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「そのままでいい」 感情労働という言葉との出会い

落ち込んだままでいろいろしておりました。手の込んだ料理を作ってみたり、短い文章を書いてみたり、友達に会ってみたり、何冊か本を読んでみたり。家事は必須ですが、元気のないまま動いてみました。街をふらついて珈琲店でひとりでぼんやりしてみたり、回転寿司でシャリ小さめの寿司をこっそり二皿食べたりしました。



無理に元気を出そうとはしませんでしたが、わたしをもてなすことに注力しました。落ち込んだままでも意外と物事はスムーズに進みました。どれもこれも、いつもの三分の一くらいの出力で、動かせる範囲で動かしてみました。全部、実験的で、成果もありました。幾度目かの学びがありました。それは「そのままでいい」ということでした。


これまでも、何度も気がついてきたけれど、しばらくすると忘れがちなことでした。またそれは脱皮を繰り返すかのように、変化していくことのようでした。「そのままでいい」と誰かに言われて、「はい、わかりました」とできるものでもありませんでした。



落ち込んでいる自分の世界に、じっくり漂うように脱力していました。生身の人間が常に元気なはずありません。時折こんな風に、わけもなく落ち込んでいるのも悪くはありません。バランスをとってくれているのかもしれないのですから、許す限り漂ってみました。


「そのままでいい」そう肯定されたわたしの心、元気を失ったわたしの心は、それでもちゃんと蠢いていました。どこに行っても、ありふれた生活の中に隠れている誰かの痕跡を見つけました。



人気のない公園の隅に置き忘れたらしいサッカーボール。木の枝に引っ掛けられた落とし物の自転車のカギ。鉄棒にむきあった誰かのスニーカーの足跡。図書館で借りた本の間からでてきたコンビニのレシート。カフェの返却口に捨てられた漢方薬の袋の番号。丁寧にまとめられて資源ごみの収集日に出されていた雑誌のかたまり。誰かが出ていったばかり、閉まり切らずに開いたスーパーの自動ドア。


全部誰かの痕跡でした。体温や気配が残っていました。世界は、誰のものかもわからない痕跡に満ちていました。そしてわたしは気がつきました。わたしの変化に気がつきました。誰かの痕跡に遭遇するたびに、ちょっとづつ元気を取り戻していきました。



砂漠に雨が降って、一週間ほど花が咲く場所があるそうですが、わたしはそんなものかもしれない。「そのままでいい」とわたしを受け入れました。一年のあいだに、ほんの一週間、痛いところがひとつもなくて、不安もなくて、元気いっぱい。そんな数日があるだけで、あとはなにもない砂漠でもいいんじゃないの。そんな気持ちになりました。


わたしのそのままと、だれかのそのままは、まったく違うのでしょう。けれど、「そのままでいい」ことは同じかもしれません。元気でもいいし、元気じゃなくてもいいなら、案外ほとんどの悩みも、消えてしまうのかもしれません。



なぜなら、そのままは、その人だけのものだから。誰にも奪えないし、押し付けることもできないから。無理して合わせることもないし、無理して笑うこともいらないなら、穏やかにすっくと立っていられる気がする。


いつも元気なわたしが、暗い顔で物静かにしていると、家族がなんだかその分を補うように元気をだすからおもしろい。話題をだすのも、その話を広げて愉快にするのも、夕食の団欒を生み出すのも、わたしが担っていた家事の一部でした。でもそれは、わたしひとりで常に担える労働ではなかったのです。



わたしは疲れていたのでしょう。感情を酷使することに疲れてしまったのでしょう。そんな時は黙っていればよかったのです。夫か娘か息子が、自然と愉快なおしゃべりを始めます。


勝手に仕事を余計に背負って勝手に疲れたのが、今回のわたしの落ち込みの原因でした。よくわかってほんとうに嬉しいです。


元気をなくしたわたしは、いろんなことを思いました。主婦の道を大切に愛して生きるわたしが、主婦を放棄するしか楽になる道はないのか?出口が見えない落ち込みがきっかけで「感情労働」というキーワードに出会いました。わたしは何に疲れているのか?誰かに家事を代わってもらっても、解決するようなことじゃない。掃除や洗濯や料理とはまた違う、目に見える労働に疲れているわけではないみたい。



そんなわたしの疑問に、パッと飛び込んできた言葉が「感情労働」という言葉でした。初めて知った言葉でしたが、落ち込み切ったわたしの今に関係する!そんな直観を信じました。


なにかしら救いを求めるような気持ちで、その本を取り寄せて読み始めました。「感情労働の未来」という本です。副題として「脳はなぜ他者の”見えない心”を推しはかるのか?」とあります。今わたしは何に疲れているのか?自分がこれまで家事や育児のなかで、どんな仕事をこなしていて何をしてきたのか?これからの感情労働について、脳科学の面から楽しく学びました。


「そのままでいい」は元気な時にもあてはまります。元気な時は、元気に活発に過ごせばいいし、落ち込んだらそれなりに心を守って過ごせばいい。どちらも大切な自分です。破棄しようとしたり、憎んではかわいそうです。私の強みは、「感情労働」という作業に誇りをもっているということです。「感情労働」が好きだということです。でもそれも、無自覚でした。



疲れ切って落ち込んで一冊の本にたどり着き、わたしらしさを自覚するきっかけになりました。「そのままでいい」と自分を許し休まなければ、気がつくこともありませんでした。落ち込まなければ疑問を感じることもなく、新しい言葉に出会っても、本を読んだり学びにつながることもなかったと思います。


元気をなくしたから、本の内容が身に沁みました。他者に共感をしたうえで自分とは切り離すことが、本当の意味で他者を理解することにつながると、著者の恩蔵絢子さんが書いていらっしゃる。本当にそうだと思いました。自分の心に気がつくことを、ないがしろにしていたら「そのままでいい」とは言えないでしょう。それはそのまま他者にも向かうはずです。



「そのままでいい」とは心の状態を把握して受け入れることであり、投げやりになることではありませんでした。かえって丁寧に心を観察してみて繊細な対応ができたから、学びにつながる変化が起きた。他者を理解したいなら、その時に使っている脳をわたしの為にも使ってみよう、そんなことを思いました。


無理はしたくないけれど、主婦の誇りをもってわたしにできることに取り組んでいきたい。「感情労働の知識」がそんな平凡なひとりの主婦であるわたしを助けます。言葉はまた数え切れない誰かの生きた痕跡でした。「知」は痕跡でした。


日々の暮らしの中で疲れを感じたら、それはわたしが知らない学びのきっかけかもしれないから、立ち止まってそんな誰かの「知」を求めてみよう。わたしの悩みや落ち込みは、世界中の誰かがすでに味わっていて、学問になり研究されているのかもしれないのです。


「ひとりで抱え込まないで」そんな言葉は、使い古されているかもしれませんが、ほんとうにそうだなと感じます。


わたしは落ち込み、わたしは気がつき、「感情労働」という言葉と興味深い本と出会いました。それはちょっとだけ苦しかったけれど、わたしと家族、わたしと友達の現在を変えるきっかけにもなってくれたのです。


「知」を求めることは、百万馬力を得たようなものです。これからも巻き起こるであろう、人生のさまざまな課題について、それはあなたひとりの悩みではない。何事も自分ひとりで戦わなくてもいいのだと一冊の本が教えてくれました。


わたしの感情については、これからも繊細に気がついていくつもりです。誰もが自分自身のプロフェッショナルになることは、小さな平和が絶え間なく生まれ続けることにも見えてきます。



元気をなくして落ち込んで、それならとゆっくり過ごすのも、感情労働を休憩するのも、元気に動き回るのと同じく素敵なことじゃないかしらと思います。優しさってそんな何もないような隙間から作り出されている資源なんだなと、実感できたことが嬉しいです。


疑問から、悩みから、学びの一歩を踏み出すまで。ひとそれぞれの思考の過程があるでしょう。いつだってそれはベストなタイミングでやってくるようにも思えます。行き詰ったときにこそ、解決に向けて方向転換する良いきっかけにできますように。



人生の道を歩いていくのは自分自身の足かもしれないけれど、先を行く仲間が照らしてくれる明かりを求めることを迷う必要はない。「知」を探求することを諦めてはならない。「そのままでいい」と言い続けるために。未来のわたしに期待を込めて、そんな願いを書きました。



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