甲本ヒロトは、なぜ「自由」しか歌わないのか?~最も政治を語らなかった男が最も自由だった理由~
はじめに
金曜の夜のカラオケボックス。一週間ぶんの疲れを背負った中年の男が、マイクを両手で握りしめ、目をつぶって叫んでいます。ブルーハーツの「トレイン・トレイン」です。
普段は会議で言いたいことを飲み込み、上司に頭を下げ、満員電車に押し込まれている。そんな男が、その夜だけは何かを取り戻すように、声が裏返るのもかまわず歌う。
不思議なものです。あの曲が世に出てから、もう四十年近くが経ちました。歌っている本人だって、とっくに五十を過ぎている。それでも、なぜ私たちは、いまもこの歌を叫びたくなるのでしょうか。
この連載では、「なぜ日本の音楽家は政治を語らないのか」という問いを、かたちを変えて何度も投げかけてきました。
前回は反戦を正面に掲げたドレスコーズの話をして、その流れで、ブルーハーツが怒りと優しさを同じ歌に詰めこんだ、と一行だけ書きました。
書いてから、ひとつ引っかかったことがあります。
頭脳警察、遠藤ミチロウ、忌野清志郎——社会と正面から斬り結んだ人たちを、私はこれまで書いてきました。けれど甲本ヒロトという人は、政治をほとんど語りません。
スローガンを叫ばない。誰かを名指して糾弾もしない。なのに、彼の歌ほど「自由」を感じさせるものは、そうないのです。
最も政治を語らなかった男が、いちばん自由を歌っていたのではないか。
無料の記事では、この問いを開いたままにしておくところです。けれど今回は、もう一歩だけ踏み込みます。なぜ「トレイン・トレイン」を叫びたくなるのか。
なぜ彼の歌は政治的に聞こえないのに、こんなにも自由なのか。曲そのものの作りと、五十九になった私自身の人生を重ねながら、正直に掘り下げてみたいと思います。
あなたにとって、自由とは何でしょうか。その問いを胸のどこかに置いたまま、しばらく甲本ヒロトと付き合ってみることにします。
Part1「パンクを、口ずさめる歌に変えた男」

甲本ヒロトは、一九六三年、岡山市に生まれた。クリーニング店を営む家の長男である。
人生を決めたのは、中学時代だったという。ラジオから流れてきたセックス・ピストルズに、頭を撃ち抜かれた。
うまく演奏することよりも、胸の中の衝動を、そのまま音に変えること。パンクは彼にとって、技術ではなく態度だった。
高校時代にバンドを始め、やがて上京する。いくつかのバンドを経たのち、ギターの真島昌利と出会った。意気投合した二人は、一九八五年にザ・ブルーハーツを結成する。
バンド名に深い意味はない。小学生でもわかる、誰もが呼びやすい名前だから——ヒロト自身が、そう語っている。じつはこの感覚こそが、のちのすべてを貫いていく。
一九八七年、シングル「リンダリンダ」でメジャーデビュー。翌年の三枚目のアルバム『トレイン・トレイン』は、五十万枚を超えて売れた。彼らは一気に時代のまんなかへ躍り出る。
ブルーハーツは一九九五年に解散した。だが二人は止まらなかった。ハイロウズを組み、それも一区切りつけると、二〇〇六年からはザ・クロマニヨンズとして、いまも現役で鳴らし続けている。デビューから数えれば、もう四十年に近い。
彼らの音楽は、驚くほどシンプルだ。コードは三つか四つ。難しい言葉は、ひとつもない。中学生が初めて手にしたギターでも、なんとか弾けてしまう。
ここが、甲本ヒロトという人を考えるうえで、最初の鍵になる。
パンクという音楽は、もともと「特別な人たち」のものだった。世間に背を向け、尖って、わかる者にだけわかればいい——そういう手触りがあった。
日本に入ってきたときも、その響きは、一部の熱心な若者だけの事件にとどまりがちだった。
ところがブルーハーツは違った。誰もが口ずさめるメロディと、誰にでも届く言葉で、パンクを茶の間にまで運んでしまったのだ。
学校でうまくやれない子も、就職につまずいた青年も、毎朝、改札の人波にもまれて出社する勤め人も、それぞれが自分の歌として歌えた。
パンクを、特別な誰かのものから、私たちみんなが口ずさめる歌へ。
冒頭のカラオケの男が、四十年経ってもマイクを握りしめてしまうのは、たぶんそのためだ。あの歌は最初から、「私たちの歌」として作られていた。
では、その歌を作った人間は、いったい何を考えていたのだろう。次の章では、甲本ヒロトという人間の核心に踏み込みたい。
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