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特攻神社|戦跡紹介|鹿児島県出水市知識町|歴史

  • 名称:特攻神社

  • 住所:鹿児島県出水市知識町

  • 解説:終戦の際に廃宮していたが有志の支援によって再建された神社。
    特攻隊員を祭神としている。


この出水市には「出水海軍航空隊」が置かれていた「出水海軍航空基地」がありました。
1940年に基地が完成し、翌年には真珠湾攻撃に向けて航空母艦「飛龍」「蒼龍」の飛行部隊がこの地で訓練を行っています。
訓練場所は主に錦江湾や七尾島でした。

海軍出水航空基地の歴史
海軍出水航空基地は、第三次海軍軍備拡張計画によって昭和12年に畑、山林、宅地など数百ヘクタールの土地の買収が始められ、昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まると高尾野方面にも拡張され、基地の面積は、数百ヘクタールにも及びました。昭和16年8月中旬に本格的な戦争準備が開始されると、艦上攻撃機隊が真珠湾攻撃の準備のための訓練を行いました。この部隊は空母「蒼龍」「飛龍」に収容され、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加しました。
その後は練習航空隊として、昭和18年4月1日に出水海軍航空隊が開隊発足しました。
昭和19年8月15日には、飛行機の整備教育を行うために高尾野町下水流に第二出水海軍航空隊が開隊し、同19年10月には戦局の悪化に伴い出水で763航空隊(銀河部隊)が開隊しました。昭和20年3月には実践部隊と共存していた訓練中の甲飛13期練習生は、光州に移動したため、出水基地は戦闘部隊の基地として利用されるようになりました。
昭和20年2月に日本海軍は第五航空艦隊を編成し、出水にも銀河隊攻撃405・406飛行隊が配置され、昭和20年3月18日以降特別攻撃が始まり、散華された特攻隊員は200余命と言われています。
出水基地への空襲が始まったのは昭和20年3月18日、米軍空母フランクリン等から発進した艦載機によって飛行場施設や兵舎に甚大な被害を受け、4月17日・18日には大型爆撃機による攻撃で格納庫・滑走路などに致命的な損害を受け、付近の民家も被爆し、多数の使者を出しました。同月21・22日には油脂爆弾・時限爆弾の攻撃により、基地は壊滅的な被害を受け、その後も空襲は続きました。
8月1日の出水アルコール工場の爆撃を最後にアメリカ軍の空襲は終わりました。

案内看板より引用

1942年には練習航空隊として「出水海軍航空隊」が置かれます。
急増した飛行兵の練習航空隊でしたが、出水基地に763航空隊(銀河隊)が置かれ、正式な攻撃基地として使用されるようになると、訓練中の飛行兵らは朝鮮半島の光州へ移動していきました

そして航空基地である為に敵国から幾度も空襲を受けています。
特攻碑公園の衛兵塔や現存するボイラー室跡には機銃掃射の痕が確認できます。

特攻神社

現在の特攻神社の場所に、1943年に「隊内神社」が建立しましたが終戦時に廃宮となりました。
戦後、特攻隊員を偲ぶ有志の方の支援により、元の「隊内神社」の場所に「特攻神社」が建てられました。
祭神は「祀られている特攻隊員」としています。

当神社は、昭和十八年四月一日開隊された出水海軍航空隊の守り神として建立された。
後になって同航空隊が出水基地特別攻撃隊となるや、出撃する特攻隊員の総てが当神社に使命の成功を祈願して出撃した。
大東亜戦争の終結により航空隊は解散し神社も放置され、神社跡地には杉木が植樹され発見されなかった。
その後平成2年宅地造成により、神社の台座が発見されたので、創始者たる崇敬者達が当地を買収し、特攻隊員として戦場に散った各位の御霊を祠ると共に、祭神の神徳を広めるため「特攻神社」を建立した。

案内看板より引用
英霊之碑

第二次世界大戦において祖国日本を守護せんとして昭和二十年四月十七、十八日 出水海軍航空隊基地にて壮烈な戦死を遂げた出水第二海軍航空隊所属練習生の若き勇士百余名の無名戦士の墓標を英霊の碑と改め茲に判明された戦死者の名を刻し永久に安らかに眠り給えと祈りこの碑を建立せるものである

案内看板より引用
’’玉砕の御霊なぐさめとこしえに 守り給へや特攻神社’’
旧社殿

鳥居をくぐり左手に古い社殿があります。
その上には南の奉公を見る「南方のかなた」の像があります。

「南方のかなた」
社殿

この地から200余名の特攻隊員が南方の海へ飛び立ちました。

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