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川が呼んでいる

川が呼んでいる。「お散歩においで、川辺においで。いい天気だよ。うるさいセミも鳴いてるけど、ようやく秋の始まりの、涼しい風も吹いてきたよ」


川が呼んでいる。「どうしたの?そんな暗い顔をしちゃって。川のそばをゆっくり歩きにおいで。こんどは何を食らっちゃったの?なんでも聴くよ」


遠くから聴こえてくる。川のちいさな声は、東の風に乗って聴こえてくる。マンションの部屋の片隅にひとり座る、わたしのこころの中まで届く。優しくて穏やかな声だ。ちいさくてかすかな声だ。川が呼んでいる。わたしを。


なんの拍子か、ごく浅くしか眠れない日がある。スマホが壊れて頼りの夫に連絡がつかない夢をみる。知らない街の中で、ひとり迷子になる夢をみる。いつもの悪夢をみて起きる。泣きながら、布団の中で、ほっとする。そんな朝をやりすごす。川が呼んでいる。お散歩にでておいでって、呼んでいる。


わたしの全部のこころを、「へえ、そうなんだ」って受け流すような、川。水かさは、多かったり少なかったり。ただ、いつも、流れてる。この街に住んで十二年。どんな日も、川はそこにあって、変わらずに流れ続けている。


「どうすればいいのかな」「できることはあるのかな」「目指す場所はどっちかな」子育て、夫婦の距離感、わたしの生き方。こころに問いを抱えて、黙って歩く。光を反射させながら、川の水面にキラキラと答えが流れる。


「そのままで愛されればいいよ」「安心していいよ」「よくここまできたね」川の水面に答えが流れる。疲れたわたしが読み取れるゆっくりさで。


川が呼んでいる。そっと川に呼ばれて外に出る。日傘をさして川辺にじっと立って水面を見つめる。晴れ続き、何も言わない無口で静かな川。嵐の後、褐色に濁って激しく流れるうるさい川。流れを見つめるわたしのずっと先に、アオサギが立っている。わたしもアオサギとおんなじだ。じっとして。


アオサギが魚を食べる。わたしの背中をそっとそっと、風が押す。日傘を持ちかえて、川の流れをさかのぼるように歩きはじめる。「大切な友達に悲しい出来事があったんだよ」「いまのわたしに、できることはあるのかな」湧きあがり動き出す問い。上流から、答えが流れてくるのを待ちながら歩く。


アオサギの横を通り過ぎる。ふっとアオサギが頭を振った。わたしも頭を振ってみる。カタカタと頭の中で、記憶が揺れる。しゃんしゃんと記憶の鈴が鳴る。記憶が並んで訴えてくる。あれもこれも散らかってる。いいかげんに整理して、ひきづってないでけじめをつけて、目を上げて前に進んで。


川の水面を見ながら歩く。わたしはほんとうは、知っている。川の上を流れる答えは、わたしの中に最初から漂っている。「だいじょうぶ」川の声?わたしの声か。どちらにしても、わたしはもう迷子にはならない。迷わない。どこにでも行かれるし、どこからでも、ここに帰ってこられるのだから。


川が呼んでいる。「もっとゆっくり歩くんだよ」「いそぐから見えなくなるんだ」「手を放してみて」「まちがいなんて、ないってこと」川が言う。


川の声はちいさくて、わたしのこころに届いた瞬間、もう水の流れに消えていく。「どうもありがとう」わたしのかすれた声もまた川に流れていく。


そぞろ歩く、すれちがう、名前も顔も知らない人たち。わたしもその中のひとり。名前も住所も、忘れたままで、川に遊ぶ。知らない人とすれ違いながら、静かに、こころが決まっていく。友達と会ってくだらないおしゃべりをしよう。


草の上に座って、川のおもてを叩くとんぼを見る。石を投げてみる。ぽちゃんと川に沈む石を見ると、なんだかこころが落ち着いてくる。「ひとりだけど、ひとりじゃない」もうひとつ石を投げる。「明日いいことがあるかもしれない」もうひとつ小石を投げる。「友達の願いが叶ったらお祝いしよう」


川が呼んでいる。ちいさな声で、わたしを呼んで、淡々と流れている。わたしはずっと、このわたしの問いに向き合って生きるはず。「あなたは何をしに、この世界に生まれてきたの?」わたしにはわかっている。「人は世界を舞台に、遊びに来たはずだ」って。もうすぐ雲の間から、大切な友達のこともわたしのことも、誰も彼もお構いなく、お日様が照らすはずだって。


川が呼んでいる。遠くなり近くなり、悠々流れる川の水面には、いくつものたくましい答えが流れていく。わたしたちは、川のおもてに浮かんだ答えを眺めている。ゆっくりと、好きな答えを拾い上げる。どの答えを選んでも、それが最善になる。きっと正解になる。黙々と、淡々と生きる人は、みんないつからか、そんなことを知っているみたいだ。


こころが満ち満ちて、足は自然と川から離れる。夕間暮れ、ゆっくりと帰り道を選んだわたしの前を、カワセミが飛んでいった。はやくおかえり。みんなお家におかえり。わたしのお家はこの世界。あなたのお家もこの世界。


川に呼ばれて、川辺を歩いて、こころは星をぐるりと回った。そうして、わたしの中に戻ってきた。川に呼ばれて川辺を自由に飛び回って、柔らかさを取り戻したこころに、夕焼け空の赤が滲んでいった。はやくおかえり。間違いなんてなかったんだよ。さあそろそろ、夕食の支度の時間だよ。明日になったら友達に「いつ会える?」って電話する。わたしはわたしにできることを喜んでやる。川で見つけた答えはひとつ、そんなちいさなカケラだった。



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