「誕生」の「誕」は、"うそ"という意味もあるらしい。
父の一周忌だった。
家族みんなで、お寺へ法要に行った。
お経が終わると、お坊さんの説法の時間がある。
子どもの頃の私は、この時間があまり好きではなかった。
「何を言っているんだろう」
そんなことを思いながら、早く終わらないかなと時計ばかり気にしていた。
でも大人になった今は、この時間が結構好きだ。
今回の説法のテーマは「誕生」だった。
お坊さんは、「誕生」の「誕」という字には、「うそ」や「いつわり」という意味もあると教えてくださった。
私たちが生きるこの世は、嘘や偽り、煩悩のある世界。
だから「誕生」とは、そういう世界に生まれてきたことを表している、という考え方があるそうだ。
そして「命日」は、その命が終わる日。
生きている間は、誰しも嘘をつかずには生きられない。
けれど、この世を去るとき、初めて嘘をつかなくなる。
そんなふうにも捉えられるのだという。
「なるほどな」と思った。
私は、できるだけ嘘はつきたくないと思っている。
それでも、お世辞を言ったり、その場の空気を壊さないために言葉を選んだり。
気づけば、小さな嘘をついてしまうことがある。
そのたびに、少し自己嫌悪に陥っていた。
でも、この世はもともと嘘や偽り、煩悩のある世界なのだとしたら。
「仕方のない嘘」まで抱え込んで、自分を責めなくてもいいのかもしれない。
そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
もちろん、それでも自分の心にだけは正直でいたい。
その気持ちは、これからも大切にしたいと思う。
そんなことを考えながら、ふと説法をしているお坊さんに目を向けた。
ものすごく若い。
たぶん20代だ。
私より、はるかに年下だった。
いつからだろう。
法要に来てくださるお坊さんが、年下になったのは。
子どもの頃に来ていたお坊さんは、おじいちゃんくらいの年齢の方ばかりだった。
だから説法も難しく感じて、退屈だった記憶しかない。
それなのに今は、年下のお坊さんの話を「面白いな」と思いながら聞いている。
私が歳を重ねたからなのか。
それとも、お坊さんたちが現代の言葉で、わかりやすく伝えてくださるようになったからなのか。
理由はわからない。
でも、じっと座って人の話に耳を傾けられるようになった自分に気づいて、少しだけ大人になってしまったんだなと思った。
