能な統治システムを作ろうとしていたのだ。それはずいぶんと先進的な考えだったと思う。
ただ、史実によると、秦による法治国家は大きな成果を生んだ一方で、その厳しさは反発も招き、短命王朝に終わったようだ。持続可能なシステムが持続しない未熟さもまた人類の歴史である。なかなか難しいものだ。
キングダム 46巻

46巻より、新たな大きな戦いが始まる。どれだけ大きい戦いかは看板を見れば明らかだ。

「ここから鄴攻め編」
という看板。区切りがあるレベルの戦いが始まるわけだ。それにしても空と海が綺麗すぎるだろ。それにしても、しっかり大きい区切りに看板があるから助かる。
趙攻略を考えた際に、李牧がまたネチネチと策略を敷いたことにより、普通の手堅い攻め方では長期戦になることが避けられない状況だった。統一まで15年というリミットがある秦国にとって10年以上もかかりそうなその定石は現実的ではない。
そこで、意表をついて定石の攻めを囮にしつつ、趙の王都である邯鄲(かんたん)の喉元にある鄴(ぎょう)を攻めようということになった。
ただ、これはめちゃくちゃな奇策中の奇策であり、失敗したら目も当てられない状態になる。ほぼ賭けに近いものだった。この成否が中華統一の結果を左右するといってもいいくらいだ。
なかなかスケールの大きな戦いがはじまった。こういう奇策はワクワクしてくる。この侵攻の総大将は王翦(おうぜん)だ。けっこう初期から出ている将軍で、仮面をかぶったミステリアスさに加えて判断を間違えない強さがある。けっこう安心して見ていられる総大将だ。
キングダム 47巻

敵の王都である邯鄲の喉元にある鄴を落とすため、国門的な位置である列尾(れつび)を落とす必要がある。
山の民と飛信隊の活躍によって、開戦から半日であっけないほど簡単に列尾が落とされるが、なにやら様子がおかしい。この列尾の城にはなにかの罠が仕掛けられているのだった。
それが、何度も秦国の前に立ちふさがる李牧が張り巡らせた罠だった。こいつもう罠はりすぎだろ。なんでもお見通しで罠マニアみたいになっている。
そういや、この読破堤も罠みたいなものがあった。
昨日、日没までここで読書をしていて、帰り際に駐車場に向かうと、地元のヤンキーみたいな連中が駐車場にたむろしていた。あらら、怖いですわね、と思いながらその日は1500円という異常な値段のカプセルホテルに向かったわけだ。
次の日、日の出からここにやってきたのだけど、駐車場が鬼の哭く街カサンドラみたいに荒れていた。映画バイオハザードのラストシーンくらい荒れ果てていた。
昨日、ヤンキーがたむろしていた場所にはマクドナルドの残骸が散乱し、それ以外にも電子タバコの箱だとか投げ捨てられ、これでもかというほどに荒れていた。
それが昨日たむろしていたヤンキーの仕業だと決めつけるのはあまり良くないけれども、決めつけても良さそうなので断言しよう、昨日のヤンキーがゴミを捨てていた。
片付けようかとも思ったのだけど、まだ周辺にヤンキーが潜んでいて、ちょっとおっさん、これみよがしに掃除なんかシチャッテ、俺らへの当てつけなのお、とか絡まれたら嫌なのでいて見ぬ振りした。
で、それから数時間が経過し、トイレに行こうと73巻あたりまで歩いていったら、いつものトイレが満員、駐車場近くのトイレに行ったら、件のゴミたちが風に煽られて移動し、僕のレンタカーの周辺に綺麗に配置されていた。なんらかの魔法陣みたいな配置になっていた。明らかに僕がマクドナルドを食べて電子タバコを吸って放置したみたいになっていた。
これは罠。李牧の罠、ならぬヤンキーの罠。
まあ、仕方ないので掃除していたところ、けっこうキングダムを読みに来てくれたファンの人たちが手伝ってくれた。
「ほんと、掃除してくれてありがとうございます」
と、手伝ってくれる人たちは口々に言ってくれたけど、まるで僕が義憤に駆られて掃除をしているみたいに勘違いされては困る。
「いえ、早朝は見て見ぬ振りしました。自分の車の周辺に移動してきたら誤解されたくなくて掃除する、そんな男ですよ僕は」
と、ずっと弁明していた。人間の本質は光だ。けれどもその光には必ず影がある。善い行いの裏にもそういう事情があるのだ。
キングダム 48巻

ちなみに、李牧が列尾の城に張った罠とは、わざと弱く作られた城の構造にあった。秦に奪われたあとも奪い返しやすいように意図的に弱く作られていた。
地形的な状況を考えると、この先にある鄴を攻め落とそうと進軍しても、この意図的に弱く作られた列尾を取り戻され、挟み撃ちの様になって先に進んだ軍が孤立してしまうわけだ。つまり、秦はこの弱い城を死守しなければならない状況に追い込まれている。
秦国の王翦はそれをいち早く察知して対策を練る。こうしてかなりハイレベルな秦国と趙国の頭脳戦、王翦と李牧の頭脳戦が始まるのだった。
ちなみに、この戦いのポイントは両国とも兵糧攻めだ。2つの城で戦いが起こり、どちらも城に籠城して戦うのだけど、城を取り囲んで兵士や住民の兵糧(食料)が尽きるまで補給を許さないという作戦がとられる。
そういえば、僕もここ読破堤で大きな兵糧攻めにあっている。この公園には食料を買えるような店はないし、おそらく周囲数キロにコンビニがない。

ただ、そんなこともあろうかと、コンビニで食料を購入してマイバックに入れてきていたので安心だ。僕には兵糧攻めは効かない。
キングダム 49巻

ついに秦軍と趙軍の戦いが本格的に始まる。秦軍側は山の民の王である端和様が将軍として参加しているので、この戦は山の民の描写が多い。大活躍というやつだ。
僕はまあ、山の民が出てくるとテンションが上がるのだけど、なぜそうなのか、内なる自分に問いかけてみた。
おそらくではあるけど、山の民のフォルム、筋肉ムキムキで怪しげな仮面をつけて獰猛さを隠そうともしないところに強く惹かれているんだと思う。
そしてその憧れの根本を探ると、どうやら幼少期の体験が源流になっているようなのだ。
僕が小学生だった時に、近所に「カーネーションお兄さん」というお兄さんが住んでいた。20代半ばくらいで、けっこうガリガリ、当時の男性としては珍しい長髪だった。昼間っから何らかの雑誌を片手にプラプラしていたので、当時は何とも思わなかったけど、いま思うとありゃニートだと思うしかない人だった。
なぜこのお兄さんがカーネーションお兄さんと呼ばれていたかというと、ある時から僕ら小学生が集団下校している帰り道に折り紙で作ったカーネーションを持って立つようになったからだ。
当時の僕はけっこうバカだったので、カーネーションお兄さんが下校を見守ってくれていると解釈していたけど、周りの大人たちはそうではなかった。
いまより大雑把な時代だったとはいえ、そういう怪しいニート的(当時はそんな言葉はなかった)な男が、小学生の下校列を眺めている、なんてのは大問題になった。事件の香りがするというやつだ。
ただ、まだ何もしてないのに排除はできないということで、とにかくカーネーションお兄さんに近づくなという命令が僕らに出されたのだった。
当時はあまり詳細な説明はなかったのだけど、いま思い返すと、カーネーションお兄さんは僕らと同じ登校班だった6年生のエリカさんに恋をしていたんだと思う。それを待ち伏せしていた。カーネーションは愛の告白アイテムだったのかもしれない。20代半ばニートで小学生に恋をして待ち伏せしている。なかなか業の深い属性をお持ちだな、カーネーションお兄さん。
同時に、カーネーションお兄さんが変なことしないように、僕らを監視するカーネーションお兄さんを監視する大人が配置されるようになった。
さすがのカーネーションお兄さんも地域の大人が監視している中でなにかアクションを起こしたら事件化されると思ったようで、何もしてこず、ずっと僕らを見るだけの日々が続いた。
さすがにこの時になるとエリカさんをはじめ、登校班の女子が気味悪いと言い出した。そこで事件が起こる。
ある日の下校時、カーネーションお兄さんが上半身裸だった。ついに狂ったかと思ったが、そうではないらしい。さすがに上半身裸はすておけねえとその日の監視役だった大人が詰め寄った。悪いことにその日は地元でも血気盛んなことで有名な漁師が担当だった。
カーネーションお兄さんに詰め寄った漁師さんいわく、あれは猥褻的なものではなく、単に肉体を見せつけていたらしい。どういうアピールなのかしらないが肉体を見せて男らしさをアピールしていたらしい。
「肉体をアピールってあいつガリガリじゃねえか、アバラが浮いてたぞ!」
と、うちの父親に報告していた漁師の言葉を今でも覚えている。
「本人はムキムキのつもりなのかもしれん」
そう答えたうちの親父の言葉も覚えている。
結局、血気盛んな漁師によって「二度とやるな」と詰め寄られたカーネーションお兄さん、これで監視も終わると思いきや、そうではなかった。
次の日の下校時、いつもの場所に上半身裸、カーネーションを持ったカーネーションお兄さんがいた。ただし、俺はカーネーションお兄さんじゃないですよ、と言わんばかりに仮面をつけていた。たぶんどこかの観光地で買ったお土産の木彫りのお面だ。おてもやんみたい仮面だった。
その光景は異様で、さすがにみんなから悲鳴が上がって、逃げ出すやつとかもいて、6人態勢くらいだった監視の大人も飛び出してきて「ふざけるな」とか怒号の嵐だったんけど、僕だけはなんか妙に冷静で心惹かれていた。
カーネーションお兄さんの行動は、色々と大雑把だった当時としても絶対にダメだし、気味悪さを覚えるのだけど、なんというか、人から見た自分というものをまったく気にしてないところがワイルドだった。
ぜんぜん体が出来上がってなくてガリガリなのにムキムキなつもりで誇示してくるし、仮面をつけてもバレバレなのに、いいえ他人です、カーネーションお兄さんじゃありませんみたいな動きをする。ニートという定義がない時代からニート的なことをしていて周りからの風当たりも強かっただろうに自分を通している。
いま考えても決して褒められた人ではないのだろうけど、その周りを気にせず自分を通す、ってところに自由さを、それ以上にそこに秘められた可能性みたいなものを感じてしまったのだ。
当時は色々と大雑把な時代った。けれども多様性はなかった。「こうあるべき」という圧力はとても強い時代だったように思う。そんななかでカーネーションお兄さんをはその圧力を完全に無視していた。そんな姿にワクワクと胸を焦がしてしまったのだ。
だから、いまでも山の民をみるとカーネーションお兄さんを思い出してしまう。あの日、仮面をつけて佇んでいたあの姿を。
カーネーションお兄さん、あなたもどこかでキングダムを読んでますか。あなたが誇示したかったムキムキ、そのムキムキさで仮面をつけた山の民たちが活躍してますよ。遠い空にそう伝えた。
キングダム 50巻

いよいよ50巻の大台だ。さすがに50巻も続く作品はそう多くないので、かなり限られた長編作品といえるだろう。気になってちょっと調べてみた。(2026年3月現在)
ゴルゴ 13 219巻
ギネス記録も有している「ゴルゴ13」が219巻も出ていてナンバーワンだ。そういえば219巻も出てるのに一度も読んだことがない。だいたい床屋のマンガコーナーに一部が置かれているイメージなので、こんど見つけたら読んでみよう。
2.こちら葛飾区亀有公園前派出所 201巻
次いでこち亀。200巻を越えているのはこの2作品のみだ。僕はこち亀と共に育ったようなものなので、確実に全話を読んでいると言い切れる。こち亀の最終話が載ったジャンプを厳重に保存しているくらいだ。
以下、「ミナミの帝王」や「はじめの一歩」「名探偵コナン」「あさりちゃん」など100巻越えの作品は20ほどあるらしい。
ただ、昨今では「カイジ」や「彼岸島」など途中でタイトルが変わり、そこで巻数がリセットされる漫画があり、累計で100巻を越える作品もある。
こち亀は週刊連載であり、ほとんど休載もなく40年連載して200巻を出している。つまり単純計算で1年に5巻ほど。これは連載ペースや単行本のページ数によっても変わってくるけど、それだけ膨大な時間の表れだ。50巻とはそれだけ偉大な記録だ。
ちなみに、もし「こち亀」をこのように堤防に全巻を載せると、ページ数とかを考慮せずに考えると4倍の堤防が必要となる。1.2キロの堤防に延々と「こち亀」が掲載されている光景を想像して少し血の気が引いた。
キングダム 51巻

うすうす感じてはいたけど、ついにそれが確信に変わる。
老眼に優しくない!
キングダムの魅力とはなんだろうかというと、戦のシーンにおけるダイナミックで迫力のあるアクションだとか、多彩で魅力ある数多くのキャラクターが織りなす人間模様だとか、様々あるけど、戦における戦略もその醍醐味の一つだろう。
ただのアクションだけでなく、ただ何万の軍勢と何万の軍勢が殺しあいますという戦の描写ではなく、知略が入り乱れる戦略が重要となる。それはバトルというよりは将棋やチェスに近い。
そういった、詳細な戦略の応酬がキングダムの魅力であることに異論はないのだけど、それがちょっと老眼には厳しい。というか、読破堤で読んでいる僕には厳しい。
ズバア、ズシャアアというバトル部分はそうでもないのだけど、知略部分は文字での説明がどうしても多くなる。ここ中盤の巻ではその知略の部分がどんどん高度で緻密になってきているので、絶対に文字が増えている。絶対に文字が増えてる!
文字が増えてくると文字が小さくなる。文字が小さくなるとなかなか読むのが大変。

結果、このようにマイケルジャクソンで読んでいる僕は体も目も臨界に近いくらい疲れてくる。
もう全巻を電子書籍で購入するから家でゆっくりとロッキングチェアとかに座って読ませてくれ、そんな気持ちが最高潮まで高まりつつある。
金ならいくらでも出す。ゆっくり読ませてくれ!
キングダム 52巻

かなり長時間にわたってこの読破堤にいる。もう少しで読み始めてから24時間が経過する頃合いだろうか。
その24時間ずっとここにいたわけではなく、途中で破格のカプセルホテルとかに行っているので定かではないけど、少なくとも僕が滞在している時間の全てで、海岸線ははるか遠くに存在した。防波堤のずっと奥に海岸線があったのだ。
さすが干潟というしかない干上がった地面が延々と続き、遥か向こうに海が見える。これが潮の満ち引きによって遠くになったり近くになったりするのかなと思ったのだけど、総じて海岸線は遠かった。遠い場所で満ち引きが起こっているのかもしれない。
僕は港町の生まれでありヨットに乗っていた経験があるので海が持つ潮の香りに敏感だ。海から数キロくらいだったら海があるなってわかるし、潮の香りでどの方向にあるかもわかる。
けれども、ここは潮の香りがしなかった。もしかしたら干潟の先にある海が僕の知っている海とは異なるのかもしれない。どちらかというと川の河口に近い雰囲気だ。
ただ、そんな塩気のないここ読破堤で、海の潮を感じる場面があった。あまりに寒くてさらに乾燥しているのか、乾燥してカサカサになった唇が切れた。
これ自体は珍しいことではなく、空気が乾燥する冬ではよく起こる。よだれの様に唇から血を流すマッドな自分にも慣れたものだ。
ただ、今回は違った。口が切れた場所が痛い。完全に傷口に塩を塗り込んだ痛さ。これは塩だ。海の塩気が僕の傷に塗り込まれている。
やはり干潟と言えども海なのだ。
口からどくどくと流れてくる血をティッシュで拭いつつ、塩気からガードする。ただでさえ大変な読書動作に新たなギミックが加わってしまった。
マンガの展開はダイナミックで目が離せないけど、もう勘弁してくれ。血まで出てきたんだぞ。
キングダム 53巻

ずいぶん長いことマンガの内容に触れていなかった。決して興味がないというわけではなく、戦における戦闘部分はなるべくネタバレをしないように注意を払っているのだ。というか、戦におけるアクションの部分を文章にするのは野暮だ。是非とも原先生の絵で楽しんでほしいという願いがある。
さて、ここ53巻ではついに兵糧攻めが深刻になってくる。数巻前から始まった兵糧攻めだけど、なぜか僕はこの「兵糧攻め」という言葉にワクワクする。
僕がインターネットに文章を書き始めた初期のころ、詳しい金額は忘れてしまったけど、給与部署の手違いで給料が17円だったことがあった。
「キュウヨ 17円」
と印字された通帳をアップロードし、「俺を兵糧攻めにする気か」と書いた気がする。一連の流れは、200巻越えの大作「こち亀」にもあった気がするのだけど、そう突っ込みつつ、自分で兵糧攻めという単語にドキドキしていた。
いまこうしてキングダムを読んで主人公である信たちが兵糧攻めで苦境に立たされているのに、それとは別次元で兵糧攻めにドキドキしている自分がいる。
おそらくであるけど、これはDNAレベルで刻まれた何かであり、本能レベルの何かだ。たぶん僕の先祖は、戦国時代とかに兵糧攻めをしたかされたか、とにかく兵糧攻めに関して何かがあったはずだ。
まあ、どうせ、僕の先祖なのでそこまで大したことはしてないので、兵糧攻めで苦しんだ人だと思う。
それくらいこのあたりでの兵糧攻めのエピソードは自分ごとのように読んでしまう。
キングダム 54巻

ああっ!もうむかつくな!
この記事を書きながら、ちょうどその時期が来ているのでヒーヒー言いながら同時進行で確定申告しているんだけど、キングダムの記事書いてるから申告が秦国になる。確定秦国ってどう考えてもおかしいだろ。
この54巻周辺で描かれている戦いは、鄴攻めの史実から考えると、秦が勝つことがわかっている。そう、勝つのは確定で秦国だ。確定秦国や。
というか、キングダムを読みながら史実を調べることはあまりお勧めしない。やはり強烈なネタバレになるからだ。
ただ、確定秦国ではあるけど、作中ではついに兵糧がなくなってしまった。結果はわかっているのにやはり兵糧攻めという言葉をドキドキしてしまう。
どうなるんだ。兵糧攻め。
キングダム 55巻

55巻くらいまでくるとさすがに先が見えてくる。あれだ。無限に思えたこの読破堤もその終わりが肉眼で見えるようになってくる。
キングダムの方は限られた兵糧の中で戦う様が描かれる。最後に残された僅かな食糧を節約する描写とかある。もうだめ。ドキドキしっぱなしだ。やっぱ僕は兵糧攻めが好きすぎる。
ここ読破堤は、体勢的な問題と気温的な問題で本当に読破することが困難という事情があり、読破する人はいない。それは何度も述べた。ただ、みんな好きなシーンとか、好きな話のところで足を止めがちだ。
実はこれがこの読破堤の特徴で、立ち止まる場所によってその人が好きなシーンとか、思い入れのある戦い、思い入れのあるキャラクターなどがわかる。
つまり、僕が真っ当にキングダムも読破済みで、大ファンとしてここ読破堤を訪れていた場合、なるほどねー、確かに大迫力だわ、でも本当に読むにはちょっと体勢的に厳しいか、好きなシーンだけ確認するか、そうなってこの巻あたりで足を止めて兵糧攻めにドキドキしている可能性がある。たぶん先祖が兵糧攻めでやられたからだ。
逆説的には、この巻で足を止める人がいたら、同じく兵糧攻めでドキドキしている可能性が高い。なぜこんなことを言いだすかというと、僕がこの巻を読み始めた同時に僕の横で立ち止まって熟読し始めるギャルが現れたのだ。
ここ読破堤では、先客が読んでいる巻で立ち止まるのはなかなか難しい。割り込みみたいになるからだ。それをやるのだから、この巻に強い思い入れがあるに違いない。
もしかして、このギャルも兵糧攻めという単語にドキドキしているのでは?その可能性は高い。
もしかしたら、ギャルの先祖も兵糧攻めによって滅ぼされた可能性がある。だとしたらギャルながらなかなか見所のあるやつだ。
これはちょっと話しかけた方がいいのかな?
「ひょっとしてお宅も先祖が兵糧攻めに?」
とでも話しかけるべきか。いいや、それはどう冷静に取り繕ってもおかしいだろ。女性と見ればナンパに口説くのが礼儀であるイタリアの男性でもナンパの文句に「兵糧攻め」は出てこない。ちなみにイタリア語で兵糧攻めは文脈に寄るけど、assedio per fame(アッセーディオ・ペル・ファーメ)らしい、直訳すると飢えさせるための包囲だ。
とにかく、ギャルが本当に兵糧攻め仲間なら、すごく話が弾んだりするんじゃないだろうか。「俺も兵糧攻めすきなんすよ」「これは運命ね」みたいなことでしょ。
と思っていたら、ギャルの友達が遅れてやってきて合流した。
「ごめん、桓騎のシーンみてた」
友達はそういって合流してきた。この先に桓騎注意がまたあるみたいだ。
「すきだねえ、まあ、わたしも松左(しょうさ)を見てたけど」
ギャルは兵糧攻め仲間ではなかった。松左という初期から飛信隊で活躍するいぶし銀みたいなキャラが好きみたいだ。たしかに、この巻は松左がクローズアップされすぎる巻だ。
松左めあてだったか。
よかった、おたくも兵糧攻め?とか話かけなくて。完全にイカれた人になるところだった。なんだよ、おたくも兵糧攻めって。
キングダム 56巻

ふと思った。56巻に到達ということで、別にきりが良い数字でもないし、話の区切りでもないのに、妙に心にストンとくる感じがした。なんか56という数字がしっくり来たのだ。
ただ、普段から56にしっくりくるかというとそうではなくて、なぜか、この読破堤という場所と56が合わさった時にしっくりきたのだ。
どうやら「防波堤」と「56」が合わさった時に、心に訴えかけるなにかがあるみたいなのだ。
中学生時代の深夜、僕らは防波堤にいた。
港町だった地元の街は防波堤だらけだった。そこに友人の坂本と一緒にいた。
その日は釣り大会だったのだ。中学生が深夜に防波堤にいるってのは深夜徘徊にあたるわけで補導対象だ。両親だって許すわけがない。ただ、釣りならばOKみたいな雰囲気があった。
僕らが参加した釣り大会は夜通し行われるもので、日の出と共に釣果を持ち寄って各賞を決めるものだった。めちゃくちゃ賞品が豪華なかわりに、そこそこ高価な参加費だった。
普段は許されない深夜の行動、豪華な賞品、僕と坂本のテンションは上がり切っていた。
「じゃじゃーん、なんと56番の仕掛けです!」
ハイテンションな僕が得意満面な顔であるブツを取り出す。
当時、行きつけの釣具店の職人みたいなおっさんが作った独自の仕掛けセットが僕ら中学生の釣り師の間で大流行していた。職人がセッティングした神仕様の仕掛けであり、中古品なども使われていたためお値段もリーズナブルだった。
そのオリジナル仕掛けセットには番号が付けられており、そのなかでも「56番」は神の仕掛けといわれていた。それよりワンランク落ちる51番の仕掛けを持っていても神扱いされるほどだったので、56番がどれだけ神だったか窺い知れる。
僕はたまたま釣具屋に行った時に完成したばかりの56番仕掛けをみつけてしまい、購入。今日までずっと隠し持っていたのだ。
「まじで神の仕掛けじゃん!」
坂本は興奮した。僕も大興奮だった。この神の仕掛けによって大物を釣り上げ、朝の釣果報告会で最上級の賞品をゲットする。大物賞はカーボン製のめちゃくちゃ高価な釣り竿だ。
「みて、このフォルム!さすが56番様、もう釣れたわ!」
深夜のテンションも手伝って、仕掛けセットに「様」をつけるまでになっていた。さっそく海に向かって颯爽と56番様を投げる。
さすが56番様だった。すぐに当たりがあった。
「これはもう釣りじゃない!一方的な搾取!乱獲!魚が絶滅する!」
いくら深夜とはいえ、いくら56番様が当たったとはいえ、僕のハイテンションもあまりにひどすぎる。
うおおおおおおと釣り上げた。手応えとは裏腹に、そこには小さい赤い魚がぶら下がっていた。
「オコゼだ!」
坂本が叫ぶ。
おそらくオニオコゼと思われる魚が56番様に食らいついていた。オニオコゼは背びれに強力な毒棘を持っている。
「最悪の場合、死に至る毒があるぞ!触るな!捨てるんだ」
坂本がさらに叫ぶ。
坂本は触らず捨てろ、仕掛けをハサミで切って捨てろというが、そういうわけにはいかない。なぜなら、オコゼが食いついているのは56番様だ。その仕掛けを壊して捨てるなんてありえないことなのだ。
「56番を捨てるわけにはいかない!なあに、大丈夫さ!棘に気を付ければ!ぎゃあああああああああ!」
ものの見事に刺された。
指先を刺されただけなのに、じわじわと痛みが腕全体に広がってきて、最終的には右腕だけが2倍くらいの太さになるほど腫れあがってスコットノートンみたいになっていた。
僕はもう釣りどころではなく、ずっと「56番が、56番が」とうわごとのように呟きながら右腕を抱えながら泣いていた。
56番と堤防にはそんな思い出があった。
下手したらこのまま気づかずに人生を終える可能性だってあったのに、「防波堤で延々とマンガを読む」「そのマンガが56巻以上も刊行されている長編」という、普通に考えたら起こりえない重なり合いが起こったからこそ、このことを思い出せたのだ。
ちなみに、このキングダム本編56巻では、趙国の李牧が秦国の王翦に向かって「あなたはおそらくこの場にいる誰よりも愚かな人間だ」と言い放つシーンがある。それでまた思い出す。たぶん、あの日の釣り大会で、参加者の誰より愚かだったのは僕だったな、と。大物賞じゃなくて愚か賞とかあればよかったのに。
キングダム 57巻

ここにきて気が付いた。異様に時間の進みが遅くなっておる。もちろん、この堤防で体感する時間の流れではなく、作品内での時間の流れだ。
これは長期連載にありがちなのだけど、初期はサクサクと時間が進むのに、後半になるほど作中での時間経過が遅くなる。それはもちろん、ストーリーが進むほど描きたいことが多くなるからだ。
例えば、福本先生の珠玉の麻雀漫画「アカギ」などはその典型で、初期はサクサクと対局が進むし、作中で数年の時間が1コマで進むこともあった。
しかし、連載が進むと単行本1巻で、1牌ツモれるかどうかみたいになる。単行本1冊読んでも何も進行していないなんてことがザラだ。
さすがにアカギほどではないにしろ、キングダムもそれに片足を突っ込みつつある。作中の時間経過が遅くなっているたぶん、この57巻では作中の時間は1時間も進んでいないと思う。たった一コマで「三か月後、平定した」のときから考えるととんでもないことだ。
ちなみに読破堤にいる僕は、読み始めてから28時間くらいの時間が経過している。こちらはスピードを速める必要がある。今日の日没に間に合わせないと困る。読破3日目に突入すると東京に帰れなくなるからだ。さすがにそれはちょっと困る。
ただまあ、今のペースで行けばよほどのことがない限り大丈夫だろう。
キングダム 58巻

信が死ぬ。
主人公が死ぬという衝撃の展開に目が離せない。
命が失われてしまった信に対し、羌瘣が蚩尤族に伝わる禁術を施し蘇生を試みる。
ここにきて気が付いたのだけど、ストーリーの展開的に羌瘣の扱いに困っている節がある。羌瘣が背負っていた宿命みたいなものも解決した、飛信隊の中でも地位を固め、仲間もできてきた。登場した当初の険しい感じはもうない。そして、もう羌瘣の強さをクローズアップする段階にもない。かといって退場させるのも忍びない。という状態ではないだろうか。現に、ここ数巻ではそこまで羌瘣の見せ場はなかった。
そういった意味で、羌瘣の見せ場的に信を危機に陥らせたのではないだろうか。あとはもう、羌瘣と信とのラブコメ展開くらいしか残されていないのかもしれない。
さて、羌瘣が信を救うために見せた術は、羌瘣の残りの寿命の半分と引き換えに蘇生が行えるというものだ。ただし、必ず蘇生されるわけではなく、その確率は二つに一つ、つまり50%というわけだ。
ざ、ザオラルだ。
ドラクエに登場する蘇生の呪文「ザオラル」も、その確率が50%くらいだったはずだ。その後、100%で蘇生が成功する上位互換の「ザオリク」を覚えるまで、何度もこの50%の確率に翻弄される。
その時の印象が強いのか、世の中には「ザオラルLINE」というものが存在するらしい。
ザオラルLINEとは、もう繋がりが切れてしまった相手にイチかバチかでLINEをすることを指すらしい。もちろん、関係が復活することを期待してのことだ。
特に、恋仲にあった関係や、その手前まで行った関係に使われることが多いようだ。これは肌感覚だけど、圧倒的に男が昔の女性に送ることが多いと思う。
ちなみに、ザオラルLINEも何もない時よりは何か口実があった方が成功率が高いと思うのか、少し大きめの地震などがあった時に頻発する傾向にあるらしい。
「大きめの地震あったけど大丈夫だった?ごめん、なんか気になっちゃって」
こういう地震にかこつけたザオラルを地震ザオラルと呼ぶらしい。
さて、この地震ザオラルについてもう少し深く考えてみよう。関係が復活することを期待しての地震ザオラル、その行為の是非はともかくとして、やる側は関係修復、復縁などを望んでいるわけだ。
しかしながら、いくら地震大国の日本と言えども、そこまで頻繁に心配になるレベルの地震があるわけではない。つまり地震待ちってのはあまり現実的ではない。地震があった時に「お、これ利用して復縁に利用したろ」という構造が圧倒的に多いと思う。
ただ、そうではなく復縁したいという気持ちの方が圧倒的に大きかったらどうだろう。それでも様々な事情でメッセージを送れず、切っ掛けを待っていたとしたら。そうなると地震を待つ構造みたいになってしまう。
僕の友人の植松がそうだった。10年位前だったか、植松は悩んでいた。
彼は後悔の多い男だった。特に、昔の彼女に対する後悔は大きいようだった。彼に言わせるとそういった後悔の気持ちは次第に消えていくものではなく、借金の利息のように徐々に大きくなり、自身を蝕んでいくそうだ。恋の後悔は借金の利息だよ、それも複利っていってたけどそこはちょっとよくわからなかった。
彼は復縁のメッセージを送るきっかけを探していた。そんなもの後悔が大きいのだから、きっかけなんかなくても送ればいいじゃん、と僕なんかは考えてしまうのだけどそうはいかないらしい。
「今日はめちゃくちゃ激しい夕立が降ったから、それをきっかけに、夕立、大丈夫だった?」ってどうかな?
さすがに町が水没するレベルじゃないと夕立で心配するのはやりすぎではないか。
「彼女のアパートの近所のコンビニがつぶれたんだけど、不便じゃない?とかどうかな」
ぜんぜん近所とかではないのになんで彼女のアパートの近所のコンビニの事情を知っているんだ。それちょっとストーカーっぽくないか。
「さっきサイレンが鳴ってたけど、なんかあった?とか」
さすがにそれは心配が肥大しすぎだろ。普通、市内で鳴ったサイレンはかなりの大部分の人が関係ない。
考えに考え抜いた植松が提案したザオラルLINEがこれだった。
「圧倒的な一番人気だったビッグアーサーが飛んだけど大丈夫だった(スプリンターズステークスGI:2016年、ビッグアーサー1番人気12着)」
彼女、競馬とか好きだったの?
「ぜんぜん」
なにをどうやったらそんなザオラルに行き着くんだ。たぶん彼女、そのレースすら見てないぞ。
結局、このザオラルは失敗に終わった。このときだけ50%の成功確率が0.5%くらいになっていたと思う。
思い出したわ。この10年前のスプリンターズステークス、僕もビッグアーサーを買っていて華々しく散ったのだった。僕はぜんぜん大丈夫じゃなかった。
キングダム 59巻

兵糧が、兵糧が届いた!
長かった戦いがついに終わり、いろいろすったもんだがあった末についに兵糧が届いて兵糧攻めが終わった。
鄴攻め編は秦の大勝利によって幕を閉じる。ここをとれたのは大きい。天下統一が何年も縮まった。
戦の功績に応じて褒賞を受け取るのだけど、そこで信は将軍へと昇格する。将軍になると「信」だけでは困るので苗字を名乗ることを許される。
どんな苗字を名乗るべきなのか迷う信だけれども、1巻に登場した亡き友人、漂が「李」と名乗っていたことを知ると、けっこう軽い感じで「じゃそれで」と「李」を名乗ることになる。ついに主人公である「信」と史実上の大将軍である「李信」が繋がった。
ここにきてぜんぜん無関係な別の李信が当たり前のように登場してきたらどうしようかと思ったけど、さすがにそれはなかった。
さて、この戦いに負けた方、つまり趙国では大変なことが起こっていた。鄴での戦いを指揮していた李牧、圧倒的な策士である李牧、令和の李牧とも呼ばれる僕にとってとても他人とは思えないあの李牧が、敗戦の責任を取らされて投獄され、処刑を待つ身となっていたのだ。
どうかんがえてもかなり有能な李牧、それを失うことは趙国にとって大きな痛手なのは明白なのだけど、この時の趙国の王はかなり愚かで、溺愛する少年を救い出すために李牧を秦に出向かせたりしていたので、まあ、上の王が愚かで李牧が不憫といういつものやつだ。かわいそうな李牧はどうなってしまうのか。本当に処刑されるのか。
敵役である李牧のことがここまで詳細に描かれるという時点で、やはり李牧はかなりキーとなるキャラクターだ。
キングダム 60巻

イチモツが巨大な嫪毐(ろうあい)を担いだ反乱に失敗し、失脚していた呂氏が久々に登場してくる。そしてその最後が描かれる。
ここでも原先生の真骨頂というか、原先生の性分というか、あれだけ巨大で陰湿で、権力のためならなんだってするという敵であった呂氏も、そこまで悪いやつじゃなかった、という光を見せる。
原先生はどんな悪役にもこの救いを絶対に用意している。原先生は根源のところで人間を信じたいのだろう。
個人的には、呂氏の最後の描かれ方はけっこう好き。
さて、趙国の方は、なんとか幸運が舞い込んで処刑を逃れた李牧だけれども、趙国を追われるような立場となる。
ここで王都から脱出して仲間と落ち合い、今後をどうするか話し合う李牧、これがまあ、1巻での政と重なる。あのときの政と置かれた状況がほぼ同じで、描かれ方も酷似しているので、1巻から60巻という壮大なスパンを越えた伏線みたいなものだ。こういう展開は熱い。
もしかしたら、何度か読み返したりしないとこの1巻から60巻への伏線には気づかないかもしれないが、僕はすぐ気づいたね。なにせ堤防でずっと読破しているからな。なんか状況が似ているなと思って300メートル先の1巻のところまで見に行ったもん。こういう読み方をしている僕だから気づいたようなものだ。堤防ってのはね、1巻から60巻までひとつながりなの。堤防で読破するのもそう悪くないのかもしれない。
キングダム 61巻

大変なことになってしまった。
さすがにめちゃくちゃ体が痛くて、あらゆるものが限界に達したので、とにかくどこでもいいから座りたいとベンチを求めてさまよう羽目になってしまった。
トイレの前には比較的に広いベンチがあったのでそこに移動して座ることにする。さすがに62巻までくるとかなりトイレ側になるので距離も近い。
早朝くらいに老人たちが跡取り問題を話していたあのベンチだ。けっこう使われることが多いベンチなのだけどラッキーなことに無人だった。
そこに座って体を休めていると、サラリーマンっぽい4人組がやってきて2名が僕とは逆側の端に座り、残りの2名がその前に立つという形をとった。
その風貌や言動から察するに、キングダムの読破堤を見に来たというよりは、休憩のためにここに来たような感じだった。
彼ら四人の話題が実に興味深いものだった。サラリーマンが「知り合い三角形説」という訳の分からない持論を展開しだしたのだ。
彼曰く、佐賀市はそこまで大都会というわけではないので、そこそこ若い人が休みの日に行く場所もそう多様ではないらしい。特に佐賀市内に限って言えば限定的でホットなスポットはだいたい決まっているらしい。
で、たとえば、ホットスポットである「ゆめタウン」だとかに行くと、必ず知り合いに会うらしいし、ゆめタウンレベルの熱さだと同時に2名の知り合いに会うことが多いようだ。2名が連れ立っているわけではなく、別ベクトルに2名の知り合いに会うそうだ。
「そうなるとさ、必ずさ、俺を含めた知り合い2名が三角形に配置されているって気づいたんだ」
彼は「佐賀で同時に2名の知り合いに会ったら配置が三角形になっている説」というめちゃくちゃに長い説を強固に信じているようだった。
サラリーマン仲間たちはその言説を「ほえー」といった顔で聞いていた。
僕はこれを聞いた時、漠然と心の中に考えが浮かんできた。それが、このパターンにおいてどのようなツッコミが適切なツッコミだろうかという点だ。おそらくではあるけど、あのサラリーマン仲間のように「ほえー」という顔で聞いているのは適切な対応ではない。
「そもそも、いくら佐賀でも、ゆめタウンで同時に2名の知り合いには会わないだろう」
おそらくではあるけど、彼の口ぶり的に本当に同時に2名の知り合いには会ったんだろうと思う。そこで配置が三角形やと気づいた。そこまでは本当なのだろうと思う。
そこで「説」として提唱するため、さも佐賀では同時に2名の知り合いに会うことが多い、と頻度を盛るに至ったのではないか。
そうなると、「さすがにそれはない」というツッコミは的確ではあるけど適切ではない。彼が頻度を盛っていることを指摘することに正義はない。それでは話が盛り上がらないのだ。何事も的確であることが正解ではないのだ。
「知り合いが三角形に配置されるというのは、やはり突発的に知り合いに会うのは好ましくないから、少しだけ距離をとる。それを他二人から同じように距離を取るので三角形になるのではないか」
理屈っぽいツッコミだ。三者が同じように牽制しあった結果、三角形になる。このツッコミはそもそも「ゆめタウン」などで突発的に知り合いに会うことを好ましいと思わない僕のような人間だから生じる発想だ。世の中には知り合いに会うと喜ぶ人だっているし、グイグイと近づいてくる人もいる。
「そもそも、3人の人がいるのなら配置が一直線でない限り必ず三角形になる」
まったくもってド正論だ。ただ注意しなくてはならない。この種のド正論のツッコミは、大元がツッコミ待ちをしているときのみ有効だ。
どういうことかというと、知り合い三角説を提唱している彼が、一直線じゃない限り三角形になるということを認識していて、あえてボケているときのみ、このツッコミが正解となる。
ただ、彼の顔を見ると、あまりボケている感じではない。ガチで知り合いが三角形に配置されて感動している節すらある。そこにド正論をぶつけることは好ましい事ではない。ド正論は時に人を傷つけるのだ。
そうなってくると、ここでの正解が分からない。本当に人とのコミュニケーションとは難しいものだ。
「それでさ、このあいだ釣りに行ったんだけどさ、そこでも……」
知り合い三角形説の彼がさらに、新たな知り合い三角形エピソードを披露し始めた。釣りだ。まさかオコゼが釣れたっとかじゃないよな。
そして、そこにこの場面でのツッコミの正解を見出したのである。
長くなりすぎたので続きは63巻の感想で。
キングダム 62巻

強烈な羌瘣のラブコメ展開。やっぱりきたな。はたしてこのエピソードは必要だったのか。
やはり巻が進むにつれて羌瘣の扱いが難しくなっている。強すぎるんだよ。だいたいのことを強さで解決してしまうので物語としての起伏がなくなることもある。ここにきてめっきり影も薄くなってしまったけど、ヒロインとして切って捨てられないジレンマみたいなものがある。人気はあると思うので無下に扱うわけにもいかず、登場した初期のころとは意味合いの違う、何かを背負ったキャラになってしまった感じがする。
ちなみに僕も何かを背負っている。
何度も書かせてもらっているけど、ここ読破堤での読破は体力勝負だ。体への負担があまりに大きい。特に無理のある姿勢を余儀なくされるので、からだのあちこちが痛くなる。特に深刻なのが背中だ。
これは、読破堤で読破した人しか分からないのだけど、この体勢で長いこと読破していると、こう背中が攣る感じになってくる。足が攣るように背中が攣る。
足が攣った場合、座り込んで攣った部分を逆に伸ばしたりすれば徐々に緩和してくるのだけど、背中が攣った場合はどうしていいのか分からない。
足の理論でいくと、反対側に延ばせば楽になるわけなので、背中をそうしようとすると、まあ、ブリッジとかそういう感じになる。さすがに堤防で突如としてブリッジをする人ってのはけっこう怖い。佐山聡のシューティング道場みたいになってしまう。隣の人がやりだしたら僕なら逃げる。
ということで、攣った場合の定石である逆に伸ばすができないので、ほのかに背中が攣った状態が延々と続く。それは、無理のある姿勢で堤防にある漫画を読破した人にしか分からないと思うけど、次第に何かを背負っているような感覚になってくる。
そう、常に何かを背負っている。僕も羌瘣もそう大きな違いはないのだ。
そう、僕自身も僕の背中の扱いに困っている。本当に痛いんだ。もう許してくれ。
キングダム 63巻

この場面でのツッコミの正解例みたいなものが見えてきた。
「それでさ、このあいだ釣りに行ったんだけどさ、そこでも……」
知り合い三角説を提唱した彼の趣味は釣りらしい。彼曰く、佐賀県は釣り人にとってなかなかいい場所らしく、少し足を延ばせば福岡県、長崎県と、いろいろな釣りが楽しめるらしい。
「おまえ、まだ釣りやっていたのかよ」
彼の周りのサラリーマンたちがツッコミをいれる。そのツッコミもあまり適切なものではない。
そこでちょっと場所を聞き逃してしまったのだけど、足を延ばしてある釣り場に来たときのことだったようだ。そこは堤防が向かい合うように存在していて入り江みたいなものを形成していた。彼は片方の堤防の先で釣りを楽しんでいたようだった。
ふと、前を見ると、逆側の堤防の先にも釣り人がいた。最初は気にしていなかったけれども、あまりに釣れなかったために、もしかしてあっちの方がいい釣り場なのではと気になり始めたそうだ。
隣の芝生は青いならぬ、隣の釣り場はなんとやら。羨望の眼差しで向かい側の堤防を眺めているとあることに気が付いた。
「あれ、村田じゃね?」
それは知り合いの村田だった。
「おー村田」
「村田うける」
周りのサラリーマンたちの村田への反応を見るに、村田とはそういう感じに扱われる人らしい。
良い釣り場を求めて足を延ばした先で知り合いが釣りをしていた。そこで知り合い三角説を唱えている彼は、ここでもきっと三角系の配置になっていると確信した。
ここで、三角形の配置になる可能性がある場所にもう一人知り合いがいるはず(厳密に言うともう一人が一直線配置以外どこにいても三角形にはなる)と確信し、堤防の根元あたりにある小規模な河口をまたぐ桟橋みたいな場所を凝視した。三角形の配置になる釣り場はあそこしかない(厳密に言うともう一人が一直線配置以外どこにいても三角形にはなる)。
すると、本当に釣り人がいた。ただ、知った顔ではなかった。知人ではなかったのだ。
「でもさ、桟橋で釣りしていたやつは山下さんに似ていたのよ。すげえ似てた」
男が驚いた顔でいう。
「おー、山下さん」
「あの人、いい人だわ」
周りのサラリーマンの反応も上々。村田より好印象であることがわかる。
「結局、この釣り場でも俺と村田と山下さん、知り合いが三角形に配置されていたんだ」
ここまでくるとツッコミが難しい。いやいや、一直線が以外は絶対に三角形になるでしょ、というツッコミは周回遅れになりすぎて完全に野暮だ。
そもそも山下さんに似た人は似た人であって知り合いではない。他人だ。三角形の一角が他人だ。もはや知り合い三角形説でもなんでもない。これは正論すぎる。あまりに正論すぎる。正論は時に人を傷つける。
ただ、僕はこの状況での的確なツッコミに到達してしまった。
この場合の正解は「日清戦争の風刺画か」である。

うん、この場合はとにかく日清戦争の風刺画か、が正解だ。野暮でもなく、周回遅れでもなく、適格。
おまけにキングダムが扱う中国の戦後時代から1800年くらい経過した同じく中国の清の時代だ。思いがけず時間旅行した気分だ。妙なところでつながったな!
まだ三角形説で盛り上がるサラリーマンたちを尻目に、長めの休憩を終えて読破堤に。また1800年のタイムスリップでキングダムの時代へと舞い戻った。
キングダム 64巻

ふと思った。桓騎は何がしたいんだと。
この巻では、桓騎軍が窮地に追い込まれる。圧倒的に押し込まれ、軍勢は散り散り。あとは大将である桓騎の首を取って趙軍の勝利を決定づけるだけになる。
しかし、そこで奇想天外な戦い方をする桓騎の見せ場だ。圧倒的に規格外な戦術を用いて敵将を討ち取り、大逆転を起こしてしまう。
将軍を討ち取られた趙軍は一気に士気を喪失する。次々に降参して秦軍へと投降していく。その数、なんと10万。桓騎の兵の数より多い。たぶん士気さえあれば桓騎軍を圧倒できる戦力。それがすべて投降した。
この戦によって仲間を処刑された桓騎は怒りを見せる。そして、投降して捕虜となった10万からの趙兵士、すべてを処刑する。10万人からの投降兵すべてを次々と斬首していく。圧倒的な暴力だ。
なにやってんの!
堤防で叫んでしまった。
その行動原理が理解できない。桓騎の行動原理が理解できない。
作中でも、そもそも捕虜の数が桓騎軍の数より多くて蜂起されたら負けもあり得た、と理由付けされているし、10万からの捕虜を食べさせる兵糧はなかった、など色々な理由があったように説明されているのだけど、桓騎の中にはそういうのとは別次元の不合理みたいなものが存在する、そう感じた。
桓騎は乱暴である。桓騎は怖い。桓騎は無軌道である。桓騎は野蛮である。桓騎は残虐である。そのへんは多くの人が感じることだろう。
けれども、そんなのとは別次元、彼にしか見えていない不合理みたいなものが存在するのではないか。なんというか、誰もが気味悪さすら感じる不合理だ。
そして、その不合理な行動は趙国を怒りに震えさせると同時に窮地に追い込む。なんとか巻き返すため、先の敗戦の責任を取って失脚していた李牧が復活することとなる。
残虐性だとか虐殺だとか、そういった直接的な怖さというより、その居心地の悪い不合理が気味悪い。僕の中で桓騎とはそういう男だ。
キングダム 65巻

64巻でも触れたとおり、追い込まれた趙国はついに李牧を復活させる。復活早々、なにやらゴソゴソと策の準備をはじめる。
最初こそは、李牧が出てきて何らかの策略を華麗に決めるたびに、おお、李牧だ。コイツ強いなと感じていた。さらに、敵サイドでありながらその動向や境遇が事細かに描かれているので、かなり重要な役どころであると思っていた。いわゆる「愛される敵役」というやつだ。そんなちょっと憧れみたいな気持ちから僕自身も「令和の李牧」と自称した時期もあった。ただ、ここにきて少し様子が変わってきた。
こう何度も出てきて、そのたびにこちらの行く手を阻んできて、そのたびにジメジメと策を巡らしてきやがって。
またかよ、もう李牧はいいだろ、と思ったし、史実でも李牧はこんなにジメジメした野郎だったのかと気になりだした。ということで、ここにきて初めて史実での李牧について調べてみた。
どうも調べた限りだと、史実において李牧が何度も何度もそのジメジメ策略によって秦の行く手を阻んだということはないみたいだ。
このキングダムにおいては初期から登場してなんども秦とやりあってきたけど、史実においては、66巻から描かれることになる宜安の戦いから秦の前に登場するらしい。
そうとは知らずに、李牧のやつ何度もジメジメと出てきやがってとか酷いことを言ってしまった。
史実とは異なり、初期から李牧を登場させていることからも、キングダムにいおいては李牧を重要敵役に育てようという狙いがあったに違いない。
おそらくここからも李牧の扱いは大きくなっていくのだろう。
どこかでも史実とは壮大なネタバレであると述べたけれども、このキングダムにおいては完全に史実をトレースしてるわけではない。その史実からのズレを知ることで、どういう意図があるのかを窺い知れる。これは史実を知る人間のみに許された楽しみ方。もしくは興味を持って史実を知っていくという二重構造の楽しみ方になっている。
65巻まできてこの作品の新しい楽しみ方を知ってしまった。
キングダム 66巻

66巻までくるとさすがに公園側の位置になってくるので、とにかくトイレが近い。これは頻繁にトイレに行くという意味ではなく、物理的な距離が近いということだ。
何度も説明するけど、読破堤では巻が進むほど掲載位置が公園に近づき、トイレが近くなる。逆に1巻あたりはめちゃくちゃ遠かったので本当に苦労した。やっとここまでトイレに近づいたんだ。
これならば、下痢とかが来ても大丈夫だ。なにせ66巻だ。これが1巻とかだったら、下痢だ!と思った瞬間に走り出しても40巻あたりでビチュアピュルピュルとなってしまう。けれども66巻なら大丈夫。余裕すぎて鼻歌まじりだ。
そうなると人間とは面白いもので、本当に下痢が来る。そして、その下痢に対して大胆になっていく自分がいる。早い話、ギリギリまで待ってみよう、というお戯れがはじまるのだ。
よくよく考えてほしい。絶対に間に合うタイミングでの腹痛はリスクがゼロである。それは安全であるのと同時に、冒険を失っていることになる。
そして人は、圧倒的な安全に満足できなくなり、不合理に冒険に手を出すことがある。この時の僕がまさにこれだった。
ここが1巻だったらもう走りださないと手遅れになるほどの腹痛。まだよ、まだよ。この見極めが大切だ。まだこれでは安全圏を抜け出していない。
そろそろ危険かな。この腹痛の深さ(玄人は腹痛を深さで語る)はけっこうリスクが出てきた。それでもまだ絶望ではない。
そう、人は時に絶望を欲するのだ。ただ本当の絶望はいらない。絶望だと思わせられて、ギリギリで助かった、そういうのが欲しいのだ。
絶望をくれ、でも本当の絶望はいらない。
これは、自分を成長させるために他人に「俺の悪いこと指摘してくれ、でもガチで傷つくやつはやめてな」というやつに近い。
それと同じで、いま僕は腹痛で絶望を得ようとしている。そして本格的にビチュルリアみたいにはなりたくないので、適度な絶望を得ようとしているのだ。
それを考えるともうちょっと我慢だ。いやそろそろ危険か。うん、やばいかも。いまだ!
トイレに向かって走り出す。もしかしたら間に合わないかもしれない。そう考えながらも心の奥底では間に合うと思っている。インスタント絶望だ。
さすが66巻。トイレが近い。
完全にギリギリのタイミングで、もう表面張力みたいな状態で駆け込む。やった間に合った!本当にギリギリで間に合った!やった!
個室ブースは満員だった。神様はいない。だって祈ったもん。祈ったもん。
キングダム 67巻

ついに、桓騎と李牧が相まみえることとなる。秦国と趙国の激突というだけではない。どちらも入念に描かれている二大巨頭キャラの激突ということで、なんかこうクライマックス感が高まってくる。
別の見方をすると、豪快で型破りな戦をする桓騎と、ジメジメと策を巡らす李牧の対決だ。どちらが勝つのか目が離せない。
と思っていたら、急に桓騎の過去が語られるシーンがやってきた。
僕はこういったマンガなどで過去回想が入ってくる展開をあまり好ましくは思わない。特に、これからクライマックスだぞというこの場面でこれは、完全に引き延ばしじゃねえかと萎えることがある。ただ、ここは違った。なにせ桓騎の不合理さが気になっているのだ。
この桓騎というキャラクターはキングダムという作品が初期から抱えていた怒りと矛盾、その権化みたいなものだと薄々と感じているからだ。
ここらで一気にそれが解消されるかもしれない。あまり好きではない過去回想でもそうとなれば話は別だ。
桓騎の過去回想にあたり、桓騎軍の砂鬼一家という連中が出てくる。その中の一人が語る形で桓騎の過去が明かされていく。こいつらがまあ、とにかく不気味だ。
ものすごい死臭を身に纏い、なんか穴をあけた革袋をかぶった集団、その名を砂鬼一家という。この一家は桓騎軍の暗部みたいな連中だ。
拷問担当で死体を弄んだりとやりたい放題、桓騎の残虐な部分や闇を一手に引き受けているような、それこそ桓騎軍の象徴みたいな連中だ。
この砂鬼一家は、桓騎軍が結成された当初からそうやって闇の部分で暗躍しており、桓騎軍の最古参みたいな顔をしている。けれども、実はそうではない。なんと、砂鬼一家の最古参が桓騎なのだ。そう、桓騎のルーツは砂鬼一家にあったのだ。
雨の中で倒れていた13歳の桓騎を砂鬼一家の一人が拾ってくる。そして、この桓騎によって砂鬼一家は現在の残虐な集団へと変えられていったのだ。それまではそんな集団ではなかった。
これはとにかくいいな。桓騎軍の最古参が砂鬼一家ではない。砂鬼一家の最古参が桓騎なのだ。この逆説的なセリフは僕もどこかで使ってみたい。とにかく使ってみたい。
どこで使えるかと延々と考えてみる。
例えば僕の右足には、古い傷がある。人生の中で思いだすことができる最も古い傷だ。
シーズンオフで泥が蓄積している公園のプールを自転車で横断する遊びをしているときに滑ってスッ転んで尖った石がぶっ刺さったときにできた傷だ。
思い出せる限りもっとも古い傷なので、僕の体の最古参の傷だと思うかもしれないが、実はそうではない。この傷の最古参が僕なのだ。この傷から僕が始まったのだ。
僕はこの傷を定期的に触るようにしている。その感触からこれまでの多くの傷が思い起こされる。思えば、傷だらけの人生だった。肉体的な傷だけではなく、心の中に傷を負いながらなんとか生きてきた。そういった意味でこの傷の最古参が僕なのである。
桓騎の過去を見ていると、そんなことを考えてしまう。なぜなら砂鬼一家もまた、傷を抱えた子どもたちの集まりだったからだ。
桓騎の過去回想が続く。桓騎を拾った砂鬼一家はいかにして残忍で残虐な集団へと変貌していったのか。
砂鬼一家は傷を持った子どもたちの集まりだった。大人たちに痛みつけられ、虐待され逃げてきた子どもたちだった。そんな子どもたちが野盗をして生計を立てていた。殺さず、必要以上に奪わずという野盗だ。
そんな大人たちからの迫害から逃げてきた子どもたちの集団に、またも大人たちの魔の手が伸びる。彼らのわずかな営みさえ奪おうとするのだ。彼らは常に虐げられ、奪われるのだ。
桓騎はその理不尽な大人たちを始末してしまう。あっという間に殺してしまうのだ。
一家を救った桓騎の行動は感謝されなかった。逆に、なんてことをしてくれたんだという感じになる。みんな大人たちからの報復をおそれたからだ。
心配したとおり報復が始まる。砂鬼の村を捨てて報復から逃れようとした一行だったが、大人たちは執拗に追いかけてきた。
そこで桓騎は始末した追っ手たちの臓物を引きずり出して木々に張り巡らせる。どこかで見たやつだ。桓騎軍の残虐行為のルーツだ。
さすが、桓騎はこんな子どもの頃から残虐なんだな、生粋のサドくらいに思ったけど、実際の思惑は違った。
この行為の本質は単なる嗜虐性ではない。誰もがやらないような、頭がおかしいと思われるような異常な行動をすることで、自分たちに、砂鬼の子どもたちに誰も近づかせないようにするためだったのだ。
僕はこれにめちゃくちゃ共感してしまった。
僕は異常さを鎧にしている。
僕は、いかに頭がおかしいのか徹底的に分からせて、誰にも影すら踏ませないことをやりがちだ。例えば、全巻読破を堤防でやったりだ。こんな記事を書くやつ、どこを見渡してもいないのかもしれない。
そうすることで自分の中に守りたいものがある。そう。自分の中の守っているものがある。それはいいかえると自分の「傷」ともいえるのかもしれない。それに気が付いたのだ。
あまりに、おかしい企画をやってる時、なんでこんなことするんだろうって思うことがある。全巻読破を堤防でやったりしながら妙に冷静になることがある。突飛なことをしているとき、自分は本当に頭がおかしいのではないかと心配になることがある。でもそうじゃない、僕は自分の中の譲れないものを守っているだけなのだ。
なんだかそれがわかって妙に安心してしまった。
この読破堤だって本来は会議で否決されるべき企画だ。佐賀県も異常さを鎧にしてなにか守りたいものがあるのかもしれない。
キングダム 68巻

良い作品とはなんだろう。おそらく世間的に評価されているものがそれである可能性が高い。では、「自分にとって」良い作品とはなんだろう。それは世間の評価とは違う。想像だにしなかった何かを考える羽目になること、それを僕は良い作品と呼ぶ。
想像だにしなかった何かを考える羽目とはなんだろう。それは、作品の内容がいつの間にか自分ごとになっていることかもしれない。
それは「これ君のことだよ」と直接的に語りかけてくれるものではない。「これ俺のことだ」と気づかせてくれるものでもない。それはいささか自意識過剰だ。
むしろ、自分の中でずっと異物だとか異常だとか思っていたものに対して「それは最初からそこにある当たり前のものかもしれない」と教えてくれるものではないか。
それを良しとするか、嫌悪するか、それは人それぞれだ。けれども、そう自分で気が付くだけで随分と違う気がする。そしてキングダムにはそれがある。
桓騎の過去が続く。
ここで桓騎の持つ怒りの根源みたいなものが明かされていく。かつて奪ってきた大人たちに復讐をする桓騎たち砂鬼一家。
その様子を見ながら考える。桓騎はなにに怒っているのだろうか。
子どもたちを虐げ奪ってきた上流の上流の人間に対して怒っていたのか。それとも、奪われることに慣れ、諦めて抵抗すらしなくなってしまった底辺の弱さに怒っていたのか。
桓騎の怒りはそのどちらでもなかった。
底辺が怒りを向けるべき相手は、無関係を決め込んでいる中間の奴だら、桓騎はそう言い切る。
中間にいるやつらがなにもしねえから世の中の構造が変わらない。桓騎はそこに怒りを抱いている。底辺にいる人を虐げている上にいる人間。その上の人間に憎悪を向けるのではなく、無関係を装って上の人間のバカな行動を許している中間層こそがクソだと言い切るのだ。
この世界が変わらないこと、クソであり続けることへのへの怒り。
これは現在でもずっと続いている。むしろ現代の方が顕著であり複雑であるのかもしれない。
桓騎の時代と異なり、現代では多くの人は明確な支配者でもなければ明確な被支配者でもない。奪う側と奪われる側のコントラストが白日の下に晒されるわけでもない。でも本当はその構造があることにみんな気づいている。
明確な支配構造がなくなった現代では、怒りは上層という大きな括りではなく、個々人に向いたのではないかと思う。
多くの炎上事案を眺めていいて思う。政治家の不祥事、企業の不祥事、悪質な犯罪、有名人のやらかし、それらにみんな怒っている。だから炎上が起きる。
もちろん全部がそうだとは言わないけど、それら個別の炎上の裏側にあるのは、それが起こりえる社会への怒りではないだろうか。
こんなクソな政治家が出てくる社会への怒り、企業の不祥事が起こりえてしまう社会への怒り、などなど、そんなことが起こりえるこのクソな社会への怒りが根底にあるのではないだろうか。
少なくとも僕は何かに起こってる時、そんなことが起こりえる社会にも怒っているような気がする。
ただ、僕らは知っている。いまこの世界を怒りを持って変えることは難しい。ひとりの人間が声を上げて社会が変わるだろうか。悲しいけれど、それがけっこう無力であることはどこかで承知している。だから、個別の相手に怒りこそすれ、それが社会に向かうことは少ない。
極端に言ってしまえば、こんなひどいことをした人がいました。許せない、とその人には怒るけど。そんなひどいことが起こった社会にはあまり目が向かない。
極端に言えば、僕らは個々の悪には怒る。しかし、その悪を生み出した構造にはあまり怒らないとい。怒ってもどうにもならないとどこかで気づいているからだ。
ああ、これって桓騎の言っていた中間層そのものだ。そう気づいたのだ。
桓騎の時代は、中間層は自分が奪われるわけでも奪うわけでもないから無関係を決め込んでいた。そして現代では、無関係を決め込まないまでも、発達しすぎたこの社会を変えるのは難しいため、個別の案件に怒りが向かったように思う。
なんてことはない。いつだって社会はクソなまま変わらないのだ。
キングダム 69巻

キングダムという作品はこの巻のために存在していたのだ。
絶対にこの巻だけは読んで欲しいので内容については多くを語らない。あらすじも説明しない。でも、この巻だけ読んでもその凄まじさには気づかないだろうから、やはり1巻から読んで欲しい。キングダムは69巻がすべてだ。69巻でいったん完結すると言ってもいいくらいだ。
堤防に立ち尽くした。もうすぐ日が落ちる。2日目が終わる。
この巻に登場する誰に共鳴したのか、ただ僕はその場で立ち尽くすことしかできなかった。
それはまさしく僕らが抱くこの世界への怒りと無力感でもあった。そして少しの慰めでもあった。
桓騎の魅力とはなんだろう。この読破堤でも「桓騎注意」などと何個も看板が立てられるくらいなので、人気があるかどうかは分からないけれども、多くの読者の心に残るキャラクターであることは間違いない。
それを1巻から読破していた僕は分からなかったし、数巻前では気味が悪いほどの不合理とまで称した。いうなれば、対岸にいた不合理な存在だった。
それが、この69巻で突如として桓騎を通して自分の中の異物に気が付くのだ。
僕は多くのことに怒りを持っている。この不合理な世界にも、よく分からない社会システムにも、誰かの不幸にも、誰かの悪意にも、そしてそれらに対してなにもしない、できない自分に怒りを持っている。どんな形であり、何かを作り上げて発表する人の多くは何かしらの怒りをもっている。
ふと、自己嫌悪に陥ることがある。自分はあまりに怒りすぎではないか、もっと心穏やかに生きられないものか。自分で自分を嫌いになる。
けれども、桓騎の最期を通して気づかされる。
怒るのは誰よりも希望をもっているから。
このどうしようもない世界のことをいちばん希望をもって信じていたのが桓騎だった。だから桓騎はずっと怒っていた。
桓騎は何かが変わると思って行動してきた。でもいつも期待どおりに世界は変わらなかった。砂鬼一家から略奪しようとした大人を殺した時も、執拗に「感謝は?」と仲間に感謝を求めていたのは冗談でも何でもない。何か変わると思って大人たちを撃退した。でも、得られた反応は報復を恐れる子どもたちの「なんてことをしたくれたんだという反応だった。桓騎はこのクソな世界が変わって欲しいとずっと願っていた。そして変わらない世界に怒っていた。
なんというか、自分自身も、希望を持っているから怒っているとまでは思わないけど、なんというか、それでも、これ怒ってるのは希望があると思ってるからだよな、そんな考えもしない異物に意識を持つようになったのだ。
怒りとは希望である。まるで自分の抱える多くの怒りを許容されたような気がしたのだ。
早い話、69巻には赦しがあった。
そして、まだ僕にも希望がある、そう気づかせてくれたのだ。
このキングダムという作品が初期から持っていた違和感、歪のようなもの、それらがすべて桓騎に収束し、昇華された。
初期からの歪みに答えが出た。ここまででキングダムはいったん終わり、70巻からあたらしいキングダムが始まると僕は断言する。
キングダム 70巻

ついに70巻に到達だ。あれだけ遠かった公園サイドがもう目と鼻の先。「うえー、1巻って300メートル先かよ」となった看板もすぐそこにある。
李牧VS桓騎の描写は間違いなくこの作品のクライマックスだろう。そのあまりの凄まじさにすっかり忘れていたけど、体が痛い。ただ、70巻に到達ということで自分の中の節目みたいな感じなので、あまり限界は感じない。
ただ、腰だけはめちゃくちゃ痛い。ずっと無理な態勢で読んできたものだから腰に火がついたように痛い。僕はこの痛みを知っている。結婚式の二次会で酔っ払ってはしゃぎすぎて、希望する青年男子たちを次々とお姫様抱っこした時の痛みだ。あれで腰が発火して3日間、起き上がることができなかった。あの痛みだ。
それでも節目の70巻だ。痛みをこらえて読み進める。
この70巻は、キングダムという作品にとっても節目のようだ。調べてみると、この70巻の発売と同時に累計1億部を突破したらしい。これは集英社の青年誌としては史上初の快挙らしい。
69巻の感想において、キングダムは69巻までで「桓騎と希望の怒り」が終わり、作品が初期から抱えていた善悪感の矛盾みたいなものが消化されたと思っている。
この70巻からは新しいキングダムが始まると予感した通り、韓非子(かんぴし)が登場してくる。あの中国古典の人だ。
韓非子は韓の法家だ。法家とは簡単に言ってしまうと、国家を統治する法治主義を唱えた政治思想家だ。
韓と秦の同盟なるか、という場面で韓非子が登場してくるのだけど、ここでの彼の問いが興味深い。
「人は生まれながらにして善か、悪か?」
性善説と性悪説について問いただしているのだけど、ここは本当に興味深かった。韓非子はもともと性悪説を唱えている。人は利己的な欲を捨てきれない悪である。秦の王である政もそうなのだろうと切って捨てる。
韓非子にとって、秦王の理想など関係ない。中華統一という大義を掲げていたとしても、他国から見れば自らの願望のために戦を起こす最も利己的で巨大な欲望の体現者なのである。
キングダムは秦国視点で描かれてるので政は主人公サイドだ。当然、中華統一する理想も知っているし、そのために必要な戦いをしていると知っている。
けれども、他の国から見れば、中華統一という自分の欲望のために他国に攻め入り、多くの命を奪っている最も利己的な存在なのだ。
人は本質的に悪である。このあたりは法家としての韓非子の特性が出ている。そもそも人がすべて完全なる善ならば法で律する必要はない。法律とはほっとくと人は悪事を働くという前提で作られている。
ただ、それに対する答えを、本当に朧気ながらだけどここまで読んできた読者は手に入れている。
作品の初期から、敵役であっても完全に悪とは描かず、その中にある善の部分を一貫して描いている。そう原先生の善悪感を指摘してきた立場としては、この韓非子との問答は69巻までの答え合わせのようでもあった。
善とは朧げなものであるし、悪もまた朧げなものである。
「人の本質は悪か善か?」
その問いかけに対し、遠回しに描かれてきたそれらの答えが、ここでは信のセリフとしてはっきりと主張される。
「悪ってなんだ?」
桓騎は悪だったのか。残虐な殺戮を繰り返し、多くの命を奪ってきた桓騎は悪なのかもしれない。少なくとも殺された側に立てばそうだ。
けれども、桓騎一家の連中にとって桓騎こそが光だった。善と悪なんて立場が変われば容易に入れ替わる。そんなあやふやなものに縋って人が善だとか悪だとか決めつけるのは無茶ってもんだろうと信は主張する。
「人の本質とはなんだ」
信の返答に驚いた様子の韓非子はさらに質問をぶつける。信はまっすぐ答える。
「人の本質は”火”だ」
奇遇なことに、僕の腰も本質は”火”だ。いま火がついたように痛い。
そんなことはどうでもいいとして、ここでは39巻で同じ質問に大ゴマで答えた政の「人の本質とは光」という答えとの対比が面白い。
そもそも光は誰かを照らしこそすれ、その光を受けたものが自ら光を放ち始めることはほとんどない。そんなの現代での蓄光材くらいのものだろう。けれども火は、次々と周りに移っていき、どんどん大きくなっていく。ただ、どちらもエネルギーであるという点では同じだ。
王であり上の立場である政はそれを「多くの人を照らす光」と定義した。現場で戦う信はそれをどんどん燃え移っていく火と定義した。
人は命を燃やして何かを成し遂げようとする。その想いの火は関わった人間に燃え移っていく。様々な将軍の生きざまを間近に見て火を受け取ってきた。信は時に敵が携える炎すら燃え移るという。
なるほどなるほど。だからキングダムのフォントは燃え盛っているのだな。

空港では「空港に燃えるフォントはまずかろう」と揶揄したけれども、これは想いの火なのだ。納得した。これに納得したということは、僕にもキングダムという作品の炎が届いたということだろう。
キングダム 71巻

さて、キングダムでは71巻でも依然として戦いは続いていて、また李牧がネチネチと策を弄してきそうな雰囲気が生じている。正直に言わせてもらうと、中盤あたりでは李牧ってめっちゃ人気あるキャラなんだろうなと感じていたのだけど、そうじゃない気がしてきた。
かなり重要キャラで美形に描かれているし、敵国の策士という立場でありながらキャラの掘り方が深い。李牧中心に描いた話が続くことだってある。何度か不遇な目にあいながらもそのたびに復活してくる。きっと大人気のキャラだ。
けれども、あまりに敵役を李牧に担わせすぎではないか。
李牧は史実より早く秦国の前に立ちふさがったのだけど、そのために何度も何度も出てきてはネチネチネチネチネチネチ策を弄する存在に成り下がっている気がする。ここは史実からゆがめた弊害かもしれない。
正直にいうと「また李牧か」みたいな気持ちが存在しないといえば嘘になってしまう。
ただ、そう感じるのは僕くらいのもので、基本的にはやはり魅力的な敵役で大人気なのだろう。
ここ72巻周辺はこの読破堤の終盤もいいところで、公園に面した場所に近い。つまり、読破堤に到着した人が最初に通過する場所に近い。そこでいま来たと思われる、ちょっとアウトローな匂いのするカップルが李牧の登場コマを指さして会話していた。
「まじ李牧かっけえよな」
「わたしも李牧すき」
ほら、人気ある。
「李牧はまじつえーからな」
ちょっとEXILE風な彼氏からそんな言葉が飛び出す。強いは正義なのである。それにしても、このEXILE風の彼氏もかなり強そうだ。李牧とは違ったベクトルの強さがあって、まったく策を弄さずにそのまま腕力で殴りそうな強さがある。それでいて悪そうでもある。
いやー、本当にこのEXILE風の彼氏、強そうだよなー、すごい自分側が正当としか考えられない事象で店にクレームを入れに行ってこの人が出てきたらクレームを引っ込める自信がある。いくらこちらが正当でも引っ込める。それくらい怖そうだ。
そんなカップルを眺めていたら、ちょっとした事件が起こった。
「あれ?」
「おりょりょおりょりょ」
「いやはやいやはや」
「おつかれーす!」
公園側から軽快にやってきた男性が、どうやらEXILE風の彼氏に、これまた軽快に話しかけはじめたのだ。
「あ、おつかれです」
EXILE風彼氏も挨拶をかえす。お、この男性、EXILE風の知り合いか。まさか配置が三角形じゃないだろうな。やっぱりEXILEと彼女と知り合い、配置が三角形だったわ。
「こんな場所で会うとはね」
「はは、けっこう好きなんすよ。山岡さんもですか?」
会話の内容から察するに、やってきた男性はEXILEの職場の先輩っぽい。上司までの上下関係ではないけど、ちょっと上といった感じだ。
クレームをひっこめさせるくらい怖い感じのEXILEなのに、ちゃんと職場の先輩に敬語を使えるんだと感心した。多くの人が感じる印象と、実際は大違いということか。
「じゃ、おれ1巻のところまで行ってくるわ」
山岡さんは300メートル先の1巻まで歩く決意をしたようだ。
「あ、おつかれさまです」
EXILEは頭を下げる。
「じゃあな、マロンピンちゃん」
なに?マロンピン!?EXILEは職場ではそう呼ばれてるの?クソ怖そうな感じなのにけっこうカワイイ名前がついてるんだな。このEXILEがマロンピン。多くの人が感じる印象と、実際は大違いということか。
キングダム 72巻

うおーついに72巻までやってきた!
ついについに72巻だぞ!なにがついにかというと、これだ!

最初の、読破堤というどでかいタイトルと注意書き。これが72巻の隣に存在するのだ。つまりスタート地点に戻ってきた。そう、1巻から延々と300メートル読んできたのだ。「読んできた」に付属する数値の単位が「分」や「時間」でもなく、「冊」でもなく、「メートル」なの、色々とおかしいけどすっかり慣れてきた。完全に体と脳が読破堤に染まっている。そう、読書とはメートルを経て行われるものかもしれない。
とにかく、スタート地点に戻ってきたということは、長い長い読書体験もゴールを迎えたということなのだ。読み切った。読破した。
もう、燃え盛る腰を抱えながら読む必要がないということだ。あと、帰りの飛行機にもたぶん間に合う。
さてさて、いよいよラストとなる72巻を読みましょうかね、となるのだけど、最後まで読み切って様子がおかしいことに気が付く。まさか、そんなことが!ことの真相は73巻で!
キングダム 73巻

72巻でスタート地点に到達したろ、この読破堤は72巻までなんだろ、なんで73巻があるんだ、と多くの方が思ったに違いない。
けれども、聡明な読者諸兄なら気づいていたはずだ。

さきほどのこの画像、右サイドに写る72巻の本編と、スタート地点を表す「読破堤」のドデカタイトル。その間に帯がある。この帯は単行本の背表紙の部分がそのまま使われている。これまで1巻、2巻と区切りを現してきた。なぜかここに73巻という帯があるのだ。
そして、そこには気になる表記が。

「73巻以降は50メートル先」
まだあんのかよ。
さすがに「1巻は300メートル先」ほのどの衝撃ではないにせよ、もう終わりと見せかけて、腰が助かったと思わせといてのこれは衝撃が大きい。
佐賀県の企画の人が「ここらで終わりと見せかけて、それ以降はちょっと先にあるよってやって心を折ってやりましょうよ」ってやってるのかもと一瞬だけ思ったけれども、たぶん、堤防の構造として仕方がなかったんだと思う。
この72巻の横には、堤防を乗り越えて干潟の景色を堪能できるデッキみたいなものがある。階段で堤防を乗り越えられる小高い場所だ。

こういう景色を望めるわけだ。

このデッキからは、300メートル先の1巻の消失点がよく分かる画像も撮影できる。
さすがにこのデッキへ階段とか、干潟のことを紹介したパネルとかあるので、そこに掲載できないので、離れた場所にあるわけだ。

50メートル離れた先、絶滅危惧種でもあるクロツラヘラサギの飛来地であることを紹介したパネルの隣に続きがあった。信も頼もしい感じで「いくぜ」と言っている。
けれども、この堤防もそう長くは続いて内容で、数巻で終わりそうだ。これが、73巻の「いくぜ」からもう70巻くらいありますとか言われたら卒倒するところだったけど、あと数巻ならなんとかいける。
「いくぜ!」
僕も頼もしい感じで呟いた。
キングダム 74巻

73巻で、もう読破堤も終わりと安心したら「まだあんのか」となって驚いている間に、キングダム本編の方では秦国が李牧にすっかりやられ、手痛い敗北を喫していた。秦国の中華統一の理想が遠のく敗北だ。
手痛くやられたので李牧はいったん置いといて、中華統一への立て直しを図るべく、韓の国を攻めることにする。韓を攻略するための要衝となる南陽を攻める。
「ほら、やっぱり69巻からキングダムという作品が新しいものになった」
この韓攻め、南陽攻略にキーとなったのは「無血開城」だ。これまでは城を攻め入り、民衆を殺し、大将を討ち取って占領してきた。けれども、そんな風に余計な死者を出す必要はない。どうせ勝ち目はないのだから戦いになって余計な血を流す前に城を明け渡しなさい、というものだ。
南陽の城を守っていた城主は聡明な人物で、その要求を飲んで無血開城を行う。余計な血を流すことなく、南陽は秦国のものとなった。
ここで、キングダムという作品が一つ先に進んだなと感じたのが、秦国の騰という将軍の存在だ。彼は、あの大沢たかおじゃないや、王騎のもとで副将みたいなことをしていて、王騎の死後に軍を引き継いだ将軍だ。
いくら無血開城したとはいえ、反乱の芽を摘むためには、前の城主は処刑するのが普通の考えだった。
しかし、騰は「処刑の必要はない」と咎める。そして、秦国の六大将軍が持つ「戦争の責任」について説く。
かつて、秦国に伝説的な強さを誇る6人の将軍がおり、六大将軍と呼ばれて他国に猛威を振るっていた。政はその六大将軍を復活させており、そこに騰が名を連ねていた。
六大将軍には「戦争の自由」が認められており、国の中枢の判断を待たずに自分の判断で他国と戦争することが許可されていた。
騰はいう、かつての六大将軍には「戦争の自由」があったが、いまの新しい六大将軍には「戦争の自由」に加えて「戦争の責任」があると。
これから秦国は中華を統一していくわけだ。もし成功したならば、韓も秦国の一部となるわけだ。その際に、むやみに恨まれる必要はないというわけだ。
城を攻め入り、虐殺、略奪の限りを尽くし、城主を処刑する。それを見てきた民が、あなたは今日から秦国の一部ですと言われて恨みが消えるだろうか。
また、この南陽の様子は韓の国内で注目されている。南陽は攻められ、秦に凌辱されて城主も殺されたとなれば、文字通り死んでも負けるわけにはいかない。その抵抗も決死のものになるだろう。
それらを防ぐためにも、最後まで無駄な血を流してはいけない、と騰は主張するのだ。統治の理屈だ。
これまで、勝ち取った城で略奪に殺戮の限りを尽くしてきた桓騎などに、信は異を唱えた。ただ、その理由は「なんか嫌なんだ!」というものが主だった。きわめて主人公性が高い主張だけど、れをキングダムという作品の歪みとまで評したのは僕だ。
ただ、ここで初めて虐殺は理論的に好ましくない、という理由を理解し、説明してくれる将軍が現れた。これこそが、69巻以降の新しいキングダムなのだと思う。
ここで行われたのは単なる無血開城ではない。キングダムという作品のテーマが本当に中華統一に向かったという確固たる宣言なのである。
キングダム 75巻

残りの堤防スペースから考えて、あと3巻くらいか。そろそろ時間的にギリギリだ。空港に向かわねばならない。
無血開城した南陽ではギクシャクしながらも秦の兵士と南陽の民との共存が実現していた。ここの描き方はすごくよくて、74巻までずっと殺伐とした戦を描いてきたのに、突如として理想の未来像みたいな感じになっていた。悲惨な展開を迎える前の理想郷的な夢、そんな儚さすらあった。南陽の城壁に互いの国の旗を並べるところなんて本当によかった。
キングダムが持つ新しいテーマにおいて、「無血開城」こそが重要なキーワードになることは明白なのだけど、読破堤で読破しようとしている僕も無血開城が重要なキーワードになりそうだ。
なんというか、あとわずかで読み終わるというのに、無血開城か否かという緊迫した状況になっている。
全ての元凶はスイカだった。
実家から送ってきたスイカでひと悶着あったのだ。実はここ読破堤で何度か腹痛に襲われているが、たぶん原因はこのスイカだ。もしかしたら燃えるように痛い腰すらも、このスイカによって引き起こされている可能性が高い。
送られてきたスイカはギャグなんじゃないかと思うほどにデカかった。乳幼児よりデカかった。スイカの旬じゃないのにでかかった。そんなギャグみたいな大きさのスイカが、ギャグなんじゃないかと思うタイミングで実家から送られてきた。
こちらを監視していて一番いやなタイミングで送っているんじゃないかというタイミングだ。そう、これから飛行機に乗って佐賀に行くぞという絶好のタイミングだ。玄関でスイカを抱えながら「どうすんだよ」と呟くことしかできなかった。
我が家の脆弱な冷蔵庫ではこのスイカを保存しきれない。佐賀に行って戻ってきて腐っていたら悲しい。もう食うしかないとギャグみたいに大きなスイカを丸ごと食べて佐賀入りしたのだ。
佐賀入りして出たゲップからスイカの風味が漂ったので、東京で食べたスイカのゲップが佐賀で出る、風流だか風流じゃないんだか、となった。
で、そいつが猛威を振るって大暴れだ。めちゃくちゃな腹痛を引き起こした。スイカが古かったか悪かったではない。スイカは新鮮で美味かった。でも、どんなに良いスイカでも急いで1玉食えば腹痛にもなる。そして、何巻くらいだったかな、耐えかねてトイレに行ったときに事件が起こった。
「すわ!血便!」
真っ赤に染まる便器。自分の死期が近いことを悟ったのだけど、あれ、いま思うと血便じゃねえや、スイカがそのまま出てきてるわ。ただ、ここでの僕は血便だと思い込んでいるので、完全に意気消沈している。
中華統一のために儚く死んでいった将たち、兵士たち、彼らは矢に倒れ、槍に倒れ、剣に倒れていった。そして僕もまた、スイカによって。
そして、ここ75巻でまた腹が暴れだしている。内臓側からドンドンと激しくノック、暴れ太鼓だ。もちろん、時間的にトイレに行くと飛行機に間に合わなくなるので行けないという事情がある。
それ以上に、またトイレに行ってスイカが出てくると、この時の僕は血便だと思い込んでいるので、それこそ無理な読破がたたって血便が出たと思い込み、心が折れてしまう。300メートル先が1巻でも心折れなかったのに、血便で心折れる。
「読破するためにはここで血を流すわけにはいかんのよ(実際には血ではなくスイカ)」
僕は僕で無血開城を強く決意するのだった。
キングダム 76巻

無血開城の難易度はかなりのものだ。決意したもののよく考えたらかなり難易度が高いことがわかる。
よくよく考えろ、暴れる腹を抑え込んで読破したとしても、その後、レンタカーを駆って佐賀空港まで行き、レンタカーを返却して、搭乗手続きをして飛行機に乗って、シートベルトサインが消えるまで待つ、この間を耐えられるわけがない。おそらくレンタカーを返却するあたりで開城する。
「ひと通り傷がないか一緒にチェックしていきましょう」
「はい、こちらの傷は貸出時からある傷ですね」
「あ、こちらは。少々お待ちください……」
「うわああああああああああああああぺあああああ」
きっとこうなる。
ここまで妄想して、自分の中に抱える矛盾みたいなものに気が付いた。そう、僕は完全に矛盾した考えを抱いていたのだ。
血便(ほんとうはスイカ)を見たら心が折れてしまう。トイレに行っていたら飛行機に間に合わなくなるので読破できなくなる。こういった事情から、どんない腹が暴れ太鼓であろうともトイレに行くわけにはいかないと固く決意していた。
トイレに行かなければウンコも出ない、つまり血便も出ない(実際にはスイカ)、つまり血が出ない。そんな意味で「無血開城」とう表現していた。つまりウンコを我慢する意味で無血開城を使っていたのだ。
けれども、さきほどの妄想パートにおけるレンタカー屋とのやり取りはどうだろ。
レンタカーを返却するあたりで開城する。
様々な防御を突破して、不本意にも漏れ出てしまうことを「開城」と呼んでいる。つまりウンコが出ることが開城なのだ。
はっきり言ってこれは言い逃れできない矛盾だ。数行前ではうんこを我慢する意味で開城を使っているのに、舌の根も乾かぬうちの今度は漏らす意味で開城を使っている。
そもそも本来の意味を考えると、やはり今まさに暴れ出んとするウンコを抑え込むことは鉄壁の城壁と言える。その城壁が破られるのだから、漏らすことを開城と呼ぶことの方がイメージに合う。
ただ「無血開城」となると少し事情が変わる。この場合は、開城よりも無血、つまり争って血を流さないことが強い意味を持つ。ここでも、争うということはウンコに徹底的に抵抗することを意味するので、本来は無抵抗、されるがままにウンコを漏らすことが本来の意味となる。
ただ、いまは特殊事情がある。いまの僕は血便(ほんとうはスイカ)が出るのだ。つまり、ウンコをすれば必ずや血が流れる(本当はスイカ)状態だ。つまり、開城すれば必ず血が流れる。そんなことさせてたまるか。そういった熱い思いが僕の中にある。
実はキングダム本編もそういう状態になっている。無血開城が成立し、その後の統治のあり方みたいなものも見えてきた南陽に続き、韓の都である新鄭に攻め込みます。秦側としては新鄭でも無血開城してほしいところ、けれども自国の消滅危機である韓側はそうはいかない。
結局、秦軍と韓軍は戦闘となる。
韓の将軍である博王谷(はくおうこく)と信の一騎打ちとなる。
博王谷の思いはただ一つ。ここで自分が負ければ都である新鄭に攻め込まれ、韓は破れ消滅してしまう。
「韓の民を秦国の奴隷になどするわけにはいかない」
博王谷の主張は当然で、戦で負けた国、取られてしまった城、それらの民が辿る末路は悲惨なものだった。
「いいや、南陽の民はだれひとり奴隷になっていない」
南陽の民は手を取り合って仲良くしている。新鄭だってきっとそうなる。だから無血開城するんだ。そう説得しても博王谷は信じない。
「それはお前らの思い込み。南陽の民は怖くて従うしかない状況なだけだ」
博王谷がけっこう聞き分けない感じで描かれているけど、彼がそう考えるのも無理もないことだ。
飛信隊の連中は、そんなことはない、俺たちは南陽の民から愛されて思いを託されている!と次々と南陽の民から贈られた石のアクセサリーを見せる。
ここはちょっと嫌だったな。なんというかちょっとしたNTR展開だよ、これ。飛信隊の連中も、よくもまあぬけぬけとこんな残酷なこと博王谷としては絶対に韓を守りたかったし、韓の民の未来を守りたかったわけ、そのために命を懸けて死に物狂いで戦っているわけ。
でも、命を懸けてるその韓の民たちは俺たちにアクセサリくれたけど?ってわけでしょ、そりゃ博王谷としてはショックだし、わかっていても引っ込みつかなくなるよ。
愛する彼女のために一生懸命に戦っていたら、その対戦相手であるチャラ男が、でもミユキ、俺にこれをくれたけど、ってクロムハーツのペンダント出てくるんでしょ。チャラ男は「まいったなあ、あんま俺の趣味じゃないんだよな、おたく、これいる?」とかやってくんだよ。そんなの耐えられないよ。
結局、無血開城!やったー!と短絡的なものではなく、国や城がなくなっていくのだ。そこに人の思惑が絡む以上、血は流れないけれどそれは尊厳を差し出す行為なのだ。
つまり、ウンコ漏らしてたとえ血便が出なかったとしても、なにか大きな尊厳みたいなものを失うのだ。そういった意味で漏らすことを開城と例えるのが正しい。
ちなみにいまは漏らすと高確率で血が出る(ほんとうはスイカ)ので有血開城である。血は流れるわ尊厳を失うわで踏んだり蹴ったり。絶対に漏らすわけにはいかない。
キングダム 77巻

ついに77巻に到達した。この取材時である2月の科時点で刊行されていたのは78巻まで。さすがにひと月前に発売された最新78巻は存在しなかった。
ただまあ、それは仕方ない部分がある。この豪快な企画であるところの読破堤、最新刊は買って読んで欲しいので載せるのやめましょう、みたいなみみっちい考えではないと思う。
普通に考えて、このテント地の布に配置を考えて印刷して、となると時間がかかってしょうがない。そうか、78巻はないかー、さすがにそこまで太っ腹じゃないか、と落胆していたところ、とんでもないニュースが舞い込んできた。
この読破堤、もともとは2026年1月から3月までの2か月限定の企画だった。2月に取材して記事を執筆している際には、「この企画は3月末で終わっちゃうから、読んだ人がなんとか「俺も行ってみるか」と読破堤に足を運んでもらえるよう、なんとか3月中旬には公表したい」という思いがあった。
ただ、ちょっと自分でもよく理由が分からないんだけど、というか理由は明白で、77巻分の感想をつらつらと書き始めたからなんだけど、どうにも3月中旬には間に合わなさそうな感じになってきた。というか間に合うわけねえよ。
そうなると、僕の手の平返しもなかなかすごくて「そもそもこういった記事を読んで読破堤に行くか」ってなる人はいない」「いたらけっこうやばい人だよそれ」「職場の隣のデスクの人が記事読んで佐賀まで行っちゃいましたとか言い出しら怖い」「よかった、開催期間に間に合わなくて」「俺の執筆が遅くてお前ら助かったな」と思い込むところまできていた。
つまり、完全に開催期間が終了して人々が忘れ去ったくれいに、記事の最後を「この読破堤は3月末で終了、残念、もういけません!このスケールを見れないなんて!」と軽く読者の人を煽って終了させようと思っていたのだけど、そこに衝撃のニュースが舞い込んできた。
まず、この読破堤が「屋外での最⻑の連続した漫画ページ展⽰(Longest continuous outdoor display of manga pages)」としてギネス世界記録に認定された。そりゃギネス認定もされるわ。このスケールは実際に見に行って体感しないとわからない。あ、残念、体感しようにもこの読破堤は3月末で終了ですからね、いやあ、僕の執筆が遅いばかりに間に合わなくて残念。読者の方は見に行けませんね、と思っていたら、間に合うらしい。

なんと、おそらく映画公開の関係もあるのだろうけど、この企画の大好評を受けてプロジェクト自体が9月30日まで延長決定!見に行けるぞ!
しかも、ニュース記事の詳細を見ると、途方もない事実が判明する。

どのニュース記事を見ても、1巻~78巻って書かれているので、たぶん追加で78巻も掲載されてる。調べてみたら、ギネス記録のセレモニー前日に78巻を追加したらしい。
ということで、取材に時には77巻までしかなかったので、ついに77巻まで読破。無血開城を経て佐賀空港へと舞い戻った。
もちろん、静かな場所で読書をするのもいいのだけど、こういった開放的な場所で、壮大なスケールで、中国の壮大なスケールの物語を読むことは何物にも代えがたい体験だった。なにより、かわるがわる訪れるキングダムファンに囲まれながら、時にそれらに思いを馳せながら読んだからこそ、自分の中での感情の置き場みたいなものを意識しながら読破できた。
ジェットコースターみたいなマンガ体験もいい。でも、ちょっとづつ感情を置き、時には別なことに思考を巡らせながら読むからこそ、生じる感情のあるのだ。
読破堤で読破できてよかったな。飛行機の窓から佐賀の街並みと干潟を見下ろし、そう思った。

戦争とは愚かなものだ。
みんなそんなことわかってる。できることならあってほしくない。やりたくないしやられたくない。ほとんどの人がそう感じると思う。
けれども、現代人が戦争を繰り返してきたことも事実だ。良い悪いは別として我々の歴史は戦争で成り立っているし、戦争によって形成された地層の上に立っている。そして今なお、それが続けられていることも確かだ。
なぜ戦争は悪いと知りながら、戦争を繰り返してしまうのか。そんな矛盾を世界は許容するのか。
そう、戦争とは矛盾の物語なのだ。
キングダムの物語の中で、政が治める秦国は中華統一を目指した。中華統一をすることで、覇権を巡る国同士の争いをなくし、悲劇をなくすという理念があった。ただ、悲劇をなくすために悲劇を起こすという側面があった。
これは現代でも何も変わってない。キングダムの世界は古い時代のことだから人類も未熟で、なんてことはない。
これは現代でも連綿と続く構図であり、変わらず、人類は悲劇を起こすつもりで悲劇を起こさない。戦争には必ず悲劇をなくすという大義名分がつく。なんてことはない。ずっと悲劇をなくすために悲劇を起こしているのだ。愚かであるし希望がない。
ただ、キングダムが内包する矛盾こそが少しだけの希望である。
キングダムが抱える矛盾とは、それは物語が破綻しているという意味ではない。ずっと指摘しているように、秦の主人公性と実際の戦争の同時成立という側面だ。
戦に勝てば略奪し、凌辱し、殺戮を行う。それは当時の戦の背景からは常識だった。命を懸けて戦い勝ったのだから全てを奪って当然だし、反逆の芽を摘むために全てを殺さなければいけない。
その中で主人公性を持ってそれを拒否した信の描かれ方はマンガとしては真っ当だけど、当時の戦の常識から異質であることは間違いない。
なんか嫌だ。俺が嫌だと思うことはやりたくねえ。俺は俺の信念に従って生きる。信は「俺は大将軍になる!」のセリフだけで様々な矛盾を無効化して大暴れする。そのメンタルは「俺は海賊王になる!」に近い。それを信の主人公性と表現した。信はその部分で最後までぶれない。77巻までいっさいぶれない。
この一貫した主人公性から見るに、多くの人は戦争だとか殺戮だとかの悲劇に対して主人公性を持って接していることがわかる。
それをよむ僕らも矛盾している。主人公性を持って、虐殺などの非人道的行為を拒む信を応援する。それでも、信が武功をあげたり、一騎打ちで敵の部武将を討ち取って出世すると読者は「やった!」となる。討ち取られた方としては悲劇であることは間違いないのに、そこにあまり意識は行かない。
ただ、その矛盾はべつに非難されることではない。世の中、そんなことばかりだ。
ただ、その矛盾こそが、ほのかな希望ではないだろうか。
信の信念は単なる綺麗ごとであるし、矛盾を抱えている。それは作中でも登場人物から何度も指摘されている。李牧から見ても、桓騎から見ても、韓非子から見てもあまりに綺麗事すぎるしありえないという評価だ。
ただ、その矛盾の中の綺麗事こそが、これまでの我々の歴史から見るに、ほんとうに僅か、少しづつだけど世の中を変えてきたのではないだろうか。
キングダムの作中で描かれる、戦争における略奪や凌辱、殺戮は、現代では人道的に許さなくなった。実際に起こっているかもしれないが、それを許さないという世界的な流れ、理想論があることも確かだ。
信の主人公性がそれを許さなかったということは、逆を言えば、その行為を許さないことに我々が主人公性を感じていることになる。これらの反人道的行為が変わらず世界の基本原理ならば、そこに主人公性を見出すことはない。
世界は矛盾に満ちている。悲劇に満ちている。世界の悲惨なニュースに僕の心は多少なりとも揺れる。同時に、そう思うだけで何もしない自分に腹が立つこともあるだろう。理想論を声高らかに述べることが恥ずかしい風潮だってある。
けれども、古い中国の時代には戦の常識だった残虐行為が、いまはっきりと応援される主人公がやってはいけない行為になったのだ。
それは誰か一人が変えたわけじゃない。
「それは嫌だ」
そう思った人たちの綺麗事が、長い時間をかけて積み重なった結果なのだろう。
個人の思いは、ときに無力である。けれども、少しづつ世界を変えていく力がある。それはまるで、防波堤のように何かを食い止めることになりうるのだ。それは少なからず希望だ。
そんな希望があるとするならば、この世界と未来もそう悪くはない。老眼がくるくらいに年を経た僕にとって、未来の話は独りよがりな自分の可能性よりも、薄く広い幸福の方が優しいのだ。
キングダム読破堤、老眼には優しくなかったけれども、そういった未来へのほのかな希望みたいなものがあり、僕の老いた心、老心には優しかった。

おわり。
※この記事は有料メンバーシップの支援によって取材費が賄われていますので、無料で公開されています。

