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松前藩戸切地陣屋跡

北海道北斗市 国指定史跡

【立地】

 戸切地陣屋の築かれた野崎は、北斗市上磯町の市街地から5kmほど内陸に入った標高約20mの向陽が丘の高台に位置します。開港されたばかりの箱館港を見渡す幕末の城郭です。
 陣屋の西背後は山地で、東側が大野平野、南が海という立地なので、砲台の6門の大砲は、平野部からの攻撃に備えるかたちを取ります。

【歴史】

開国と幕府の北方防衛

大手門前

 嘉永7年(1854)、日米・日露修好条約の締結によって、函館の開港が決定しました。ここで暮府は蝦夷地およびその属島全てを幕府の直轄地とすることが決定され、箱館奉行所が開設しました。松前藩の領地は、蝦夷地中道南の知内村(上磯郡知内町)建有川から西は五加沢(江差町)までとし、他に陸奥・出羽の領地が宛行され、従来の1万石から3万石と改めました。
 また、松前藩には箱館から木古内までの間を警備地として幕府から命ぜられました。箱館奉行所が直接の兵力を持たなかったので、箱館防禦の控えと箱館湾の西を押える矢不来台場を守るため、この付近に陣屋を設けることになりました。
 安政2年6月8日、箱館の近在に松前藩警衛の総屯を設ける必要に迫られた松前藩は、箱館駐在用人工藤長善をもって、戸切地村の向陽原に陣屋を構えることを願い出、同月10日、許可を得て工事に着手しました。

旧幕府軍の襲来

 明治元年、榎本武揚率いる旧幕府軍が現在の森町鷲ノ木に上陸すると、新政府軍(松前藩)の戸切地陣屋守備隊は応戦のために移動。
 10月24日、新政府軍(松前藩)は、大鳥圭介率いる伝習隊と意冨比神社(おおひじんじゃ=現在の北斗市本町)で交戦するもあえなく敗退。戸切地陣屋に逃げ帰りますが、落城の危険を察して建物一七棟に火を放って松前城などへとさらに敗走しています。
 
 現在は史跡公園として整備され、当時の面影をのこす本陣郭内を散策できるほか、春は正面大通り沿いに植えられた桜並木、秋は郭内の紅葉が目を楽しませてくれます。 

【遺構】

松前藩戸切地陣屋跡縄張図 現地説明版より

 構造は西洋式城郭の「四稜郭」で、東側に稜堡が首を出した亀のような形をしています。東側に飛び出した首の部分には6基の砲座が添えられ、17棟の建物が配され、松前藩士ら120~160名が駐屯していたと推測されています。 

裏御門(搦手 再建)

 東に表御門(大手)、西に裏御門(搦手)を構え、それぞれの虎口の内側には侵入してきた敵の見通しを遮げ、直進できないように馬隠し(蔀土塁)を設けていました。砲台のある東稜堡の土塁の背後には大砲を引き揚げるためのスロープが敷設されています。

馬隠し(蔀土塁)

 主郭部は東西約350m、南北約315mの4つの稜をもつ星形をしています。

東稜堡 土塁の窪みは砲台跡

 東稜堡に砲座を集約させているため、東角の部分のみ亀の首のように膨らんだ形状となっていて、首筋にあたる部分には縦約4.6m、横約5.5mの大砲入(大砲の保管庫)が確認されています。

 南稜堡には筒入(小火器の保管庫)、西稜堡には炭蔵、北稜堡には米蔵や味噌蔵などが置かれていました。
 

空堀と土塁

 曲輪の周囲は下幅約10m、高さ約3mの土塁と、その外側に深さ約3~4m、幅約5~6mの堀が巡っています。

足軽詰所跡

 また、主郭部中央には守備兵の詰所が四棟建てられ、周辺には厩舎や道場、井戸や蔵などの建物群が確認されています。また、裏御門から西へ約100m離れたところには方形の火薬庫か設けられていました。
 
【主要参考文献】
永田富智 『日本城郭大系第一巻北海道・沖縄』 1980年 新人物往来社
浦上史記『週刊日本の城』 ディエゴスティーニジャパン
中村慶子 『江戸幕府の北方防衛』 2022年 ハート出版
北杜市公式ホームページ
『北海道スタイル』公式ホームページ
『広報まつまえ』平成二九年一〇月号

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