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愛媛松山城。なぜ東京にお城天守閣はなく、愛媛には残っているのか。

愛媛県の松山城に登ってきました。石垣の上にそびえる真っ白な天守閣を見上げながら、ふと思ったことがあります。

そういえば、東京の皇居(旧江戸城跡)には、天守閣がありません。お濠や石垣、櫓は今も残っているのに、肝心の天守閣だけがないのです。東京に10年近く住んでいた頃は、当たり前すぎて、深く考えたこともありませんでした。松山城の天守を見上げて初めて、「なぜ皇居には天守閣がないんだろう」という、素朴な疑問が湧いてきました。

松山城は、何度も「なくなるかもしれない瞬間」を越えてきた

松山城は、これまで何度も「消えてもおかしくなかった瞬間」を迎えてきたお城です。

明治になると、全国の城は「軍が使うか、使わないか」で仕分けされ、使われないと判断された城は容赦なく売却・解体されていきました。松山城もこの対象になりましたが、たまたま本丸・二之丸が愛媛県にまとめて引き渡され、県が管理を続けたことで、他の城のようにばらばらに壊されずに済みました。

さらに1945年、松山も大きな空襲を受けます。天守の周りにあった建物11棟が、このとき焼け落ちました。それでも大天守だけは、城内にいた監守長がたった一人で消火にあたったことで、焼け残ったと伝えられています。
廃城令でも、空襲でも、松山城は「消えてもおかしくなかった瞬間」を、その都度、誰かが「残そう」とすることで乗り越えてきました。

今、天守閣を見上げられるのは、当たり前のことではなく、いくつもの偶然と、誰かの選択が積み重なった結果なんだと思うと、見え方が変わってきます。

一方、江戸城の天守は、燃えたあと二度と建てられなかった

対照的なのが、東京の江戸城です。調べてみると、東京に天守がないのは、単に「壊された」からではありませんでした。
1657年、江戸の街の大半を焼いた「明暦の大火」で、江戸城の天守も焼け落ちます。幕府はすぐに再建に取りかかり、天守を建てるための土台まで完成させました。今も皇居東御苑に、その石垣だけが残っています。
でも、その上に天守は建ちませんでした。当時の実力者・保科正之が、こう判断したからです。「もう戦の心配はない時代。天守は、ただ威厳を示すだけの無用の長物だ。それより、被災した人たちの救済と、街の復興にお金を使うべきだ。」

威厳を示すより、人の暮らし。江戸は、天守を失ったまま、次の時代に進むことを選びました。

同じ「失うかもしれない瞬間」に、違う選択をした

江戸城と松山城、どちらも一度は「天守を失うかもしれない瞬間」を迎えています。でも、その先の選択が違いました。江戸は「もう要らない」と手放し、松山では、その都度誰かが「残そう」とする側に回った。

どちらが正しいという話ではないと思います。見栄を手放して、今いる人の暮らしを優先する判断も。誰かが手間をかけてでも、形あるものを残そうとする判断も。

どちらも、その時々の人が下した、選択です。

東京に住んでいたときは気づきもしなかったことに、愛媛に来て初めて気づく。松山城の天守を見上げながら、そんなことを考えていました。


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