🏛️世界史講義:唐の統治体制と社会・対外政策と唐代文化の繁栄
👑唐の統治体制と社会構造(前半の黄金期と「三点セット」)
⏳唐の時代区分と300年の展開:唐は7・8・9世紀の300年間存続しましたが、そのちょうど真ん中の750年ごろを境目として、国家体制が充実して発展した前半150年と、体制が大きく変容・動揺していく後半150年に大きく二分されます。
📜国家基盤を支えた「三点セット」:唐の前半150年間は、以下の3つの制度がセットで機能していました。これらは土地制度が崩れると税制も軍制も同時に崩壊する関係にありました。
均田制:北魏から継承された土地制度で、農民に土地を支給して耕作させ、豪族による土地集中を抑制しました。
租調庸制:均田農民に対し、穀物を納める「租」、絹・布や特産品を納める「調」、肉体労働(の代わりに絹などを納める)「庸」、および地方役所での労役である雑徭を課した税制です。当時は庶民にお金が流通していなかったため、生産物や労働力で徴収しました。
府兵制:西魏から継承された軍制で、均田農民の中から兵士を徴用し、長安の警備(衛士)や辺境防衛(防人)にあたらせました。
👑唐室の政治展開:武韋の禍から開元の治へ
👸則天武后の即位と「武韋の禍」:第3代高宗の死後、皇后であった則天武后(武則天)が自ら帝位につき、国号を周(武周)と改めました。その後、中宗の皇后である韋后も政権を握ろうとして混乱が生じ、これらは合わせて武韋の禍と称されます。
🌟玄宗の即位と「開元の治」:8世紀初頭に即位した玄宗は内政を整え、太宗の「貞観の治」に匹敵する安定した治世を実現したため、その政治は開元の治とたたえられました。
🛡️節度使の設置と玄宗の変質:玄宗は辺境防衛のため、地方軍司令官の節度使を各地に配置し、地方の安定を図りました。
🌐対外政策と国際都市長安・貿易管理
🐎羈縻政策(きびせいさく)と都護府:唐は周辺の異民族に対し、直接支配するのではなく、現地の首長に自治を行わせつつ手綱を握る間接統治(羈縻政策)をとりました。現地に派遣した役所を都護府と呼び、それらを介してコントロールしました。
🌊海上貿易と市舶司の設置:シルクロード経由の東西貿易に加え、海の東西交易も発展しました。広州に貿易管理機関である市舶司を置き、アラビアやペルシアからのムスリム商人の来航を受け入れました。
🏛️国際都市長安の賑わい:都の長安は周辺国の使節や留学生、ソグド人やペルシア人などの商人が行き交い、国際色豊かな大都市として繁栄しました。ペルシア美女がお酒を注いでくれるワインバー(胡姫酒肆)もあったそうです。
🎨唐代文化の隆盛と学問・宗教
📖儒学と『五経正義』:孔穎達らが『五経正義』を編纂し、科挙試験における標準注釈(採点基準)として官学のテキストを確立しました。
✍️文学と漢詩の黄金期:六朝以来の形式的な文章(四六騈儷体)に対し、韓愈らが古文復興を主張しました。また科挙で詩が重視され、「詩仙」李白、「詩聖」杜甫、そして王維や白居易(白楽天)らが活躍し、唐詩の全盛期を迎えました。
🖌️書道・工芸と唐三彩:書では顔真卿らが活躍しました。工芸では緑・黄・白などの釉薬を用いた唐三彩が作られ、ラクダに乗るソグド人像など国際色豊かな作品が遺されました。
👳求法僧のインド渡航:
玄奘:7世紀前半にシルクロードでインドへ渡ってハルシャ王に面会し、帰国後『大唐西域記』を著して長安で膨大な仏典の漢訳を行いました。
義浄:7世紀後半に往復とも海路でインドへ渡り、『南海寄帰内法伝』を著してインドや東南アジアの事情を伝えました。
🕌外来宗教の伝来(三夷教と回教):7世紀以降のイスラーム勢力の拡大に伴い、西アジアから追い出される形で祆教(ゾロアスター教)、摩尼教(マニ教)、景教(ネストリウス派)が唐へ流入・伝来し、長安などに寺院が建てられました。また、商業交流等を通じて回教(イスラーム)自体も伝来しました。
⚔️歴史の転換点:タラス河畔の戦いと製紙法の西伝
💥タラス河畔の戦い(751年):唐の西域進出に対し、アッバース朝のムスリム軍が激突した戦いです。唐軍が敗北したことで西域支配が後退し、以後は海上交易の重要性が高まっていきました。
📜製紙法の西伝と蔡倫:この戦いの際、捕虜となった唐の職人を通じて製紙法がイスラーム世界へ伝わり、のちにヨーロッパへ普及しました。ちなみに、製紙法は2世紀の後漢の宦官蔡倫が改良したものでしたね。
💡以下、無用のことながら
🌊安南都護府長官となった日本人・阿倍仲麻呂:717年に渡唐した阿倍仲麻呂(朝衡)は科挙に合格して唐の官僚となり、玄宗に重用されました。のちに安南都護府長官に任命され、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の歌を残すなど唐の国際性を象徴する存在です。
📖『枕草子』にみる白居易(白楽天)の人気:不遇のまま終わった李白や杜甫とは対照的に、白居易は科挙を突破して翰林学士(皇帝の秘書官のような高官)まで昇進しました。彼のわかりやすい詩風は平安時代の日本でもバズりました。『枕草子』には、中宮定子から「香炉峰の雪はいかならん」と問われた清少納言が、白居易の詩の一節「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を思い出して御簾を持ち上げたらみんなにほめられちゃった、という有名なエピソードが遺されています。
