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家事の奇跡の土台はお米

わたしは思う。日々の心の余裕と安心には必ず土台が必要だ。主婦のわたしが家事の奇跡を起こすには、この二本の足を踏ん張ってひとり立つ為の確かな土台がいる。生きる人は、ひとりひとり、異なる土台を持っている。踏ん張るために、工夫して作ったり用意した大切な土台は、他者には見えない。


淡々と大量の洗濯物を干したり畳んだりできるのも、粛々と分別ゴミを仕分けて曜日ごとにだせるのも、掃除してもすぐに汚れてしまう洗面所やお風呂場に心を乱すことなく立ち向かえるのも、おおらかで頼もしい土台があるから可能になる。平凡な主婦を担って誇りを持って生きるわたしには、日常のあれやこれ、何もかもをふっと笑って許せるゆとりを持ったメンタルが必要だし、そのメンタルを支えて揺らがない、大地のような土台が必要である。


我が家を切り盛りする、そんな主婦であるわたしの、終わらない家事のちょっとしたストレス。家族からは忘れ去られている陰の何かを元に戻す、わたしの気配りという名もなき労働。いつもならなんてことない家事のあれこれだったはずが、夏の疲れによって、ふいに表面化する心の小さな痛み。そしてその痛みの数々を抱きとめるわたしには、それを自己治癒する為に、必要な余裕と安心を生み出してくれる素朴な土台がある。その素晴らしい土台とは、我が家のキッチンの隅に置いてある普通のお米。底値で買って取り寄せた在庫のお米。それこそがわたしの踏ん張りの土台となっている。



美味しいお米が今日もまた豊かにそこにあること。暗いキッチンの明かりをつけると、浮かび上がるお米の分厚いビニール袋と、いつでも働きますよという顔をして眠ったような炊飯器。暮らしの喜怒哀楽をお米に支えてもらっているなんてふだんは意識にも上らない。しかしお米の在庫が豊かにあることによる心のゆとりと安心は大きい。補充担当でもある主婦のわたしの心の余裕と安心と奇跡の土台は、キッチンのお米の在庫の豊かさから生まれる。



在庫がある。そしてそれは、明確に日々消費されていく。消えていくことが約束された在庫に限り、その在庫は善である。これだけは言える。美味しさを保つように管理されたお米の在庫は善。適度な量、多過ぎず少な過ぎない、我が家の四人の腹を満たすお米の在庫は、善である。消費される見込みのない在庫を抱えることは悪であるかもしれないが、お米は違う。生きていく限り必ず消えていく。お米の行く先、それは家族のお腹の中。必ずや優しい栄養となって全ての活動を支える源になる。お米の在庫は善。絶対、善。


このところ価格が下がってほんとうに買いやすくなった。アイリスオーヤマのお米は真空パックされており、前回、十五キロのまとめ買いをしてみたところ、夏場でも買い置きの味は落ちなかった。これはある意味で、奇跡。夏場のお米は劣化しやすく管理が難しい。真空パックがいい仕事をしてくれたのだ。つい昨日もネットでポチったが、五キロが三袋、十五キロで六千円代前半だったので即買い。ご注文を承りました、というメールを読み、スマホに向かって、わたしは両手を合わせて頭を下げて感謝した。ありがとう!


なにかあって、いざという時も、美味しいお米さえあれば、カセットコンロで炊くことができる。さらに秘密を打ち明けてしまうと、我が家のキッチンには、ローリングストックしているツナ缶がたくさんある。業務スーパーで仕入れる瓶詰めのご飯のお供の各種調味料もある。なんとかなる。どうとでもなる。わたしはピンチにも奇跡を起こせる。そんな勇気と大きな安心をくれる、お米の在庫。善なる在庫。わたしはこころから、お米を愛している。


体調を崩した時、身体が何も受け付けないことがある。味がある、匂いのあるもの、固形物なんて到底無理なそんな時、ゆるく炊いたお粥の上澄みの重湯をひとくち。ゆっくりと、白くて柔らかな重湯を口に運ぶ。休みつつ次のひとくち。うまくいくと元気をだした胃が動き始めてくれる。それはもう確かな回復の証である。奇跡とも言える。お米にはそんな頼もしさがある。


持った場所が悪くて、二リットル九本入りのミネラルウォーターの箱が玄関先でバラけてしまったくらいで、世界から否定されているような気持ちになって寂しくなる。マヨネーズのチューブをぎゅうぎゅうと押し込んでも、どうしても最後まで使いきれなくて、真ん中を切ってスプーンでかき出してポテトサラダに落としながら肩がこる。とにかく負けるもんかとやっていかないといけない。主婦のわたしに降りかかる地味な試練が終わることはない。


ああ、わたし何をやってもダメなのね。そんな自己憐憫がおそってくる日。言わなきゃいいことを言ってしまった日の後悔と、言ったほうがよかったかもしれないことが、言えなかった日のふがいなさ。進んでも引き下がっても、やることなすことうまくいかなくて悲しくなった日も、わたしにはお米があった。塩だけで結んだおむすびが、情けないわたしを励ましたことは数知れない。それは塩むすびの奇跡。小ぶりにふんわり結んだ真っ白な塩むすびの味。優しくて暖かい味。お米はいつもわたしに優しい。そんなお米のチカラは、わたしの意識と無意識両方で信頼できる確かな土台になっている。


石をパンに水をワインに変えた聖人の奇跡を、平凡な主婦であるわたしは永遠に起こせない。起こせない奇跡もあるが、主婦であるわたしだから起こせる奇跡がある。それは例えば、こんなことだ。夫が地道に稼いでくれた軍資金を、激安のお米に変えることができる。スーパーのこれまた激安の鶏胸肉に変えることができる。安心の土台のお米を優しく研いで、炊飯器にセットして、つやつや光る炊き立てご飯に生まれ変わらせることができる。鶏胸肉を切って衣をまとわせジュッと揚げて、ゆで卵で作ったこってりタルタルソースと千切りキャベツを添えた、チキンカツに変えることができる。


それは、奇跡ではないのだろうか。それは奇跡と言ってしまっても、いいのではないだろうか。石をパンに変えたのと同じことではないのだろうか。主婦であるわたしの日々の奮闘は、誰の目にも止まることのない小さな奇跡を、次々と絶え間なく繰り出す。人間が起こす奇跡は数えきれないはずだ。



残暑厳しい毎日の中で、誰にも知られずに起こす奇跡。午後のスーパーの果物売り場、さあさあ、どれが美味しい梨かな?ラクダのような色をした、斑点のある大きな梨の返事を待つ。知らん顔で黙る梨と見つめ合う。じっくり立ち止まって迷うわたし。勇気を出して二個入りのパックを選びカゴに入れる。こんどは今日のお買い得品の厚切り豚バラの前で、これを使って美味しい豚丼が四人分できるかな?と脂身の具合とグラム数を確認するわたし。


奇跡とはそんなもの。現金を夕餉に変える、それこそがわたしに起こせる小さな奇跡。ひとくち大に切った鶏胸肉に片栗粉をまぶして、柔らかく火入れして、エビチリっぽく味付けしたら、奇跡。豚バラを酒でもんで、香ばしく強火で炒めて甘辛く味付けて千切りキャベツと丼にして温泉卵をトッピングしたら、奇跡。きゅうり三本をスライサーで薄切りして塩揉み、柔らかなカニカマと戻したワカメと寿司酢などで、さわやかな酢の物に変身させたら、奇跡。大安売りだったサニーレタスをちぎって水につけ、シャキッと目覚めさせたら、奇跡。そのサニーレタスを、鶏がらスープの素と少しの米酢、胡麻油でパッと和えて仕上げに刻みのりでチョレギサラダにしたら、奇跡。


奇跡、奇跡、全部が奇跡。家事も奇跡。心臓が動いていることも奇跡。水道から水が流れスイッチをいれるとパソコンが立ち上がるのも奇跡。勝手に呼吸していることも奇跡。わたしたちはひとり残らず、そんな奇跡の集合体!


土台となるお米がある。わたしはその土台に安心して、それならと小さな奇跡を起こしていく。果物を吟味して、お財布と相談しながら買ってきた魚や肉を焼き、野菜を焼き、味噌を溶く。お米とわたしと、日々の奇跡は、きっと繋がっている。同じ空の下、遠い街で、お米を作ってくれた誰かが起こした、米作りという奇跡。ここまでお米を運んでくれた誰かが起こしてくれた宅配という奇跡。無事にお米が買えるように、夫が巻き起こす財源確保という奇跡の連続と、お米をご飯に変える奇跡を日々繰り出す炊飯器とわたし。


みんなの奇跡が、ふわっと繋がって助け合っている。どこかで懸命に生きている誰かを静かに想う。なぜか空が違った色に光る。意識されることはあまりないけれど、ぜんぶ奇跡。いただきます!と手を合わせる。今日もまた、奇跡の積み上がった夕餉を囲む。「おいしいねえ」夫が言う。「今日フェレットをお散歩させてる人がいたよ」娘が言う。「今週末ライブ行くから、夕ご飯いらないよ」息子が言う。「いっぱい食べてね。から揚げひさしぶりでしょう」わたしも笑う。そんな何気ない会話も、笑い声もたぶん、奇跡。


さあ、そろそろスーパーへ行きましょうか。今夜は何が起きるかな。どんな奇跡を起こせるかな。それは特売品次第の愉快な奇跡。主婦のわたしが楽しむ平凡な日常に隠された奇跡。夏の疲れを感じる頃合いに、おいしくなってくる食材がいくつもあるはず。お気に入りのスーパー、美しい棚と時には半額シールの見切り品のかごの中、まだまだいけるわとでも言うように、艶々と光る今日の主役を探しに行こう。奇跡は、名も無きひとりの人間というわたしによって、この世界に具現化されたくて、いつもどこかで待っている。


夏の疲れを癒す奇跡を、マイバッグと共に、ちょっと探しに行ってきます!





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