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【note読者限定公開】会社では「働かないおじさん」、家では「ATM」。53歳・孤独な男の絶望と嘘。(小説『もし人生にいきづまったら』本文特別抜粋)

今日は、いつも僕の暑苦しい文章を読んでくれているnoteの読者の皆さんに、ちょっと特別なプレゼントがあります。

今回の書籍『もし人生にいきづまったら』(アスコム)は、僕がこれまで出会ってきた同世代のミドルシニアたちのリアルな葛藤や再生を、より生々しく、自分ごととして感じてもらうために「小説形式」で書いています。

この物語の主人公は、人生にいきづまった三人の男女たち。今日はその中から、ある一人の男性の物語を「特別公開」しようと思います。

主人公は、52歳の会社員、齊藤照之。 
役職定年を迎え、会社では新人の面倒も満足に見ない「働かないおじさん」として扱われている男です。
家では受験に失敗して引きこもる長男と、次男の教育に血道を上げる妻に挟まれ、完全に居場所を失っている。

でも、彼には「秘密」がありました。 会社を一歩出れば、テンガロンハットとサングラスを身に纏う凄腕のフォトグラファー「テリー・サイトー」という、もう一つの顔を持っていたんです。

「いつか写真のコンテストでグランプリを取れば、妻も自分を認めてくれるはずだ」 
「この窮屈な人生から抜け出せるはずだ」
そう信じて彼は10年間、誰にも言わずにシャッターを切り続けてきました。

 そしてついに、念願の「グランプリ」内定の報告を受けた夜。彼を待っていたのは、想像を絶する残酷な現実でした。

少し長くなりますが、どうか最後まで読んでみてください。
この物語のどこかに、ふと自分と重なる横顔が見つかるかもしれません。

それでは、どうぞ。

斉藤照之のライフシフト
(五十二歳、生命保険会社の元営業課長、写真歴二十年)
~役職定年を迎え、周囲からは「働かないおじさん」と揶揄されても言い返せず、本当にやりたい趣味の世界では結果が出ず、家でも妻や子どもとうまくいかず、「自分の居場所」が分からず、「どこへ向かえばいいのか」も分からなくなっている人生からの脱却~

(俺は今、ここにいない)
ひばり生命保険、本社ビル。十一階の研修ルーム。東京の高層ビル群が見渡せる窓からは、午後の日差しが差し込み、白い壁を照らしている。部屋の中央には、十人ほどの新人セールスレディが座っていた。

全員女性、二十代から三十代。みんな、真剣な顔でモニターを見つめている。モニターには、保険に関する基礎的な説明動画が流れている。斉藤照之は、モニターのすぐ横で、できるだけ女性たちの視界に入らないように背中を丸めて座っていた。五十二歳。長身で、精悍な顔立ち、どこか俳優のようだが表情は硬い。グレーのスーツに、紺色のネクタイ。短く刈り込まれた髪に、わずかに白いものが混じっている。

照之は、モニターを見つめていた。いや、見つめているフリをしていた。目ではなんとなく文字を追いながら、頭の中にはまったく別の映像が展開していた。
今年の春に撮影した、夜明け前の湖。水面を覆う薄い霧。その向こうに浮かぶ桜のシルエット。そして、空が青から紫へとグラデーションを描き始めた中に一羽の鴨が舞い降りた、あの奇跡の瞬間。
場所は、長野県の某湖。カメラ仲間のSNSで「穴場スポット」として紹介されていた場所だった。写真を見た瞬間、「ここだ」と直感した。金曜の夜、仕事を終えてすぐに車を走らせた。夜通し運転し、夜明け前から三脚を据えて待ち続けた。そして、ついに捉えた一枚。

(あの写真で、今年こそグランプリを獲る)

JPC展。日本写真家倶楽部が主催する、国内最高峰の写真コンテスト。照之は、毎年応募し続けている。入選止まりが三年続いた。今年こそは、グランプリを獲りたい。獲らなければならない。応募締め切りまで、あと一週間。この週末は、あの写真の色調を最終調整しなければ。青紫のグラデーションをもっと幻想的に。霧の濃淡をもっと繊細に……。

「齊藤さん、ちょっといいですか」と新人の佐伯が、おずおずと手を挙げた。二十代後半の女性。真面目そうな顔立ちだが、今は困った表情をしている。照之は、長身の体を椅子に預けたまま顔を向けた。「はい、どうぞ」という声は低く、抑揚がない。
「この生活設計インデックスっていうのが、よく分からなくて……」
照之は口を開きかけた。生活設計インデックスの仕組みなら、自分なりに説明できる。物価上昇率と平均余命変動率と実質賃金改定率を組み合わせた複合指標で、要するに……。でも、それを言葉にしようとすると、頭の中が白くなる。どこから説明すればいいのか。何から話せば伝わるのか。二十年以上この会社にいるのに、照之は未だに「教える」ということが苦手だった。

(駄目だ。うまく説明できない)

結局、照之は「パンフレットの五ページに書いてあります」とだけ答えた。
「でも、パンフレットだと難しくて……」と佐伯の声が、少し小さくなる。
「休憩時間に商品企画部に電話して聞いてください。内線は2315です」
佐伯の落胆した顔が胸に刺さった。でも、照之にはそれ以上のことができなかった。自分は本当に駄目な奴だな。そう思いながら、また窓の外に目を向けた。
研修室にいる新人セールスレディは、みんな、モニターを見つめている。半分以上は理解できていない顔をしている。照之は、その様子を見ながら思った。彼女たちは、これから何十年もこの会社で働くのだろうか。自分のように心をどこか別の場所に置いたまま。自分のように「ここにいない」まま。

その時、研修室のドアが開き、営業本部の部長の安倍が顔を覗かせた。
「齊藤さん、研修中すみません」
小柄な体を大きく見せようとしているのか、いつも爪先を立てて歩く癖がある。スリーピースのスーツは仕立てが良さそうだが、どこか似合っていない。
「はい、新商品の研修です」と照之は、ゆっくりと立ち上がって軽く頭を下げた。
「ああ、そうですか。ところで齊藤さん、今夜の生成AI研修、参加されますか?」
安倍がにこやかに聞いてくる。
「申し訳ございません、今日は別件がありまして……」
「別件?」と安倍の眉がわずかに上がった。「でも齊藤さん、これからの時代、生成AIを使いこなせないと厳しいですよ。特に齊藤さんくらいの……ベテランの方は、デジタルに苦手意識がある方も多いですからね」
その言葉に、照之の眉間にわずかな皺が寄った。デジタルに苦手意識? 照之は、フォトショップで何百枚もの写真をレタッチしている。ライトルームで色彩補正も自在にこなす。RAW現像も、HDR合成も、フォーカスブレンディングも、プロ顔負けのスキルがある。ミッドジャーニーやソラ2も試した。AIで生成した画像を、自分の写真と合成する実験もしている。生成AIについては、おそらくこの会社の誰よりも詳しい自信がある。でも、言えるわけがない。照之は、唇の内側を噛んだ。
「まあ、齊藤さんも、エクセルやワードは使えますから、基本的なデジタルリテラシーはありますよね」と安倍が、まるで子どもを褒めるような口調で言った。
「はい」と照之は無表情のまま答えた。
「でも、これからは生成AIですよ。チャットGPTとか、使ったことあります?」
「少しは」
「そうですか。まあ、初歩的な研修ですから、齊藤さんにはちょっと退屈かもしれませんが……」
安倍が、わざとらしく笑った。初歩的な研修。生成AIとは何か。プロンプトの書き方の基本――そんな内容だろう。照之にとっては、時間の無駄以外の何物でもない。でも、それを口にすることはできない。
「いえいえ、勉強になると思います」と照之は、丁寧に答えた。
「そうですか。じゃあ、次回はぜひ参加してくださいね」
安倍は、そう言ってドアを閉めた。

照之は、椅子に座り直した。胸の奥に、苛立ちが燻っている。六十歳の定年まで、あと八年。それまで、この茶番を続けなければならない。安倍のような上司に頭を下げ、つまらない研修を受け、やる気のない。いや、やる気を出せない自分を抱えながら、新人の面倒を見る。そんな毎日が、あと八年。でも、給料はもらえる。ローンも払える。子どもの学費も出せる。
だから、我慢するしかない……。

照之は、時計を見た。午後四時三十分。早く帰りたい……。今日はカメラ教室での講師の日だった。夜六時までには新宿に着きたい。研修動画は、まだ三十分残っている。照之は、動画の進行バーをマウスでクリックし、早送りした。
「あの、齊藤さん」佐伯がまた手を挙げて言った、「さっきの部分、もう一度見たいんですが」
「それは各自で見直してください。動画は社内サーバーにアップされてますから」
照之は、無表情のまま答えた。自分でも分かっている。冷たい対応だ。佐伯は困っている。助けを求めている。でも、照之には、今、それに応える余裕がなかった。頭の中は、あの湖の写真のことでいっぱいだった。佐伯は、不満そうな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
四時五十分。照之は、研修記録をエクセルに入力し終えた。
「今日はここまでです。お疲れさまでした」
動画はまだ十分残っていた。何か言いたそうな佐伯を残して、照之はさっさと研修室を出た。廊下を歩きながら、照之は小さくため息をついた。

(俺は、いつからこんな人間になったんだろう)

昔は違った。入社したばかりの頃は、仕事にも熱意があった。お客様のために、いい提案をしたいと思っていた。いつからだろう。心が、ここから離れていったのは。エレベーターの中で、照之は鏡に映る自分の顔をまじまじと見た。グレーのスーツ姿。無表情。疲れた顔。

(これが、俺か……)

五十二歳。会社では「やる気のないベテラン」。デジタルに疎いと思われている。新人の面倒も満足に見られない。これが、三十年近く会社に勤めた結果だった。照之は、スマホを取り出した。ロック画面には、自分が撮影した幻想的な風景写真が映し出されている。夜明けの湖、霧の中に浮かぶ桜、独特の青紫のグラデーション。

(これが、俺の本当の姿なんだ)

会社を出ると、照之の足取りが少し軽くなった。通勤ラッシュの逆方向。新宿方面へ向かう電車は、比較的空いている。
電車の中で、照之はスマホでインスタグラムを開いた。自分のアカウント「@terry_ssaito_photo」フォロワーは百二十人ほど。カメラ教室の先生や生徒たちがお義理でフォローしてくれているだけだ。
最新の投稿は、三週間前。「いいね」は、二つだけ。照之は、ため息をついた。もっと、発信しないとな。でも、会社にバレたら困る。だから、顔写真は一切載せていない。風景写真だけだ。

新宿に着くと、照之は雑踏の中を歩いた。
平日の夕方、街は活気に溢れている。若者たち、サラリーマン、買い物客。みんな、それぞれの人生を生きている。照之は、その流れに逆らうように歩きながら、ふと思った。

(この中に、俺みたいな奴は、どれくらいいるんだろう……)

昼間の自分と、夜の自分が、まるで別人のような人間が……。

東京カメラ学院は、新宿三丁目駅から徒歩十分ほどのビルの三階にある。エレベーターを降りると、受付の女性が笑顔で迎えてくれた。
「テリー先生、お待ちしてました!」
照之は、初めて表情を緩めた。鋭い目が、少し優しくなる。

照之は、講師用のロッカールームに入った。誰もいない。ロッカーを開けると、中にはジーンズとカジュアルなシャツがハンガーにかかっている。そして、棚の上には、テンガロンハットが待っていた。照之は、ネクタイを外した。ワイシャツのボタンを、一つ一つ外していく。スーツを脱ぐと、引き締まった体が現れる。毎朝のジョギングと、週二回のジムが習慣になっている。カメラを持って山を歩くためには、体力が必要だった。ジーンズに足を通す。シャツに袖を通す。そして、鏡の前に立った。テンガロンハットを、ゆっくりとかぶる。サングラスをかける。その瞬間、何かが切り替わった。肩の力が抜けていく。呼吸が、深くなる。口角が、自然と上がっていく。鏡の中には、もう「齊藤照之」はいなかった。グレーのスーツを着た、無表情の会社員は、どこにもいない。

そこにいるのは、テリー・サイトー。フォトグラファー。

「よし」と小さく呟くと、カメラバッグをロッカーから取り出し、肩にかけた。このバッグには、五十万円以上する一眼レフカメラと、数本の高級レンズが入っている。すべて、カメラ学院から借りているものだ。自分で買う余裕は、まだない。

教室に入ると、生徒たちが拍手で迎えた。十五人ほどの生徒たち。二十代から六十代まで、年齢も職業もさまざまだ。主婦、会社員、定年退職した人、フリーランス。みんな、カメラが好きで、もっと上手くなりたいと思って、ここに来ている。照之の顔が、ぱっと明るくなった。
「みなさん、こんばんは!」
声が、自然と大きくなる。ここでは、誰も照之を「やる気のないおじさん」とは思っていない。ここでは、誰も照之を「デジタル音痴」とは思っていない。ここでは、照之は「尊敬される先生」なのだ。
「今日はね、多重露光のテクニックを教えるよ」
照之は、カメラを取り出した。長い指が、カメラを優雅に操る。
「これを使うと、幻想的な写真が撮れるんだ。例えば――」
と照之は、自分のポートフォリオをスクリーンに映し出した。夜明けの湖。霧の中の桜。二つの画像を重ね合わせた、幻想的な一枚。「おお……」と生徒たちから、感嘆の声が漏れる。
「露出設定はね、まずベースになる写真を……」
照之の口から専門用語が次々と溢れる。ISO感度、シャッタースピード、絞り値、ホワイトバランス。そしてPhotoshopでのレタッチテクニック——レイヤーマスク、ブレンドモード、トーンカーブ。生徒たちの目が、キラキラと輝いている。会社での照之とは、まるで別人だった。

講義が終わった後、友人のカメラマンで学院長の佐々木が声をかけてきた。
「テリー、今日もキレッキレだったな」
照之は、テンガロンハットを脱いで汗を拭いた。
「なあ、テリー」と佐々木が真剣な顔で言った。「お前、そろそろ独立しないの?」
照之は黙ったままサングラスを外すと、鋭い目で佐々木を見つめた。
「お前の腕なら、余裕で食えるぞ。俺より上手いもん」
「いや、まだ子どもも小さいし……」
その言葉を口にした瞬間、テリーの頭の中に、洋子の顔が浮かんだ。
五年以上、まともな会話をしていない妻。
「会社を辞めてカメラマンになりたい」もし、そう言ったら、洋子はどんな顔をするだろう。きっと、あの冷たい目で見るに違いない。何も言わずに、ただ、見る。そして、静かに言うだろう。
「それで、子どもたちの学費はどうするの?」
「ローンは?」
「失敗したら、どう責任取るの?」
言葉にしなくても、妻の声が聞こえてくるようだった。

「それ、いつも言ってるよな」と佐々木がテリーの肩を叩いた。
「怖いんだろ? 分かるよ、その気持ち」
テリーは、何も答えられなかった。怖い。その一言に、すべてが集約されていた。
「でもさ、いつまでそうしてるつもりだ? 六十になっても、七十になっても、『いつか』って言い続けるのか?」
その言葉が、テリーの胸に深く刺さった。
「考えとくよ」と照之は、苦笑いした。佐々木は、それ以上何も言わなかった。ただ、照之の肩をもう一度叩いて、去っていった。

ロッカールームに戻り、照之は再び着替えた。テンガロンハットを脱ぐ。サングラスを外す。ジーンズを脱いで、スーツのズボンに履き替える。シャツを脱いで、ワイシャツに袖を通す。ネクタイは締めずに、ポケットに押し込んだ。鏡の前に立つ。そこには、また「齊藤照之」が戻っていた。グレーのスーツ。無表情。疲れた顔。さっきまでの「テリー・サイトー」は、もうどこにもいない。

教室を出ると、もう夜八時を過ぎていた。
家に帰れば、妻が次男と塾の復習をしているだろう。長男は、相変わらず部屋に引きこもっているだろう。
照之は、夜の新宿を歩きながら、スマホでポートフォリオを見つめた。幻想的な風景。独特の色彩処理。自分の作品を見るたびに、誇らしい気持ちと、虚しい気持ちが混じり合う。

(これで、食えるのか……?)

その問いに、答えは出ない。照之は、スマホをポケットにしまい、電車に乗った。帰宅までの六十分。照之は、窓の外を流れる夜景を見つめながら、ずっと考えていた。電車の窓に、自分の顔が映っていた。スーツ姿の、疲れた中年男。ほんの一時間前、カメラを構えていた「テリー・サイトー」は、もうどこにもいなかった。

(俺は、どっちが本物なんだ……?)

窓の外の夜景が、ゆっくりと流れていく。照之は、目を閉じた。瞼の裏に、あの湖の光景が浮かんでいた。夜明け前の静寂。水面を覆う霧。空が青から紫へと変わっていくあの瞬間、照之は確かに「生きている」と感じた。シャッターを切る指先に、全神経が集中していた。呼吸すら忘れて、ファインダーを覗き込んでいた。あの時の自分こそが、本物だったはずだ……。照之は目を開け、窓に映る自分の顔を見つめた。

(じゃあ、今ここにいる俺は、何なんだ……?)

その問いに、答えは出なかった。電車は、夜の闘を走り続けていた。

電車の遅れもあって、自宅のある土呂の駅に着いたのは夜九時を過ぎていた。通常であれば、乗り換えなしで約四十分。単身赴任を終えて住み始めた頃はまだのんびりとした雰囲気が残っていたが、今では新築のマンションが立ち並び、一大ベッドタウンへと様変わりした。

照之は、マンションまでの道を歩きながら、コンビニに寄った。夕飯用に弁当を買う。幕の内弁当。いつもと同じものだ。レジに並びながら、照之はふと思った。いつから、これが「いつもの」になったのだろう。温かい味噌汁と、白いご飯と、その日あったことを話しながら食べる夕食。そんな「当たり前」が、いつの間にか消えていた。中東系の店員が「ありがとうございました」と言った。照之は無言で弁当の袋を受け取った。

玄関のドアを開けると、リビングから明るい声が聞こえた。

「だからね、次の模試で偏差値六〇超えたら、特別講習に入れるんだって!」

洋子の声だ。次男の慶次と一緒に、ダイニングテーブルで宿題をしているらしい。
「ただいま」と照之はリビングのドアを開けながら言った。「あ、お帰り」と洋子が顔を向けずに言った。視線は、慶次のノートに向いたままだ。「お帰りなさい」と次男の慶次もまた顔を上げずに言った。照之は、ダイニングテーブルの妻と息子から少し離れた場所に座り、弁当を開けた。幕の内弁当。冷めた白飯。茶色いおかずたち。箸を手に取った瞬間、洋子が口を開いた。

「来月から、慶次の塾、特訓コースに入れようと思うんだけど。月謝が五万上がるのよ。大丈夫よね?」

照之の胃が、きゅっと締まった。役職定年で、給料は減った。そんな状況にもお構いなしにローンは続いていく。長男の学費もある。計算するまでもない。足りないのだ。何をどうやっても、足りない。でも、「足りない」とは言えなかった。言ったところで、妻は塾を諦めない。長男の受験で「失敗した」と思っている妻にとって、次男は最後の希望なのだ。

「……うん。大丈夫」

と照之は淡々と答えた。それ以外に、何が言えるというのか。
「そう、よかった」と洋子は満足そうに頷いた。そして、また慶次の宿題に集中した。
照之は、弁当の残りを口に運んだ。味は、もう分からなかった。ふと、廊下の奥に目をやった。長男の創一郎の部屋のドアは、閉まっている。でも、隙間からかすかに光が漏れている。まだ起きているのだろう。かれこれ三カ月、学校に行っていない。照之は、箸を止めた。慶次が算数の問題を解き、洋子が赤ペンで丸をつけている。その光景を見ながら、照之は五年前のことを思い出していた。

三年前、同じテーブルで、同じことをしていた。ただ、あの時、問題を解いていたのは長男の創一郎だった。洋子が熱心に創一郎と二人三脚で受験勉強に勤しんでいた。照之も、小学四年までは算数を教えていた。息子と一緒に問題を解くのは、悪くない時間だった。だが、五年生になってからは塾通いが忙しくなり、照之の出番はなくなった。いや、違う。出番がなくなったんじゃない。照之が、自分から降りたのだ。受験勉強に没頭する妻と息子を見ていると、居心地が悪かった。照之自身は、高校も大学もスポーツ推薦で入った。まともに机に向かって勉強した経験がない。だから、中学受験の話になると、妻が心のどこかで夫の学歴に物足りなさを感じているような気がして逃げるように、自分の部屋に引きこもった。写真に没頭するようになったのも、あの頃からだ。

創一郎の第一志望は、都内の有名私立中学だった。結果は、全滅。最終的に、埼玉にある私立の中高一貫校に進学した。地域では一番の進学校で、大学進学率も高い。照之としては、十分だと思っていた。都内の私立なんて、正直、高望みだったのだ。でも、創一郎は今でも悔やんでいる。「第一志望に行けるはずだった」と。そして、洋子も。創一郎の受験が終わった後、洋子はこう言った。「慶次には、絶対にリベンジさせるんだから」リベンジ。その言葉を聞いた時、照之は何も言えなかった。(俺が、もっと関わっていれば……)そんな思いが、胸の奥でくすぶっていた。でも、それを口にすることはできなかった。もともと創一郎は活発な子だった。サッカーが好きで、週末になると近所の公園でボールを蹴っていた。だが、中学受験のために、サッカークラブを辞めた。週の大半を塾で過ごすようになり、地元の友達とも疎遠になった。

照之は、創一郎にカメラの面白さを伝えようとしたこともあった。でも、創一郎は興味を示さなかった。当然だ。受験勉強で忙しい息子に、いきなり「カメラ、面白いぞ」なんて。タイミングも、言い方も、何もかも間違っていた。父親として、何をしてやればいいのか、照之には、分からなかったのだ。
そして、中学一年の六月を過ぎたあたりから、創一郎は学校を休みがちになった。夏休みを待たずに、部屋からまったく出てこなくなった。「マインクラフト」というゲームに夢中になっているらしい。それ以来、三カ月。学校には一度も行っていない。転校も考えなければならない時期かもしれない。でも、照之には、どうしたらいいか分からなかった。いや、分からないふりをしているだけかもしれない。本当は、向き合うのが怖いのだ。

照之は、弁当を食べ終えた。廊下の奥をもう一度見た。創一郎の部屋の光は、まだ消えていなかった。
照之は、弁当の容器を片付け、自分の部屋に向かった。
部屋は、狭かった。シングルベッドと、小さなデスクと、小さなクローゼット。それだけの空間。デスクの上には、カメラが一台置いてある。照之が十年前に自分で買った、デジタル一眼レフだ。今となっては型落ちもいいところだが、手放す気にはなれなかった。
照之は、スーツを脱ぎ、部屋着に着替えた。そして、デスクの引き出しを開けた。中には、自分の作品をまとめたポートフォリオと、撮影機材のカタログが入っている。照之は、ポートフォリオをめくった。自分が撮った風景写真――夜明けの湖、霧の中に浮かぶ桜、空に広がる青紫のグラデーション。どれも、照之が「テリー・サイトー」として撮った作品だった。

(これで、食えるのか……?)

その問いが、また頭をよぎる。照之は、ポートフォリオを閉じた。そして、ベッドに横になった。天井を見つめながら、照之は考えた。洋子とは、もう三年以上、まともな会話をしていない。十年前、単身赴任から戻ってきた時は、また家族四人で暮らせることが嬉しかった。でも、夫婦関係は戻るどころか、ますます冷え込んでいった。会話は、いつも子どもの話ばかり。それも、「会話」というより「報告」と「確認」だった。塾の費用。学校の成績。模試の結果。事務的な言葉だけが、二人の間を行き交った。いつからだろう。妻の目を見て話さなくなったのは。いつからだろう。同じベッドで眠らなくなったのは。いつからだろう。この家で、自分が「いてもいなくても同じ存在」になったのは……。

会社を辞めてカメラマンとして独立する。そんな話ができるはずもなかった。「やりたいこと」カメラマンとして生きることができないまま、人生を閉じるのか。そう思うと、言い知れぬ不安が胸を締めつけた。現状を打破したい。そう思えば思うほど、どうにもできない無力感と、勇気のない自分への情けなさが押し寄せてくる。
「ちょっといい?」と妻がドアを開けて入ってきて言った。

「ねえ、いつになったらちゃんと創ちゃんと話してくれるの?」
「ああ……分かってるよ」

照之の口から出たのは、いつもの言葉だった。何度も言ってきた。何度も言って、何もしてこなかった。分かっている、分かってはいるのだ。でも、何を話せばいいのか分からないのだ。「学校、どうだ?」……行けていないのは知っている。「何か困ってることはあるか?」……そんな他人行儀な言葉で心を開いてくれるとは思えない。「父さんも、昔は……」何だ? 自分は挫折らしい挫折もしたことがない。スポーツ推薦で高校に入り、大学に入り、なんとなく就職した。息子に語れるような経験など、何もないのだ。そもそも、創一郎と最後にまともに話したのは、いつだっただろう。小学四年の頃、一緒に算数の問題を解いていた時か。いや、あれも「話した」というより「教えた」だけだ。創一郎が何を考えていたのか。何に悩んでいたのか。照之は、何も知らない。知ろうとしてこなかった。

「分かってる、分かってるって、そればっかり」と洋子が腕を組みながら言った。「あなた、最近全然家にいないし、帰ってきても疲れた顔してるし。週末も一人でどっかに出かけちゃうし。創一郎とも全然話す気なんかないじゃない」
「…仕事が忙しいんだよ」
「仕事が忙しい?」
と洋子の声が少し冷たくなった。
「もう三カ月、学校休んでるのよ。このままでいいと思ってるの? せっかく入った学校なのに……」
照之は、何も言えなかった。
「あなた、何か隠してない?」洋子の目が、照之を見つめた。
照之の心臓が、一瞬跳ねた。バレたのか? カメラ教室のこと。テリー・サイトーという、もう一人の自分のこと。毎週、会社のイベントの立ち会いがあると嘘をついて撮影旅行に出ていること。
「……隠してないよ」
「本当?」と洋子が何かを探るような目で照之を見つめた。
「……本当だよ」と言って照之は視線を逸らした。
洋子はそれ以上口を聞かずに部屋を出ていった。

(このまま、俺の人生は終わるのか……?)

答えは、出なかった。照之は、スマホを取り出し、JPC展のサイトを開いた。「第六四回 JPC展 応募要項」このページを、照之は何度も見ている。「グランプリ受賞者には、賞金 百万円と、JPS会員への推薦資格が与えられます」照之は、この賞を取れば、カメラマンとして独立する自信がつくと信じていた。グランプリを取れば、妻にも言える。「俺には、才能がある」と。でも、これまで十回応募して、入賞したのは五年前の銅賞だけ。

(今年こそ……)

照之は、応募用の写真を選び始めた。渾身の一枚——夜明けの湖、霧の中に浮かぶ桜、降り立つ鳥、幻想的な青紫のグラデーション。

(これで、グランプリを取る。そうすれば、きっと――)

照之は、スマホを置き、ベッドに横になった。隣の部屋から、創一郎のゲームの音が微かに聞こえる。ブロックを積む音。壊す音。また、積む音。照之は、目を閉じた。

(俺も、創一郎も、同じなんだ……)

どちらも、怖くて、動けない。壁一枚隔てた向こうに、息子がいる。声をかければ届く距離に、息子がいる。なのに、照之は動けなかった。いつか、この壁を越えられる日が来るのだろうか。答えは出ないまま、照之はいつの間にか眠りに落ちていた。

次の週の水曜日、照之はいつものようにカメラ教室のロッカールームで着替えていた。ネクタイを外し、テンガロンハットをかぶり、サングラスをかける。鏡の中に、「テリー・サイトー」が立っていた。会社では見せない顔。家族も知らない顔。  
教室のドアを開けたその瞬間、照之の足が止まった。生徒たちの中に、見覚えのある顔がある。営業統括本部長の安倍だ。嘘だろ…。照之の心臓が跳ね上がった。

(なんで、ここに……)

頭の中で、最悪のシナリオが駆け巡る。副業禁止。会社の規定にはっきりと書いてある。もちろん、金はもらっていない。機材を使わせてもらっているだけだ。でも、そんな言い訳が通用するだろうか。

(バレたら、どうなる? 減給? 降格? いや、最悪の場合は……)

安倍の目が、こちらを向いた。照之は、咄嗟にサングラスの位置を確認した。ちゃんとかかっている。テンガロンハットも深めに被っている。大丈夫、すぐには分からないはずだ。
照之は、深呼吸をして、笑顔を作った。

「みなさん、こんにちは。テリー・サイトーです」

声が裏返らなかったことに、内心ほっとした。

「よろしくお願いします!」生徒たちが、声を揃える。

安倍は、照之の顔をじっと見ていた。

(気づいたか……?)

照之は、内心ドキドキしながら講義を始めた。

「今日は、RAW現像のテクニックについて教えます」

照之は、自分のラップトップをプロジェクターに繋ぎ、Lightroomを立ち上げた。「まず、この写真を見てください」画面に映し出されたのは、照之が撮影した夜明けの湖の写真。まだ加工前の、地味な色彩の写真だ。「正直、このままだと『普通の写真』ですよね」照之は、生徒たちの顔を見回した。その時、背中に視線を感じた。安倍だ。さっきから、じっとこちらを見ている。

(気づいたか……?)

照之は、必死で平静を装いながら講義を続けた。背中の汗が、シャツに染みていくのが分かった。
「でも、ここからが面白いんです。さあ、よく見ててください」照之の指が、キーボードの上を動き始めた。「まず、色温度を少し下げます。青みを足すことで、夜明け前の冷たい空気感が出る」スライダーが動くたびに、写真の印象が変わっていく。「次に、露出を微調整。暗部を持ち上げすぎると霧の繊細さが失われるから、ギリギリのラインを攻めます」不思議だった。安倍がいる。バレるかもしれない。クビになるかもしれない。なのに、カメラの話をしていると、口が止まらない。言葉が、自然と溢れてくる。「そしてここからが肝心です。色相と彩度の調整です」照之の声に、熱がこもる。「空の青と、桜のピンクと、霧の白。この三つの色が喧嘩しないように、それぞれの彩度を個別に調整していく。ほら、見てください。青を少し紫寄りにシフトすると」画面の中で、空が青から青紫へとグラデーションを描き始めた。「……こうなる」生徒たちが、息を呑んだ。地味だった写真が、幻想的な世界に変貌していた。夜明け前の湖、霧の中に浮かぶ桜、そして空に広がる青紫のグラデーション。「おお……」「すごい……」「これが、RAW現像の力です」照之は、振り返って生徒たちの顔を見た。その目は、輝いていた。会社で新人に保険の説明をしている時とは、まるで別人の目だ。

「カメラで撮った写真は、料理で言えば『材料』です。どんなに新鮮な食材でも、調理の仕方で味は全然変わる。RAW現像は、その『調理』にあたるんです。大事なのは、自分が『何を伝えたいか』をはっきり持つこと。この写真で僕が伝えたかったのは、夜明け前の静寂と、その中に感じる神秘的な美しさ。だから、色も、明るさも、すべてがそれを表現するために調整してある」

生徒たちが、熱心にメモを取っている。安倍も、その中に混じって、真剣な顔でノートに何かを書き込んでいた。これが、本当の自分なのだと、照之は思った。会社にいる時の自分ではない。家にいる時の自分でもない。カメラの話をしている時だけ、照之は自分自身になれる。たとえ、それがバレる恐怖と隣り合わせだとしても。講義が終わった後、安倍が照之のところにやってきた。

「あの、先生……」安倍が、少し躊躇してから言った。「もしかして、齊藤さんですか?」
照之の心臓が止まりそうになった。

「やっぱり! 声で分かりました」と安倍が、興奮気味に言った。

「すみません、会社にはどうか内密にお願いします……」と照之がサングラスを外しながら言った。「これは副業と呼べるほどのものでもなくて、お金もらっていませんし……」

「だったら、問題ないですよ」と安倍が笑顔で言った。

「それより、齊藤さん、すごいじゃないですか! こんなスキル持ってたんですね!」

「ほんと、会社にだけは……」

「言いませんよ、そんなこと」と安倍が手を振った。

「それより、齊藤さんの作品見せてもらえませんか?」

照之は、スマホを取り出し、自分のポートフォリオを見せた。幻想的な風景、独特の色彩処理――プロ顔負けの写真たち。
「……これ、全部齊藤さんが?」とスマホの画面を切り替えながら安倍が息を呑んだ。

「すごい…本当に、プロみたいですね」

安倍の目が、尊敬の色に変わっていた。

「齊藤さん、いや、テリー先生。これからも、ぜひ教えてください」

照之は、初めて安倍に対して好感を抱いた。

翌週の月曜日、照之が廊下を歩いていると、安倍とすれ違った。安倍は、照之のほうを向いて、わざとらしくシャッターを切る素振りをした。「カシャ!」そして、ニヤリと笑った。照之は、思わず笑ってしまった。会社で笑うなんて、いつ以来だろう。

(まさか、あいつがこんなふうになるとは……)

先週まで、安倍のことが嫌いだった。「デジタル音痴」扱いしてくる、嫌味な役員。「生成AI研修に出ろ」としつこく言ってくる、点数稼ぎの上司。でも、今は――少し違う気持ちがあった。安倍は、照之の「もう一つの顔」を知っている。そして、それを認めてくれた。「すごい」と言ってくれた。「プロみたい」と言ってくれた。会社の中に、自分の本当の姿を知っている人間がいる。それだけで息がしやすくなった気がした。

それから、安倍は会社で照之を「大先生」と呼ぶようになった。他の社員は、何のことか分からず首を傾げていたが、照之と安倍は、二人だけの秘密を共有していた。照之は、廊下を歩きながら思った。

(悪くない……)

会社員の齊藤照之と、フォトグラファーのテリー・サイトー。二つの顔を持つことは、ずっと後ろめたかった。でも、安倍に知られたことで、少しだけ、その境界線が曖昧になった気がした。

数日後の午後、照之は研修室で新人セールスレディに保険の基礎を教えていた。

「では、この商品の特徴をもう一度復習しましょう」

照之が、ホワイトボードに図を書き始めた時、スマホが震えた。照之は、スマホを見た。カメラ教室の学長、佐々木からのメールだった。

『今、JPS展の審査会場にいるんだが、お前の作品がグランプリに内定したぞ』

照之は、画面を見つめた。一度読んで、もう一度読んだ。間違いない。

グランプリ。

一等賞。

日本一。

照之の視界が滲んだ。十年間。毎年、締め切りが近づくたびに、渾身の一枚を選んだ。封筒に入れる時、手が震えた。ポストに投函する時、祈るような気持ちだった。結果は、いつも同じだった。

落選。

落選。

落選。

五年前に銅賞を取った時は嬉しかったが、それ以降はまた落選の連続だった。

(俺には才能がないのかもしれない)

何度、そう思ったか分からない。何度、諦めようと思ったか分からない。でも、諦められなかった。諦めたら、自分には何も残らない気がした。会社では「やる気のないおじさん」。家では「存在感のない父親」。カメラだけが、自分が自分でいられる唯一の場所だった。その十年間が、報われた。

照之は、机の下で、拳を握りしめた。

(やった……)

声を出したかった。叫びたかった。でも、ここは研修室だ。新人たちが、真剣な顔でモニターを見つめている。照之は、静かに、誰にも気づかれないように、小さくガッツポーズをした。目頭が、熱くなった。五十二年間、生きてきてこんなに嬉しいことがあっただろうか。グランプリ。賞金は、百万円。JPC会員への推薦資格。でも、そんなことより……。これで、胸を張れることが嬉しかった。「趣味でしょ」と言われ続けてきた。「そんな暇があるなら」と言われ続けてきた。

でも、もう違う。

グランプリを取った。

日本一になった。

これは、「趣味」じゃない。「本気」の証明だ。

照之は、研修を早めに切り上げた。

「今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした」
「え? まだ時間が……」
「復習は、各自でお願いします」

照之は、そう言ってそそくさと研修ルームを後にした。

照之は定時より少し前にオフィスを出て真っ直ぐ家に帰った。電車の中で、照之は何度もスマホを開いては、佐々木からのメールを読み返した。『お前の作品がグランプリに内定したぞ』何度読んでも、信じられなかった。でも、本当だ。照之は、窓の外を流れる景色を見つめながら、妻に報告する場面を想像した。
「実は、写真の展覧会で賞を取ったんだ。グランプリ。一等賞だよ」
妻は、どんな顔をするだろう。驚くだろうか。目を丸くして、「嘘でしょ?」と言うだろうか。そして、喜んでくれるだろうか。「すごいじゃない、あなた」そう言って、笑ってくれるだろうか。あの頃のように。結婚したばかりの頃、照之が会社で小さな表彰を受けた時、洋子は手を叩いて喜んでくれた。「私の旦那さん、すごい」と、誇らしげに言ってくれた。あの笑顔を、もう一度見たい。もう一度、妻に認めてもらいたい。
「カメラマンとして、独立したいんだ」
グランプリを取った。日本一になった。これなら、妻も耳を傾けてくれるはずだ。「グランプリを取るくらいの腕があるなら」と、認めてくれるはずだ。照之の胸が、期待で高鳴った。十年間、いや、もっと前から、ずっと待っていた瞬間だ。

ドアを開けると、いつものようにリビングから洋子と慶次の声が聞こえる。

「ただいま」

と照之の喉から思わず明るい声が出た。

「あ、お帰り。早いわね」洋子が顔を上げた。

照之は深呼吸をした。

「ちょっと、話がある」と照之はリビングに入るなり言った。

「話?」と洋子が怪訝そうな顔で照之を見た。照之は、妻の目を見つめた。そして、笑顔で言った。

「実は、写真の展覧会で賞を取ったんだ。グランプリ。一等賞だよ」

洋子は、一瞬驚いた顔をした。

「……へえ、すごいじゃない」

でも、その表情はすぐに冷めた。

「で、賞金っていくら出るの?」

照之の笑顔が固まった。

(……賞金?)

照之の頭が一瞬真っ白になった。

「……三十万」

咄嗟に嘘をついた。本当は、百万円だ。

「三十万? それ、いつもらえるの?」

「来月、かな」

「そう」と洋子は少し考えてから言った。

「ちょうどよかったわ。慶次がね、次の冬季講習で特進クラスに入れそうなの。結構かかるからどうしようかと思ってたんだけど、よかったぁ。ね、慶ちゃん、頑張った甲斐があったわぁ」

慶次が妻の猫撫で声に満足そうに微笑んだ。照之は、何も言えなかった。

「でも」と洋子が照之の方に振り返って言った。

「それって、応募するのにいくらかかったの?」

「……二万くらい」

「二万?」と洋子が眉をひそめた。

「来年にかけて塾費も高くなるの。これからはそんな応募は一切やめてよね。どうせ賞なんて毎年取れるものじゃないんでしょ」

洋子は慶次の宿題に目を戻しながら言った。

「この子にだけは失敗してほしくないのよ。別にあなたに協力してほしいとは思わないけど、邪魔だけはしないでくれる?」

(邪魔?)

その言葉が、照之の胸に突き刺さった。リビングが、静かになった。慶次が鉛筆を動かす音だけが、かすかに聞こえる。照之は妻の横顔を見た。慶次の宿題を丸つけしている。さっきまでと同じ顔。照之がグランプリを取ったことなど、もう頭の片隅にもないのだろう。十年間、応募し続けた。十回、落選し続けた。それでも諦めずに、やっとグランプリを取った。

それが、「邪魔」。

照之は、自分の手を見た。震えていた。怒りなのか。悲しみなのか。自分でも分からなかった。ただ、一つだけ分かったことがある。

(この人は、俺を見ていない)

十年前も、五年前も、今日も。俺という人間を、一度も見たことがない。

照之の中で、何かが音を立てて崩れた。思えば、ずっと我慢してきた。妻が中学受験に没頭しても、「子どものためだから」と我慢した。夫婦の会話が子どもの話ばかりになっても、「仕方ない」と我慢した。写真を「趣味」と呼ばれても、「いつか認めてもらえる」と我慢した。セックスレスになっても、「お互い疲れてるから」と我慢した。五年間、まともな会話もなく、同じ屋根の下で他人のように暮らしてきた。それでも、「家族だから」と自分に言い聞かせてきた。

でも、「邪魔」とは。グランプリを取った夫に向かって、「邪魔だけはしないで」とは。その瞬間、照之の中で、何かが静かに消えた。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ、空っぽになった。妻を愛していたのか、もう分からない。いつから愛していなかったのかも、分からない。でも、今この瞬間、確かに、何かが終わった。

照之は、自分の部屋に入り、静かにドアを閉めた。部屋に入ると、照之はベッドに座り込んだ。グランプリを取った喜びは、もうどこにもなかった。代わりに、虚しさだけが残った。照之は、左手の薬指を見た。結婚指輪。二十三年前、洋子と交換した指輪。あの頃は、信じていた。この人と、一生を共にするのだと。この人が、自分を一番理解してくれる人なのだと。

(いつから、こうなったのだろう)

照之は、指輪を外した。手のひらの上で、小さな金属の輪が、部屋の明かりを反射している。

軽い。

こんなに軽かっただろうか。二十三年間、ずっと指にはめていた。重さなど、感じたことがなかった。なのに、今、手のひらの上にあるこの指輪は、驚くほど、軽かった。そして、照之は、指輪をデスクの引き出しの奥にしまった。



野澤です。

……ここで切るなんて、残酷すぎる。

そう思いましたか? ええ、僕もそう思います。書いていて、本当に胸が締め付けられました。

齊藤照之は、なぜこんなにも苦しまなければならなかったのでしょうか。

それは彼が、「グランプリ」という他人の評価(他人軸)の力を使って、妻の愛や自分の居場所を取り戻そうとしてしまったから。

自分が「本当にやりたいこと」を、誰かに認めてもらうための道具にしてしまった。だから、それが通用しなかった時、彼は自分の人生そのものが無価値に思えて、23年間はめていた結婚指輪を外してしまったんです。

ここから、彼はどうやって立ち直るのか。

この後、彼は銀座の路地裏にある不思議な「BAR ライフシフト」に迷い込み、ある「魔法の言葉」を手に入れます。

そして、会社員としての自分を捨てるのではなく、ほんの少しの「プチ転生」をすることで、引きこもっていた息子との絆を取り戻し、冷え切っていた妻との関係を劇的に変えていくことになります。

彼がどうやって生まれ変わり、静かで熱い「青い炎」を燃やし始めたのか。

この続きと結末は、ぜひ書籍の『もし人生にいきづまったら 人生をシフトして、やりたいことを実現する12の方法』(アスコム刊)で確かめてみてください!

作者の僕がいうのもなんですが、毎回、読み返すたびに泣いてます。しかも、毎回違うところで。

小説の舞台は、東京・銀座にある不思議なバー「ライフシフト」。

そこで、とある不思議な儀式をすると、
肩書きや役割に縛られた今の自分がふっとほどけて、
心の奥に眠っていた願いや、
これから進むべき道のヒントが見えてくる──。
そんなファンタジー仕立ての物語です。

登場するのは、人生の折り返し地点で
いきづまってしまった3人のミドルシニアたち。

「自分の人生、このままでいいのだろうか」

「会社を辞めて好きなことを仕事にしていきたい!
 でも、その勇気がどうしても出ない・・」

「定年したあと、やりたいことが見つからない…」

仕事、家族、老い、不安、才能、再出発。
人生の折り返し地点で立ち止まった人たちが、
もう一度「自分に戻る」までを描きながら、
人生をシフトして、やりたいことを実現する
12の方法を物語として届けます。

なぜ小説なのか?
ビジネス書のように理屈で説明するより、
物語で味わってもらったほうが、
きっと心に残ると思ったんです。

軽く読めて、
深く頷き、
不思議と泣ける。

いきづまった、その先にこそ、
本当に実現したい未来は広がっている。

そう信じて書いた一冊です。

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もちろんうれしいですが、
本屋さんがテーマにもなっているので、
本屋さんで買っていただけると、
めちゃくちゃうれしいです!!

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そしてさらに

【「会って話しませんか?」お知らせと招待状です。】

そして、この出版を記念して、皆さんと直接対話するためのトークイベントを開催します。
本のなかでは書ききれなかった「ことばの奥にある想い」を語るのはもちろんですが、ただ僕の話を聞いて終わるような会にするつもりはありません。

当日は、この物語のなかで齊藤照之が体験する、あの「〇〇を破る」ワークショップを、参加者の皆さんと一緒にやります。

自分がずっと執着していた「肩書き」や「見栄」を破り捨てて、新しい自分に出会う。

これを一人きりの部屋で悶々とやるのは怖いし、寂しいです。だから僕と一緒に、そして同じ悩みを持つ会場の仲間と一緒にやりましょう。

手を動かし、声に出して、今まで見えてこなかった「本当の自分」に直接会いに行く。そんな時間を共有できたら嬉しいです。

会場(東京・代官山周辺)でのリアル参加に加えて、オンライン参加もご用意しました。各回ごとの参加も、両日の参加も大歓迎です。

【開催概要】
◆ 「自分軸」の見つけ方
~他人軸症候群から抜け出して「本当にやりたいこと」を見つける方法~
日時:2026年7月28日(火)19:00〜20:30(※終了後、懇親会あり)
★自分のやりたいことの輪郭を見つけていきます。
※会場は東京・代官山周辺を予定。確定し次第、参加者にメールにてお知らせします。

【参加費】
トークイベント&ワークショップ:無料(会場・オンラインとも)
懇親会:各回2,000円(※会場参加の方のみ・当日受付払い)

▼ お申し込みはこちらのフォームからお願いします ▼
https://forms.gle/MXHM9JgzErgTqTgH8

あなたと一緒に一歩を踏み出せることを、心から楽しみに待っています!


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