絶望のち希望 夫婦げんか未満をそえて
窓の外のセミが、忙しなく夏だ夏だと騒いでいる。会う人会う人、みんながほんのり疲れている。ちょっと話を聞けば、なぜかみんなが、あちらこちらでストレスとストレスが肩をぶつけるように衝突している。真夏の暑さが、実際の人間関係を試すように降り注ぎ、親子や姉妹や夫婦が衝突している。
市営住宅の一室でシングルマザーとして生活を営んでいた頃、夏になるとどの棟もどの部屋も、大きく窓を開け始める。暑かった日の夜ほど、湿度の高い夜ほど、怒鳴り声が飛び交い夏の短い夜がふけた。窓を開け放った暗い部屋で、畳の上に敷いた布団に寝転んで、深夜の隣室から聞こえる怒声と涙声とモノがぶつかるような音に、眠られずただ動悸がした夜は数えきれない。
その日は昼間からケンカの声が響いていた。「おまえのせいでこんな生活になった」と女性が怒鳴る。男性は何も言わずに暴力をふるったらしい。「こんなことしていいと思ってんの」女性の泣き声と怒鳴り声が混じる。モノがぶつかる音。ガシャンと何かが壊れるような音。わめく女性の声を聞いていられず、わたしは外に出る。おんぼろの愛車に乗ってスーパーへむかっていると、さっきまで怒鳴りあっていた女性が、車の前に飛び出す。キーッ。
「あの男を追いかけてください」そういってわたしの車の助手席に乗り込んできた。あっけにとられていると「急いで!」と威勢よく怒鳴られた。黒い服、小さくなっていく男性の背中を追って走る。男性は車道をそれて畑の中を突っ切ってどこかしらに消えてしまった。「停まって!」女性が車を飛び降りるようにして外に出る。そこにいたおじいさんに、「男がどっちに行ったか?」と問いただす。「知らんな」と言われて、女性がうなだれる。
少し冷静になった様子で、わたしに謝る。「ごめんなさい、はずかしい」「乗ってください」髪を振り乱して、ピンク色のもこもこしたパジャマにもこもこした靴下姿の彼女を、助手席に乗せた。二歳くらいの、小さな男の子が部屋に残されているはずなのだ。わたしは心配を顔に出さないように注意しながら、話しかける。「わたし団地の隣に住んでる者です。お子さんはどうされていますか?」「わからない」「いったん帰りましょうか」「はい」
車で送る。部屋に戻ったのを見届けて、スーパーへ。十数年前、その日わたしが何を買ったか、もうなにも思い出せないが、しばらくのあいだ、彼女のことが頭を離れなかった。
何か月かすると、新しい男性がやってくるようになった。そして赤ちゃんが生まれ、お隣さんの苗字が変わった。幸せそうでほっとしたのも束の間で、一年ほどすると、ウソみたいに以前と同じ怒声が隣室から聞こえてくるようになった。といっても、今度の夫らしき人は怒鳴ったりせず、女性だけが一時間ほど怒鳴り散らしている。夫と子供に怒鳴る声は全部聞こえてくる。聞きたくなくても聞こえてしまう。密集した団地にプライバシーはない。向かいの棟にまでその深夜の怒鳴り声は響き渡る。彼女は有名人になってしまった。昼間外で会えば笑顔だが、わたしは思った。彼女もまたなにかに苦しんでいるのだ。どうしていいかわからずに、必死に生きているはずなのだ。
愛してくれる人に、攻撃を向けてしまう人たちがいる。愛を試すように、愛が壊れることを恐れるあまりに、自分から壊してしまう人がいる。大切であるから、失いたくないからこそ、傷つけてしまう人たちがいる。思い起こせばかつてのわたしにも、再婚した夫を困らせた経験がある。最愛の夫を試すような言動をしたことがある。夫は壊れることもなく去ることもせず、「これは症状だね」といって遠く離れて見守った。わたしが落ち着くまで離れて見守っていてくれた。
夫の適切な対応を得たわたしは、感情の爆発をしなくなった。心が揺れ動いたその直前に、フラッシュバックが起きていることに気がつくようになったからだ。怒りがわくとして、それが大きければ大きいほど、遠い過去の何かが紐づいてしまっていることはよくあるんじゃないか。それに気がついてから、怒りそのものがわたしを突き動かすことはなくなった。心が乱れることもある。そののちに絶望することもある。おお、過去か、またおまえか、と落胆することもある。でもいいんだ。わたしは絶望からぽっちりとした希望を探す。フラッシュバックは苦しいが、いつも未来へ向けて、何かを暗示しているのだ。
絶望はいう。絶望から善きものを見つけ出せと。もっと過去から自由になれと。もちろん暗い過去もあるが、自由な未来があると指し示すのが、わたしのフラッシュバックだ。わたしは過去に支配される人生は嫌だ。怒りを感じたら黙ったほうがいい。爆発させるより、観察して分解するのだ。わたしは何度でも絶望して、そこから未来への希望を掘り出すチャレンジをする。どんなこともだんだんよくなるのだ。わたしに起きることは、どんなことも。
夏の夜の団地でのあの騒ぎは、不注意で爆発した花火のように、引火をくりかえす。ドンパチドンパチ、はぜるのだ。そして、ぐっとこらえて静かに生きる誰かにも、同じような火種はある。笑顔が優しい誰かにも、きっと語りつくせぬ過去がある。ひとりシャワーを浴びながら、短い夏の夜にわあわあ泣いている誰かもいるかもしれない。それはいつかのわたしかもしれない。
わたしはそっと心の泉に、あつあつの怒りを沈めて観察する。昨夜もそんなことがあった。夫婦げんかに発展せずに済んだ火種はなんだったのか。きっかけは夫かもしれないけれど、沈めてみれば、見えてきたのは誰だったか。見えてきたのはいつのことだったか。思い出して深く絶望しながら、笑って生きる。そこから希望を生み出して生きる。生きている限り、どんなことも変化するのだ、だんだんよくなっていくのだと、絶望をしたまま、わたしは信じる。絶望から希望を。暗闇から光を。
夫婦げんかは相互理解につながっている。過去のすべての人間はそうやって生きてきたのだ。絶望から希望を生み出した先人たちが、背中で語っているように見えるのだ。おまえにもできるぞ、それそれ、やってみなさい、と笑いながら語っているように思えてならないのだ。仲良く笑って生きたいから、絶望のち希望、そんなことをわたしは信じているのだろう。「まったく大袈裟だなあ」と夫が笑う。でもやっぱり絶望のち希望だ。絶望は希望へと続く変化の始まりの合図かもしれない。夫婦げんか未満の夜が明けて、向き合ったふたりでスーパーの総菜パンをかじる。夫はめんたいこパンでわたしはコロッケパン。仲良く笑って長い長いおしゃべりをした。
