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【読書感想文】太宰治「斜陽」のラストシーンを考察する

読書感想文を書くのが苦手、というかそもそも本の感想を言うのが昔から苦手である。
本の感想というのは読むたびに変わっていくのに、それを言葉で固定化してしまうことで、自分の中にある可能性が狭まってしまう気がして嫌だった。

とりわけ、本の感想を言い合う場などというのは最悪で、自分の思っていることが周囲と違うと思った瞬間に、頭の中に浮かんでいた言葉が喉の奥の方に引っ込んでしまう。

そのくせ何のサービス精神なのか、反射的に適当なことばかり話してしまうので、あとから何て頭の悪そうなことを言ってしまったのだろうと後悔することもしばしばだ。
でもまあ、それも自分の実態なのだから仕方がないと思いながら、
とはいえ、後からそう思うとしたら、今の自分よりは頭の悪い発言をしていたということで、その事実にストレスを感じる。

そんな私が、先日読書会というものに初めて参加した。
そして、その読書会を通じて本の解釈が変わるという体験をして、それがとても面白かったので、ここに書き残してみたい。

課題図書は太宰治の「斜陽」だった。
有名な本なのであらすじなどは省くけれど、ラストシーンが意味不明だとその読書会で話題になっていた。

そのシーンというのは、
没落華族の主人公のかず子が、妻子持ちのデカダン小説家上原の子を孕み、その子を産んで育てることが「道徳革命」だなどと言ったあげく、
上原に、妻に自分の子供を一度でいいから抱いてもらってくれと頼む、というぶっ飛んだシーンである。
しかも、その直前にかず子の弟の直治は自殺しているところ、上原の妻に、「これは、直治が、或る女のひとに内緒で生ませた子ですの」と言いたいらしい。

色々な意見があった。かず子は妻に対していやがらせをしたいのだという意見が多かった。
その中でも、ある人が言った感想が妙に心に残った。

「かず子は革命という物語を信じている。それが強いと思った。直治は物語を信じることができなかった。だから死んだ。でもかず子は自分の物語を信じていて、だから生きていくことができた。現代でも推活などがあるけれど、何らかの物語を信じれる人は強い。かず子はラストのシーンで上原を捨てて、強く生きていこうとしたのだと思う。」

面白い解釈だと思った。
でもしばらくして、何かが違う気がする、と思った。
元々私は、このラストシーンについて、かず子なりの革命の完成なのだと思っていた。
上原の妻に自分の子供を抱かせることで、旧来の家制度などに反抗しようとしているのではないか、と。
そのことが、生き続けられなかった直治の復讐にもなり、そして直治という人間を何らかの形でこの世に残すことに繋がると思ったのではないか。

でもその感想を聞いてから、また別の仮説を抱くようになった。

そもそも、かず子は、革命などということを本気で信じていたのだろうか。
私は、一女性として、そうではないと思う。
かず子は、ただ上原の子供が欲しかっただけなのではないか。
色々と理屈を並べ立てているけれども、本当はただ上原のことを好きになってしまっただけで、実のところ革命などというのはどうでも良いのである。

戦後金銭的に困窮していく中で、かつては華族として誇っていた自分も、ただ美しいだけでは生きられなくなって、
それでも生きることを諦められなくて、どんな自分でも生き抜くことこそが正しさだと信じたくて。
そうであれば、好きな人の子供だって生みたいと、それはもう本能としてそう思っていたのではないだろうか。

そしてそんな風に自分に素直に生きていくことが、新しい時代の道徳なのだと、華族だって妾になれるのだと、そう主張することでしか今の自分を慰められなかったのだと思う。
不倫相手の子を産むことが、道徳革命だなんて、そんな馬鹿げた理屈を信じるには、かず子は歳を取りすぎている。
いや、ほんの少しは本気でそう思っているのだろうし、そんな風に生きれたら良いのになあと憧れてもいるのだろう。

でも本当は、不安だったんだと思う。
お腹の中に子供がいて、でもその父親には妻子がいて、自分は少しも愛されていなくて、母親も弟も死んでしまって、経済的にも困窮している。
だから、かず子は信じたかった。これは革命という物語なのだと。
そしてその物語に現実の輪郭を与えるために、上原の妻に自分の子供を抱かせたかったのではないだろうか。

直治の隠し子だ、という体にして。
それは、日の当たるところで、穢れながら生きていくという、蛇のようにしたたかな決意なのである。


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