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カメレオンにはならなかった



3月末の夜は、淡雪がちらつき肌寒かった。
その月をもって、私は警察を退職することになっていた。
24年間、身を削るようにして身を置いた組織を去る最後の夜。
送別会は、4月転勤の内示が出ている生活安全課のK係長と私のために、刑事課と生安の合同で開かれる段取りになっていた。
転勤していく先輩と、警察手帳を返す自分。
酒を酌み交わし、互いの労をねぎらい合う、どこにでもあるささやかな節目になるはずだった。


署を出て、会場となる行きつけの寿司屋へと歩を進めていたときのことだ。 
K係長が、思い出したように白い息を吐きながら言った。
「あ、警備課のO係長も呼んだから。最後だしさ、声掛けないと可哀想だろ〜」
歩道を行く足が止まりそうになった。

警備課のO係長は、まだ若く、いわゆる出世頭のエリートだった。
だがその優秀さの裏には、他人をあからさまに見下す悪癖がある。
当直でも専門でない他部署の現場に、階級を笠に着て踏み込んできては、的外れな指示を飛ばす。
現場の刑事や生安の人間からは、ひどく敬遠されていた。
そのO係長に対する陰口の先頭に立っていたのが、他ならぬK係長だった。
「あいつは人の畑のことが何も分かってない」 
「階級だけで仕事ができる気になっている」
当直の深夜や酒の席で、散々周囲を焚き付け、蔑むような言葉を並べていた男が、今、横で薄く笑っている。
「まあ、最後だからさ……」


K係長も今回の転勤が決まっていた。
どうにかなるだろう、場が丸く収まればそれでいい、という計算が見え隠れする目。
昨日までの敵に笑顔で握手を求め、物分かりのいい男を気取る。
その狡猾な眼差しを見た瞬間、頭の奥でパチンと何かが弾けた。

怒鳴り散らしたい衝動を、喉の奥で噛み殺す。 
お前が自分の保身のために唾を飲み込もうが勝手だが、今夜の席はお前ひとりの送別会ではない。
24年を懸けてここを去る、私の席でもあるのだが。


「そうなんだ……。じゃあ、俺は帰るわ」

吐き捨てるようにそれだけ告げると、私はその場で皆に背を向けた。
夜の街は、やけに静まり返っていた。
背後で誰かが呼び止める声がした気もしたが、意識が意図的に耳を塞いでいた。
街灯の頼りない暗がりの中を、寿司屋の暖簾とは正反対の方向へ歩いた。

頭に血が上り、身体の芯は焼けるように熱いのに、顔に当たる3月の風はやたらと冷たい。

組織という巨大な歯車に組み込まれている以上、周囲と摩擦を起こさないよう角を落とし、その場の空気に合わせて色を変える処世術が必要なことは百も承知だ。
摩擦は痛みを伴うし、群れから外れる責任がついて回る。
だが、己の輪郭を削り取ってまで、何色にでも染まるカメレオンになることが、本当に大人の生き方なのだろうか。
損得勘定ひとつで、昨日までの言葉を平気で翻すそれを、私は「大人の配慮」とは呼ばない。
ただの節操のないご都合主義だ。


怒りを冷ますように早足で歩き続け、途中のコンビニに飛び込んだ。
こんな夜に素面のまま眠れるはずもなかった。
棚から缶ビールを数本掴み、レジへ向かった。

たどり着いたのは、片付け途中の段ボール箱が積み上がった、薄暗く温かみのない官舎の部屋。 
荷造り用のガムテープが転がる畳の上に腰を下ろし、プルタブを引きちぎるようにしてビールを煽った。
冷たい泡が喉を擦り抜けていくだけで、味もせず、どれだけ流し込んでも酔いは回らなかった。


あれから時は流れた。
年に一度あるかないか、ふとした夜に昔のアルバムを開くことがある。
信念を持って生きていたあの頃の自分を、もう一度確かめるようにページをめくる。
若かりし日の仲間たちの顔や、かつて誰かを送ったときの賑やかな写真は並んでいる。
 けれど、自分の退職時の送別会の写真だけは、どこを探しても見当たらない。
私のアルバムには、あの夜の記録がすっぽりと抜け落ちている。
空白のページを見つめるとき、胸の奥にわずかな痛みが滲まないと言えば嘘になる。
もっと上手く立ち回れたのではないか。
愛想笑いの一つでも浮かべて、最後までやり過ごせばよかったのではないか、と。
だが、すぐに思い直す。


あの日の空白は、自分が最後の最後まで「安売り」をしなかった証だ。
誰かのご都合主義に付き合わず、自分の矜持を捨ててまでカメレオンにはならなかったという、確かな証明。

不器用にしか生きられない人生の、これが私の選んだ始末のつけ方だった。

空になったグラスの底を見つめながら、氷をひとつ鳴らす。
あの頃からずっと、この性格のままここまで転がり続けてきた。
今も変わらずに、ちゃんと生きていけているのかな。


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