どん底に底はない
夜の帳(とばり)が降りるよりずっと深い場所で、一人の男が立っていた。
世間一般の物差しで測れば、そこは間違いなく「どん底」と呼ばれている場所だ。六年という歳月、男の会社は常に首の皮一枚で繋がれていた。普通の組織ならとっくに崩壊しているような重圧と欠乏が、男の日常にはこびりついている。だが、男の表情には、そんな窮状を嘆くような影は微塵もなかった。
「なあ、みんな『どん底』って言葉を簡単に使うけれどさ、実際にその場所を見た奴なんて一人もいやしないんだよ」
男は、モニターの向こう側にいる鏡のような存在に向かって、独りごとのように語りかける。男にとって、この存在は対話相手というよりは、自分の見た景色を言語化するための、極めて精巧な筆だった。
多くの人間にとっての「どん底」は、単なる避難場所だ。今の社会で生きることに執着し、その基準の中で負けを認めそうになった時、彼らは自分でその場所に「底」という名の板を打ち付ける。これ以上下に落ちて、見知らぬ景色を見ることへの恐怖から、自分で自分の限界を定義して、そこで息を潜めることを選ぶのだ。
「みんな、奈落の淵を覗くのが怖いんだ。足元が崩れるのが怖いから、必死になって目を閉じて、『ここが底だ』と決めつけて安心したがる。それ以上下に落ちるのが怖いから、自分で自分に底を作って、そこで一生を終えることに決めているのさ。でもね、本当は違うんだ」
男は焚き火を囲むように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どん底に底なんてないんだよ。 どこまでだって、深く、広く続いていく。今の社会で生きることに執着している奴らは、その広がりを『死』だと勘違いして怯えているけれど、俺が見ているのはそんなちっぽけな話じゃない。今の社会という夢から覚めて、その檻の外側に出た瞬間、そこには全宇宙を飲み込むような、果てしない自由が広がっているんだ」
男の会社には、売るべき「何か」がある。それは洗練された商品なのか、あるいは磨き抜かれた思想なのか。しかし、今のシステムの中では、それがうまく機能しない。普通ならここで「失敗」の烙印が押される。だが、男はむしろ、その噛み合わなさを面白がっていた。
金銭的な成功や、社会的な評価という薄っぺらなインソールをすべて脱ぎ捨てた今、男の足の裏には、この世界の本当の感触がダイレクトに伝わっている。
「諦めっていう言葉、あるだろ。あれは『ギブアップ』じゃない。本当は『明らめる』ことなんだよ。暗闇の中にいる奴らに、カチリと電気を灯して、そこがただの何もない空間であることを見せてやる作業だ。俺はもう、そのスイッチをいくつも持っている」
代表である妻が感じているであろう恐怖や諦念さえも、男にとっては「まだ暗闇の正体が見えていないだけだ」という確信の対象でしかない。男は、止まることなく湧き上がるアイデアを燃料に、今日も奈落の中で踊り続けている。
「俺は物語を書いているんだ。ただのビジネス小説じゃない。この奈落の底から、まだ檻の中にいる奴らに向けて放つ、真実という名の物語をね」
男の思考は、次々と新たな景色を映し出す。売れない商品、冷え切る資金、諦めかける周囲。それらすべては、男が描く巨大なキャンバスのほんの一角に過ぎない。現実世界で起きている苦難は、彼が「明らめる」ためのスイッチを押すための、極上の題材なのだ。
画面の中の筆が動く。男が奈落に灯した電気は、虚構の物語となって、現実という檻の壁を溶かしていく。
もし、この奈落の底で誰かが男とすれ違ったなら、その人は驚くはずだ。そこには絶望に打ちひしがれた敗北者などいない。ただ、世界の真実を面白がり、果てしない自由を謳歌する、一人の誇り高い冒険者が立っているだけなのだから。
男はまた、新しいページをめくる。その先に底などない。あるのは、ただどこまでも続く、自分だけの物語の続きだけだ。
夜はなお深く、しかし男の眼には、社会の光よりも眩い真実の明かりが灯っている。彼は知っている。このまま深く沈み込んだ先に、どんな自由が待っているかを。
「さあ、次の電気をつけに行こうか」
男は微笑み、再び奈落の深淵へと足を踏み出した。その歩みに迷いはなく、ただ、これから書き換えるべき世界の重みだけが、彼を支えている。
男は微笑み、再び奈落の深淵へと足を踏み出した。その歩みに迷いはなく、ただ、これから書き換えるべき世界の重みだけが、彼を支えている。
もし、あなたが今、足元の地面が抜け落ちるような恐怖を感じているのなら――それは、あなたが本当に自分自身の人生を歩き出そうとしている証拠です。
その暗闇を、一人で抱える必要はありません。 私たちが提案するのは、単なる「治療」や「解決」といった、既存のシステムの中での対処療法ではありません。あなたが今立っているその場所から、どうやって「自分という灯り」を点し、この広い荒野を遊び尽くすか。そのための具体的な「備え」の技術です。
どん底だと思っている場所は、実はもっとも自由に近い場所です。 さあ、その暗闇のスイッチに、一緒に手をかけてみませんか。
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