フルーツサンドにひれ伏した日
まだ梅雨明け前にボサーッと台所に立った朝。ヒトとしてギリギリ機能している頃だから、前頭葉付近は数mm程度なら動いていたと思う。
いつものように粛々とサンドイッチを作った。真夏は柑橘をほとんど見かけないのに、河内晩柑はギリギリ7月でも売り場に立っている転がっている。多分今季ラストだろうな。
家族が皮を剥いてくれたので、白いじょうのうは自分で取り除く。早くも1日の仕事を終えた気分になるのは、ものぐさが過ぎるだろうか。
河内晩柑ファイナルステージはon the 食パン。

河内晩柑は和製グレープフルーツと呼ばれ、さわやかな果汁と色合いがよく似ている。
ただし酸味が穏やかでグレープフルーツのように刺す感じではないから“和製“なのだろう。
紅まどんなをはじめとするオレンジ色柑橘特有のパキッと華やかな甘味と酸味は、声が出るくらい脳が喜ぶ。
しかし、酸甘バランスが穏やかで、味の充足率80%くらいの河内晩柑をより愛している。
なぜならば、柑橘に求められるのは味だけではない。香りと水分も必須条件であり、河内晩柑はいずれも見事に隠し持っている。外観のどすこい形からは想像もつかない繊細で美しい果肉は、控えめなイエローかつ粒々の輪郭がギュッと密集している。
そこには潤沢な水分が内包されており、噛めばチルチルと滴り落ちる。琵琶湖の貯水量のごとくたっぷり蓄えた水分は、ジュースとして利用される(機能性表示食品もある)。

驚くレベルの受け入れ難い味に唖然とした。今までのサンドイッチは、何をはさんでもなんとなく許せる味で笑いを取れたのに。河内晩柑と食パンは単なるぶつかり合いだ。シンプルが一番おいしいとは限らない。
頭のネジが外れたのか、そもそも1本足りなかったのか。
突然ですが、ネジといえば小麦粉舐め太郎さん。
段落ごとにきっちり笑わせてくれる。しかもわたしの大好きな作られた感のない自然な流れの笑いだ。巧みな心理描写は、朝井リョウさんのエッセイのように鋭角に投げ込まれたストレートのようで、自らデッドボール覚悟で当たりに行きたくなる。
笑いジワ、カモン!いつもありがとうございます。金属のフジロックを楽しめます↓
脳から外れてしまったネジを取り戻すべく、わたしはファミリーマートへ勢いつけて駆け込んだ。

河内晩柑そのものをパンにはさむからダメなんだ。答えはフルーツサンドにある。
まず個人的嗜好に触れるが、フルーツサンドを買うことはない(今回は除く)。なぜならば、くだものは生かドライで食べればいいし、生クリームをまとわせる意味がいまいちわからない。
わざわざ食パンを用意して、生クリームを泡立てて、崩れないように慎重にはさんでカットする。
そこまで手をかけるのであれば、タルトやケーキ、パフェといった“本格的なスイーツ”として仕立ててくれた方が、デザートとしての満足感はずっと高いはず。
そもそもフルーツサンドは、スイーツやパン(サンドイッチ)のどのカテゴリーに入るのか出自さえはっきりしないように思う。
しかしながら、オシャレなフルーツサンド専門店はあるし、好きな人はかなり生息しているようなのである。なぜなんだ。

おすすめシールの貼られた「4種のフルーツミックス」背に腹は代えられない。包装をペリペリと剥がして大きくひと口。
あ、これか。
生クリームの油分がフルーツの酸味をまろやかにし、フルーツの酸味がクリームのしつこさをリセットする。軽やかだ。無限に食べ進められるループ?

フルーツサンドは、おんな子どもが好むものだと思い込んでいた。中途半端で見た目9割の食べ物だと。久しぶりに食べたそれは、予想以上によかった。
あの日の河内晩柑は、食パンをずぶ濡れにしただけで何もまとわずに途方に暮れていたのだった。はさむのであれば何かが必要なのだ。

今年の河内晩柑はもうすぐ終わり。仮説を実証するには来年を待たねばならない。
その頃にはふたたび頭のネジがゆるんで外れ、それすらも気づかぬままだろうか。
河内晩柑だけを食パンにはさんで「なぜおいしくないの?」と伝統芸能のように復元し、ネジが外れた頭で考えるのだろうか。
もししつこく同じ内容を書き綴ったとしたら、小麦粉舐め太郎さんに例のフジロックでいいネジを見つけていただき、萎縮したわたしの脳にグリグリねじ回して欲しいと切実に思うのである。
