幸せはこれくらいシンプルでいい
電車の音で目を覚ます朝。一昨日から香川のゲストハウス「ウェルかめ」に泊まっているのだが、オーナーに追い出されてしまったため庭にテントを張っている。

嘘である。いや、半分本当である。
ウェルかめのオーナーは、バイクに乗って世界中を旅していた旅玄人。長期旅で節約がいかに大切かを知っているので、「庭にテント張ってええよ。うち長く居るんやろ?部屋に泊まるよりそっちの方が全然安いけん」と提案してくれた。
たまに通る電車の音や遠くから聞こえる酔っぱらいの笑い声を聞いているとやけに落ち着いて、昨晩はすんなりと眠りに落ちた。

実はウェルかめに来たのは2回目だった。前回は6年前、社会人2年目の夏に2社目をスーパー短期離職してヤケになっていたときのこと。「私、香川に住んで人生やり直す」と謎に意気込んで、家と仕事探しを兼ねて10日間くらい小さな香川県を旅していた。そのときに泊まったのが、このウェルかめだった。
しかし、当時の香川には目ぼしい仕事がなく、ハローワークで見た求人の給料の低さと休日の少なさに唖然とするばかり。地方で生きるってこういうことなのか…と痛感し、肩を落として帰った記憶がある(もちろん今は違うと思う)。
そんなこんなで香川はそこそこ思い入れの深い場所なので、しばらく滞在して、あてもなく彷徨ったり、離島に行ったり、うどんを食べまくったりする予定だ。
温もりを求めていたことに気付く
雨上がりの街を散歩していると廃墟らしき美容室の駐車場にいる猫たちと目が合った。道路脇に原付を停めて、近づいてみる。猫の声真似(リアルなやつ)をしながら人差し指を差し出すと、2匹とも恐る恐る近づいてきて、スンスン…と匂いを嗅いでいた。

匂いを確認して安心したのか、私の手に柔らかい体を擦り付けてきた。心がふにゃっと柔らかくなる。有名な猫写真家のエッセイに書かれていた「旅先で猫の体温を感じたとき、自分が温もりを求めていたことを実感する」といった一節を思い出す。あぁ私は温もりを求めていたのか、と思いながらこげ茶色の背中を撫でた。

ふと1匹がいなくなっていることに気が付き、もう1匹を撫でながらキョロキョロしていると、後ろから小さく「ミ」と聞こえた。振り返ると、サビ猫が私の原付に乗っているではないか。

「いいねぇ、似合ってるねぇ」とシャッターを切る。猫は顎を上げて得意げな表情でこちらを見た。あんたが本当にほしいなら、あげちゃおうかなソレ。
道に迷うのが好きだ
空が晴れてきたので瀬戸大橋でも見にいくか、と海に向かって原付を走らせる。地図も見ないで直感で進んでいると、大きな木の先に水色の海が見えた。瀬戸内海だ。

その木の下で、老夫婦がピクニックをしている。彼らの反対側にはハンモックがかかっている。譜面台もある。そこに漂う幸せそうな空気に引き寄せられるように、原付を停めて木の下まで歩いていく。

「あらひとり?どうぞここ座って」とショートカットのおばあちゃんがレジャーシートのスペースをあけてくれた。さっきまでおばあちゃんの隣に居たおじいちゃんは、波打ち際で腰に手を当てて瀬戸内海を眺めている。
2人はここから30分ほどの坂出市に住んでいて、天気がいい日はお弁当を持ってここに遊びにくるらしい。

「老後はゆっくりしようねって話してたのに、いざ老後を迎えたら、毎日2人でどっか出かけてるのよ」。おかしいでしょ、と眉をハの字にして笑うおばあちゃん。朝食を終えたら、2人で昼食をこしらえて車に乗り込むのが日課らしい。

行き先を決めるのはいつもおじいちゃんなんだとか。「いつも、どこにいくか教えてくれないの。でもね、私は心配性だけど、この人の決めることなら大丈夫だろうって思うからあえて聞かないのよね」。波打ち際に佇むおじいちゃんを眺めるおばあちゃんのまなざしが優しかった。

私たちの話し声に気付いて、おじいちゃんがこちらに戻ってきた。
「俺は道に迷うのが好きなんよ。この道はどこに繋がってるんだろう、どんな景色に出会えるんだろうって。大したことない場所に辿り着くかもしれんけどな、知ってる道だけ走るよりもよっぽど楽しいんだわ」
うんうん、よく分かる。便利な地図があるこの時代に、リスクを取らなくても幸せになれるこの時代に、私たちは好んで道に迷う。

おばあちゃんは最近、高松空港のデッキから、飛び立つ飛行機に向かって旗を振ることにハマっているらしい。最初は自分の上着を振っていたが、それを見ていたおじいちゃんが、おばあちゃんのために旗を作ってくれたのだと言う。
一生懸命旗を振るおばあちゃんを見た人はみんな「お孫さんが旅立ったんですか」と尋ねるが、正直に「いいえ、赤の他人です」と答えると、みんな不思議そうな顔をして帰っていくそうだ。
人生はこれくらいシンプルでいい
少し散歩して戻ってくると、サックスの音色が鳴り響いていた。先ほどまでいなかったおじいちゃんが、ベンチに座ってサックスを吹いている。

おじいちゃんもよくここに来て、最近始めたサックスを練習しているそう。楽器本体にアザラシのマスコットがぶら下がっていたので、私が「これいいですね」と言うと、「孫にもらったんだ」と頬を緩ませた。

すると、カヌーを持った男性がやってきた。40代くらいだろうか。おじいちゃんと二言三言交わして、海に入っていく。胸に手を当てて「大丈夫かしら、ひっくり返ったりしないかしら」と呟くおばあちゃんは、息子を見守るかのような顔をしていた。

そのすぐ後に、タオルを被った男性がやってきた。手にはフィンがぶら下げられている。「暑いからね、海に入ろうと思って」。そのあまりにもシンプルな理由に、不覚にもグッと来た。人生はこれくらいシンプルでいいのかもしれない。

瀬戸内海の側で思い思いに過ごす人たちは、みんなすごくいい顔をしていた。みんな、自分が楽しいと思うことを純粋に楽しんでいる。サックスを吹いたり、暑いから海に入ったり、道に迷ってみたり、空港で旗を振ったり。
したいことをする。つい忘れてしまいがちだけど、幸せってそれくらいシンプルなことだ。
―――

夜はウェルかめの近くの温泉に行った。湯船に浸かりながら、今日出会った人や猫のことを思い出す。私はこうして旅先の温泉や銭湯で、今日1日の旅を振り返る時間が好きだ。
「周りに変な人だって思われるとか、どうでもよくなったのよ」と笑うおばあちゃんの横顔が浮かぶ。私もそんな風に歳を重ねたい。
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いただいたチップでまた旅に出ます。いつかどこかで会えますように。