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【短編小説】呪いと祝い


「おまえ、居なけりゃ楽なんだけどな」

父は確かにそう言った。
聞き間違いではなかった。

父は酒乱の気があった。

普段は温厚である。
しかし、酒が入ると豹変した。

お酒を飲んで帰ってきた父は、化け物だった。
ニヤニヤ笑いながら、小動物をいたぶるように、わたしたち兄弟に嫌がらせをした。

そのまま殴る蹴るみたいなことはしない。
腕を捻ったり、押さえつけたり。
怪我をしない程度に調整して、わたしたちが嫌がるのを見て楽しんでいるようだった。

そして、とにかく身体が強かった。

部屋に逃げ込んでも、鍵をかけるのが遅れればドアをこじ開けられる。
二人で抵抗しても相手にならない。

抵抗しても勝ち目がない。
逃げようにも逃げ場がない。
父が酔って帰ったとき、わたしたち兄弟は、とにかく部屋に立て籠もり、鍵をかけて父が諦めるのを待つのだ。

母は、夜は居酒屋で働いていた。
母が帰宅するのを待つしかなかった。
母が帰ったところで、事態が収まるわけではない。
夫婦喧嘩に発展する。その声を聞くのも嫌だった。
それでも、母に頼るしかなかった。

母から聞いた話によると、父は中学を出たあと、少年工科学校へ進んだそうだ。
中学時代の父は、学年でもトップレベルの成績だったらしい。
しかし、家庭の事情で普通の高校へは行かず、手に職をつけるために、そちらへ進んだ。
今でいう、陸上自衛隊高等工科学校である。
父の運転免許証にはびっしりとチェックが入っていた。
そんな父だから、とにかく身体は強かったのだ。

あるとき、酔った父がわたしに命令した。

肩が痛いから肩を揉め。
背中が痛いから上から踏め。

要は、マッサージをしろということだ。
わたしは、父の機嫌を損ねないよう、どうやったら気持ちいいのか、どこが痛いのか、どの程度の力加減がいいのか、小学生の頭で考えた。

幸い、父はわたしのマッサージが気に入ったらしい。
酔って帰ったときでも、

「肩揉もうか?」
「背中押そうか?」

と聞くと、

「おう、頼む」

と言って横になるのだった。
わたしはとにかく、このまま眠ってくれるよう願いながら、できるかぎり丁寧にマッサージを続けた。
今思えば、なんとも悲惨で滑稽なマッサージである。

あるとき、わたしのマッサージを受けながら、父がボソボソと言い出した。

「ああ、うまくなったなあ」
「ほんと、仕事で身体がいてぇわ」
「おめぇを育てんのも楽じゃねえんだぞ」
「マッサージくらいはやって貰わねぇと割に合わねえ」
「おめぇが居なきゃあ楽なんだけどなあ」

「なあ、居なくなってくれねえか」

どこまで本気なのかはわからない。
だが、確かにそう言った。

わたしは、泣きながら、父が眠るまで肩と背中を押し続けた。
悔しいのか、悲しいのか、何もわからなかった。

翌日、酒が抜けた父は温厚だ。

――いや。
今思えば、温厚なのではなく、本気で生きていなかったのだろう。
父は、物事すべてに真剣ではなかったのだ。
おそらく、自分が言ったことも覚えていない。
わたしが泣きながら背中を押し続けたことも覚えていない。
酔っていない父が、わたしたち兄弟に穏やかなのは、わたしたちに本気で向き合っていなかったからだろう。

そんな父は、わたしが高校三年生のとき、ギャンブルで大きな借金を負った。
わたしは進学できなくなった。
家も手放すことになった。
そして、母と離婚した。

酒乱で、お金にだらしなく、知能も身体的にも能力は高いのにまったく活かせない男。
それがわたしの父だ。
それでも、わたしは父が嫌いではなかった。
嫌われないように過ごすうちに、ストックホルム症候群のようなものになっていたのだろうか。

母と離婚して以来、わたしは父に会う機会がなくなった。
会おうとも思わなかった。

やがて母から、父が脳梗塞で亡くなったらしいと聞かされた。
脳梗塞というのが、酒乱の父らしい。

そうして、あのときの言葉を追求する機会は失われた。
わたしの心に、四十年以上残り続けている言葉の真意。
本人が覚えていようがいまいが、関係ない。
酔った中で口走った言葉であろうと、父の頭の中に、そういう意識があったことは事実だ。
だから、言葉として放たれたのだ。

今さら恨み言を言う気もない。
謝って欲しいわけでもない。
ただ、あの時のまま固定されてしまった。

母からの愛情は感じられた。
友人にも恵まれた。
だから、それほど気に病むことはなかった。
それでも、自分の父から、居なくなってくれと願われた、その言葉は、ふとしたときにわたしを包む。

父はもう居ない。
しかし、父の言葉は今も生きている。


――わたしは妻の肩を揉む。
父を寝かしつけたときのように、優しく。

「一緒にいてくれてありがとう」

わたしが居なくなったとしても、わたしの言葉は、妻の中で生きていてほしい。


呪いと祝い



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