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なにもなかった夏休みとシャボン玉

なにもなかった夏休み。あきれるくらいいつもと変わらなかった夏休み。なにもなさにかけて満点だった夏休み。なかなか一緒の休みがとれない家族とは、泊りがけのような旅行にも日帰りでも、遠くには行かなかった。毎日作ったご飯は我ながらよく頑張ったけれど、いつもと違う特別なご馳走を食べることもしなかった。夏休みってなんのことだか、決めかねているうちに、暑くなり、日々は過ぎた。テレビで世の中があちらこちらへ移動するのを見かけても、いつもと変わらず、おおきな思い出も何もできなかった夏休み。


春夏秋冬、お盆休みでも夏休みでも、連休でも週末でもおんなじ。穏やかな生活という名の、日々のリハビリは休めない。わたしのメンタルには全部がリハビリ生活で、これからもずっとリハビリ生活が続くのだ。わたしには、なにもなかったリハビリ生活が、ほんのちょっとだけ寂しかった。満ち足りて平和で穏やかで安心だった夏休みが、ほんのちょっとだけ寂しかった。夏休みらしいことが欲しかった。いつもとは違うイベントが、なにもなかった夏休みが、終わっていくのが切なかった。だってまだ、なにもしてない。わたしの夏休み、なにもなかったんだよって、こころのなかの子供がぐずる。


今朝も、わたしはぼんやりとコーヒーを淹れる。夏休みのような、夏休みではないような、心持ちを決めかねている朝が始まる。いつものように、電気ポットに水を入れてスイッチをカチャ。ポットの中でお湯が沸く音に、ひとり静かに耳を澄ませる。ぽこぽこいう電気ポットが急に可愛くなる。「今日もいい音を聴かせてくれるねえ」「あなたにも夏休みはなかったねえ」もちろん、何も言わずに、黙ったままの電気ポットの答えはひと言。「カチャ」


お湯が沸いたらコーヒーの粉にそっと注ぐ。ぐるりとお湯を回し入れる。コーヒーの匂いが立ち上がったら深呼吸。はあ、夏が終わっちゃう。そんな切なさのこもった深呼吸を繰り返す。今日もまた、やっぱりこうして過ぎていくのが、嬉しいような寂しいような。寂しいような、寂しいような。ほら、やっぱり私、寂しいんじゃないの。わたしはわたしの寂しさを捕まえる。


寂しくても、予定がない日は気が楽で、ゆっくりとした朝の始まりの穏やかで静かな時間は好きだけど。スティックパンを齧りながら、さあ今日こそはなにかする?なにもなかった夏休み。ゆっくりしていても、わたしは喜んではいないみたい。なにもなかった七月と八月を見送って、なにもないかもしれない九月を、寂しい気持ちを抱えたまま、にっこり笑って迎えに行こう。


コーヒーを飲みながら、ちょっと思い出を探してみる。毎日学校があったころ、わたしたちは夏休みにどんな想いを持っていた?夏休みって言葉には、なんだか幼いこころが入り混じる。夢があったし、落胆もあったし。大量の本を読んだし。大人になってもやっぱり、夏休みの終わりには、切ない気持ちがやってくる。特別なことは、なにもなかった夏休みの締めくくり。わたしにできるちょっとしたことを探して目を閉じる。


そうだ!いいことを思いついた。川に行って、好きなだけ、シャボン玉を飛ばしてみようかな。朝の思いつきを、ただほんとうにするために、スーパーの駄菓子コーナーの三つセットのシャボン玉と水色のラムネを一本買ってきた。いいねいいね!寂しがって実際ちょっと半べそだった、わたしのなかの子供が笑う。なにもなかった夏休みに、ちいさなシャボン玉を捧げよう。


いつもの川辺に向かって、日傘をさしてひとりで歩く。まだまだ暑い。残暑が言う。夏は終わってませんよ。肩から斜めにかけたバッグの中には、シャボン玉とラムネ。川辺には、長い網をもって遊ぶ子供たち。ゆっくりと草を踏んで歩きながら場所を探す。なるべく遠くに離れるように距離をとって座り込む。ちょっとだけ恥ずかしいからね。大人がひとりでこころのなかの子供を喜ばせるために、シャボン玉で遊んでいるところを、本物の子供には見られたくなかったんだ。


ピンク色の容器のふたをそっとあける。緑色のストローをシャボン玉液の中に、そっと差し込んでシャボン玉液をちょうどよくつける。ふーっと長く息を吹く。いくつもの大きいまると小さいまるが次々と生まれだす。息を吹く。シャボン玉を目で追う。キラキラと七色に反射して、まるいシャボン玉が、川の上を飛んでった。ああ、美しいものだ。わたしはふーっとシャボン玉を吹いていく。最初は遠慮気味に、だんだん大胆に。小さなシャボン玉をたくさんと、おおきなシャボン玉をゆっくりと。こころに喜びの芽が顔を出す。シャボン玉はいくつもいくつも川の上を流れていく。風に乗ってパチンとはじけて、寂しかったわたしのこころも、パチンとはじけて消えていく。


光と風。流れる川とシャボン玉。シャボン玉はきりがなくて、わたしはやっとなにもなかった夏休みを、見送る気持ちになれたみたい。水滴のついたラムネをポンとあけて一口飲む。もっと気持ちが収まった。なにもなかったけれど、それは悲しいことじゃない。なにもなかったけれど、夏休みはわたしを素通りしていったわけじゃない。青い空と入道雲。突然の雨とカミナリ。トンボの群れとアオサギ。スイカと桃とパイナップル。照りつける太陽と寒すぎるスーパー。おしゃべりと夫婦のウォーキング。どこにいて、なにをして、なにをしなくても、わたしだけの大切な夏休みが確かにあった。


八月が終わっていく。夏休みの終わりがフラッシュバックする。誰もがきっとこの季節にはほんのりと切なくなる。夏の終わりを感じると、人はこころのなかで幼かった自分に再会してしまう。幼かったわたしたちは、笑っていますか。泣いていますか。大人のわたしだって、秋の気配に気が緩んで、泣きたくなったりするんだから。子供のころのわたしはきっと、夏の終わりに泣いたんでしょう。


あと一週間もすれば、待ち焦がれていた九月がやってきて、夏休みは終わっちゃう。でもね、こんどはクリスマスがやってくるんだ。こんどは年末年始が待っているんだよ。なにもなくてもいいよ。どこにもいかなくてもいいよ。なにもなかった夏休みに、数えきれないシャボン玉を捧げよう。舞い上がってパチンとはじけるシャボン玉を捧げよう。届くかな、人々の願いよ。


わたしのこころも、シャボン玉みたいに、空高く舞い上がるように。自由に遠くに流れていかれるように。シャボン玉に風が吹く。シャボン玉の下を川が流れる。パチンとはじけて消えるシャボン玉は、きれいな色を揺らめかせてる。とうとう、わたしの夏休みがわたしの背中で閉じていく。目を上げると、その先には、「よくきたね!」と書かれた、秋という新しい扉が見える。一年の中でいちばん大好きな秋を、迎えに行こう。


遠い太陽から旅してきたはずなのに、まだやけどしそうに燃える熱がこぼれ落ちる、桜並木の下を歩く。残暑とはよく言ったものだ。寂しかったこころのなかに、なんだかそっと、楽しみが見えてきた?手の届くような、優しい喜びが生まれてきそう?「今年の秋のファッションは、どんなシルエットと、なにいろが流行るのかしら?」「今年の秋は、サンマが高いっていうけれど、やっぱりスダチと大根おろしをそえて、塩焼きくらいするもんね」


なにもなかった夏休み。シャボン玉が、生まれては消えていく。風に乗って飛んでいく。遠くまで行きたいね。もっともっと遠くまで。それはわたしのこころのこと。こころを遠くまで飛ばしたい。こころは、どこまでいかれるんだろうか、それをわたしは知りたいと願う。シャボン玉を膨らませる。こころも膨らませる。そして、空に飛ばす。ふわっと空に、こころも飛ばす。


こころはいったいどこまで行かれるのか、わたしはまだ知らずにいる。いってみたい場所があるんだ。こころを飛ばしてみたいんだ。シャボン玉はパチンとわれて、はじけた瞬間美しかった。パチンとわれて消えていく姿こそがわたしを励ました。飛んでいきながらおまえも飛んでいけと、シャボン玉が笑ったみたい。どこかでパチンとわれることも、悪くないよって言ってるみたい。なにもなかった夏休みの終わりに、優しい風と川の上を飛んではじけた無数のシャボン玉が、幸いの予感のようにわたしのこころに残りました。





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