目だけが、黒かった 『スイミー』をもう一度読む
『スイミー』を、
みんなで力を合わせる話だと思っていた。
小さな魚は、
一匹では大きな魚に勝てない。
だから、
みんなで一匹の大きな魚になる。
スイミーは、
その目になる。
子どものころから、
そういう話だと思っていた。
今読んでも、
その読みが間違っているとは思わない。
スイミー一匹では、
大きな魚にはなれない。
赤い魚たちがいなければ、
あの形はできない。
みんなが必要だった。
けれど、
読み返していて、
一つだけ気になった。
みんなは、
同じように必要だったのだろうか。
赤い魚たちは、
たくさんいる。
一匹一匹に、
名前はない。
誰がどこを泳いでいるのかも、
ほとんど分からない。
けれど、
スイミーは違う。
最初から、
一匹だけ黒い。
仲間を失ったあと、
一匹で海を泳いだ。
いろいろなものを見た。
新しい仲間を見つけた。
大きな魚になって泳ぐことを考えた。
みんなに、
一緒に泳ぐことを教えた。
そして最後には、
自分が目になった。
少し意地悪な言い方をすれば、
スイミーは、
この物語のエリートなのかもしれない。
もちろん、
スイミーだけでは何もできない。
黒い魚が一匹泳いでいても、
大きな魚にはならない。
赤い魚たちは必要だ。
けれど、
それだけでは、
私の引っかかりは消えなかった。
赤い魚が一匹いなくなったとき、
別の赤い魚ではだめなのだろうか。
物語からは、
よく分からない。
では、
スイミーがいなくなったらどうだろう。
誰が作戦を考えるのか。
誰がみんなに泳ぎ方を教えるのか。
誰が目になるのか。
少なくとも、
物語の中には、
もう一匹のスイミーはいない。
みんなが必要だった。
けれど、
必要であることと、
替えがきかないことは、
同じではない。
ここで、
「みんなで力を合わせた」
という言葉が、
少し違って見えてきた。
スイミーも、
みんなと一緒に、
大きな魚の一部になる。
みんなの上に立つわけではない。
一匹だけ別の場所へ行くわけでもない。
赤い魚たちと一緒に泳ぐ。
けれど、
一緒になっても、
スイミーは消えない。
赤い魚たちは、
集まることで、
大きな魚の体になる。
そこにいる。
一匹一匹が、
大きな魚を作っている。
けれど、
大きな魚が完成すると、
私にはまず、
一匹の大きな魚が見える。
その中にいる、
一匹一匹の赤い魚は、
見えにくくなる。
スイミーは、
そうならない。
大きな魚の中に入っても、
黒い。
どこにいるのか、
すぐに分かる。
そして、
目になる。
考えてみれば、
スイミーは、
最後に特別になったのではない。
最初から、
一匹だけ黒かった。
仲間といたときも、
一匹になったときも、
新しい仲間と出会ったときも、
黒かった。
そして最後に、
みんなで一匹になっても、
黒いままだった。
だからといって、
スイミーが仲間を利用した話だとは思わない。
赤い魚たちがいなければ、
大きな魚は存在しない。
ただ、
「みんなで力を合わせた」
という言葉だけでは、
見えなくなるものがある。
以前の私は、
完成した大きな魚を見ていた。
みんなで一匹になったことを、
見ていた。
今は、
その大きな魚を作っている、
小さな魚を見る。
たくさんの赤い魚がいる。
その中に、
黒い魚が一匹いる。
もう一度、
最後の大きな魚を見る。
体を作っているのは、
たくさんの赤い魚だ。
その中に、
スイミーがいる。
みんなで、
一匹になった。
それでも、
目だけが、
黒かった。
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