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335.ねえ、どうして人って、人を見下すの?それも、やめてください!

1. 人と違うことが、不幸だという教え


567で世の中の様相を一変してしまったね。

なかでも大きな変化は、「偏見と差別」かもしれない。
人々は見えないもの、見えないことに怯え、恐れ。
これが本来の人間の本性なのかもしれないけど、生命の危機を覚えると「我先に、助かりたい」「死にたくない」「生きたい」という生存本能が働いてしまうのかも。
それだけ人は死に対する恐れ、不安とともに見えないという妄想によって人格まで変貌することがわかる。

でも、「偏見や差別」というものはどこから生まれるの?
わたしは人を差別したことはない、という人はたくさんいるようだけれど、567のなかで、その言葉を堂々と唱える者は少なく感じるcoucouさん。
 
「偏見や差別」の対象とされるのはどちらかというと「マィノリティ(少数派)」と呼ばれるものたちが選ばれる可能性が高い。

日本人の特性でもあるのかもしれないけど、「多数派は正しい」という考え方が浸透しているからだね。
多数派は安心、安全な存在位置だと考えている。

皆と同じである、皆と同じであることが安心、人と違う考えや生き方には不安を覚えてしまうんだね。

人は、「平凡」「普通」に安堵感を持つのかな。
また、多数派の中において自動的に優越感を感じるものも多く、少数派を低く見てしまい、差別することでも安堵感を持つ人たちもいる。
 
人は日々の生活や仕事の中で、自分でも気が付かないあらゆる場面で偏見や差別が生まれていることに気付いている人は少ないかもしれないね。

たとえば、
「まだ、独身なの?」
「どうして結婚しないの?」
「どうして離婚したの?」
「お子さんは何人?」
「お孫さんは?」
「仕事していないの?」
「一人暮らしは寂しくない?」
「接種、どうしてしないの?」
など、一見普通の会話のようだけどよく聞く言葉だよね。

そんな人のことなど、どうでもいい~
心から思っていないのならね~

人は相手に興味があるから質問や疑問を持つのだろうけど、逆に考えてみれば随分と失礼な言葉だよね。

(これって、全部、上から目線なんだよ!)

人は誰にでも何かしらの事情と理由があるわけだから、独身の理由もあれば結婚しない理由、離婚した事情、子供ができない事情、一人暮らしの理由があって当たり前、まるで悪者みたいな言い方、失礼千万だ。

接種だって身体の問題もあれば、打ちたくない人もいるように、人にはそれぞれの理由や事情がある。
特に、お子さんができない人に「お子さんは何人?」などと相手のことを知らないのに質問する人などは失礼な人だよね。

coucouさんの友人の女性はね、子どもが大好きで欲しくて、欲しくて仕方がないのにどうしてもできなかった。
そのことで、夫にも両親にもすまないといつも考えている。

これだって、おかしいんだよ~

子どもがいるから幸せで、いなければ不幸なことなんてないけれど、周りに言われ続けると、自分が悪いように感じてしまう。
このようにプライベートなことは、注意して考えて話すことだ。

人の心って、簡単に傷ついてしまうんだよ。

確かに子どもがいると、その成長を見ているだけで幸せなことかもしれないよね。
だからといって、いない人は不幸だと決めつけろのはおかしい!
さらに、子どもがいないということだけで同情をし、その相手を可哀そうだと見下す。そしてそのことで優越感を覚える人もいるんだから、ふざけた話だよね。
 
このように「人と違うことは、人より不幸だ」と感じてしまう、感じさせている。

不思議な現実だね。

孫のいない人、できない人の前で「孫自慢」をする人。
「家自慢」「車自慢」「旅行自慢」「幸せ自慢」する人たちも同じ。
でもね、「感謝」と「自慢」は違うよ。

感謝の気持ちを持つ人は、人を傷つけたりしないけれど、「自慢」は相手を傷つける場合があるんだよ。

だからね、プライベートのことは、
自分のことでも相手のことでも注意か必要なんだよ。
 
社会心理学では、これらのことを、「ステレオタイプ(固定観念)」と呼び、偏見、差別は、それぞれに定義があるという。

まず「ステレオタイプ(固定観念)」とは、
「ある集団に属する人々に対して、特定の性格や資質をみんなが持っているように見えたり、信じたりする認知的な傾向」のこと。

「偏見」は、
「そのステレオタイプに好感、憧憬、嫌悪、軽蔑といった感情を伴ったもの」。
そして差別は、
「ステレオタイプや偏見を根拠に接近・回避などの行動として現れたもの」としていうらしい。

このように社会心理学では、一個人の先入観ではなく、何らかの社会集団(多数派)によって生じる偏見や差別が起きているという。
つまり、周りの環境などに、
簡単に影響を受けてしまうことといえるかもしれない。

©NPО japan copyright association Hiroaki


2. 人を見下す人々


でもね、どうして人は人を見下すの?

幼い子どもたちに接することは、見下すことにはならないけれど、身体の不自由なお年寄りに対してきつい言葉や、怒鳴り声を出し、人は自分と同じでないことに対して違和感として感じ、そのことで人を見下す場合がある。

このことを相手を見下すことによって、
人は「自己肯定感」を高めているのだという。
 
残念ながら、人間社会においては、それでも偏見や差別が生まれてしまっているんだね。

でも、どうしてなの?

coucouさんの場合、子どもの頃から病気のためか、性格なのか、ずいぶんと差別と偏見を受けてきたためか、いまだに神経質となっている。

(その体験のせいかもしれないけれどcoucouさんはね、そんな真似しないよ、絶対にね!)
 
東洋大学社会学部 教授北村 英哉(きたむら ひでや)氏によると、このような現象を次のように説明していた。

「簡潔に言うと、『人には自分が有利になりたい、偉くなりたい』という心理があるからです。心理学用語では『自尊心』、今のはやり言葉だと『自己肯定感』とも言い換えられます。たとえば、自己肯定感が低い人が、違うタイプの人をけなして、自分のほうが上だと思うことで、相対的に自己肯定感を補うのが一般的なケースといえます」という。

う~ん、たしかに~
 
社会心理学では、このことに対して人は「敵」「味方」区別し、自分にとっての「味方」と「敵」を分ける心理が働き、その相手によって偏見や差別をしてしまうという。
日本人は他国に比べて偏見や差別は少ないともいわれているけど、現在の567の状況と歴史の中では日本も同じかもしれないね。
 
偏見や差別の対象は、主にマイノリティ(少数派)に目を向けられる。
 
北村 英哉教授は、このことを、
「日本は諸外国と比べても、自分たちが社会の中で『普通』の存在だと考えることで安心感を得る人が多い傾向があります。障害者問題、性的マイノリティー問題、民族差別の問題においても、偏見や差別を持つ側がマジョリティーであることに安堵感を抱き、日々の生活を送っています」

う~ん、これも、たしかに~

確かに、民主主義国だといわれている日本は、すべて多数決の原理が働いており、あらゆる意見は多数決で決められ、多数決は正しいという基準において、少数派の考えや意見は黙殺されてしまう構造だよね。
そのため、人格的、人権的なものが簡単に侵害されており、まさに不公平な社会となっていることは事実だ。
本来はそのようにしないためにも、マイノリティ等の存在を認め、
配慮が必要だと思うcoucouさんだ。


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3.  マイノリティと呼ばれる人々

おそらく、「偏見や差別」をこの世からなくすことは不可能だろうね。
だから、仕方のないことかもしれない。

でもね、少数派と呼ばれるマイノリティの人々が、互いに手を結び、力を合わせることによって、この問題を軽減することができるはずさ。
 
また、多数派と呼ばれる人たちの共通点は「物事に対しての考えが浅く」、自らが真実を見極めようと考え、調べようとはしない。

(まさに567と同じだね!)

それは多数派に従って生きることは考える必要もなけれど、このほうが、何よりも楽だからね。
それだけ疑い深くない、といえるのかもしれないけど、「あの時にこうしておけば良かった、ああすれば良かった」などと後で振り返ると後悔する場合が多いことがわかる。
 
世の中は、これだけ情報が発達して何でも知ることのできる時代になったわりに、その大切な情報を調べたり、比較したり、それをもとに自分の考えをまとめ、自分で判断するのが面倒くさくなってしまったようだ。

そのため、自動的に垂れ流されるマスメディアを簡単に信じ込み、誰もがあり得ないという「オレオレ詐欺」などはその典型的なものかもしない。

オレオレ詐欺を馬鹿にしても、次から次へと、形の違うオレオレ詐欺を実際には見破ることができないかもしれない。

すると、誰もが何かしらの間違った情報に振り回されて生き続けるのさ。


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coucouさんです。
みなさん、ごきげんよう!

最近、coucouさんね、こんなこと考えているんだ!

それはね、どうして人は簡単に変わってしまうのだろう、ってこと。

人は生まれや、育ち、環境や教育、人間関係によってさまざまな影響を受けながら変化、変化し続けていることはわかるんだ。

それにね、変わることは何も悪くはないけれど、
良く変わる場合と、悪く変わる場合があるよね。

coucouさんは永遠のフリーランスだから、少しばかり理解しにくいことだけど、この人間社会を離れて見ていると、簡単に人が変わることを感じるようになったんだ。

でも、coucouさんにはどうしても理解できない。

それはね、「人は肩書で動かされる」ってことなんだ。
もし、「人は肩書で動いている」としたら、〈肩書が、その人の生き方や人生が決定してしまう〉ということになるよね。

それに、肩書の欲しい人が物凄く多いことを感じるようになった。
たしかに、係長から課長、部長に昇進すればそれは認められたことだから凄いことだし、給料も上がる、だから何も悪いことじゃあないよね。

でもね、coucouさんなんて、誰も肩書をつけてくれないから自分で名刺に「社長」とか「代表」「代表取締役」なんて勝手に入れているけれど、実際の組織内では上部からの指令がなければ勝手に肩書を名乗ることなんてできない。

coucouさんがここで言いたいことは、
肩書が悪いことではなくて、
「肩書によって、その人の人格が変わる」ことに違和感を感じるんだ。

例えば、平社員の時代に、さんざん上司に威張られて、怒られて、いつも頭を下げていた者が、課長になり部長になったとたんに人が変わる。

そして、部下に対して威張り、怒り、頭を下げさせる。

…何かおかしい~

だってね、平社員の時にあれだけ嫌な思いをして、十分に反面教師として学んできたはずなのに、あの時の上司と同じ考え方と振る舞いをするようになる?

みんなが、みんなそうではないと思うのだけれどね。

でも、残念ながら肩書でその人の人格が変わってしまう。
なかには、課長、部長、さらに専務となっても当時と変わらない温厚な人たちもいることは知っている。

でも、あまりにも少ない。

これでは、社内でのいじめやパワハラなんてなくなるわけがないよね。

ね~どうして、そんなに威張るの?

威張ることは悪いことではないけれど、部下や外部の働きさんたちに対して威張ったってまるで意味がないことがわからない?

彼らはあなたの変化を良く見ているよ!

威張るっていうのはね、coucouさんの持論なんだけれど、「戦略的に物事を有利に運ぶ」「必要として」「闘う」ときだけでいい。

特に経済が絡む人間社会においてね。

会社員だって、行政マンだって、みんな働きさんたち。
給料をいただいているということは商取引、経済行為なわけなのだから、自分の組織内で無意味に威張ることはマイナスだということがわからないんだね。

人はね、温かさや優しさについていくんだよ!

肩書に振り回されるかもしれないけど、
その肩書ではなくて、その人、その人間についていくのだからね。

威張っている人たち、勘違いしないで下さいね。

そう、人を見下さないでください~

もう、やめなさい~

もしかすると、あなたは裸の王様なんだよ!


今日も、最後まで読んでくれて、


みんな~

ありがとう~


うれしき~




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