あの人が言わなかったことばかり、覚えている
「あのとき、私、本当は嫌だったの」
「あなたが心配してくれたのは分かってた。でも、心配されるたびに、私は心配される人になっていった」
西日が店の奥まで届いていた。キッチンから食器の重なる音がした。窓の外を、日傘を差した人が通り過ぎていく。わたしは何も言えなかった。
「あなたは、私のことをよく分かってるつもりだったでしょう。私が笑えば、無理をしてると思った。黙っていれば、傷ついてると思った。何をしても、あなたの中では、理由が最初から決まってた」
「ごめん」とだけ言った。
「何に謝ってるの」あの人が顔を上げた。
「あなたが見ていたのは、私じゃなかった」
◇
あの人は、いない。
部屋の窓を、雨が叩いていた。コーヒーは冷めている。深夜一時を過ぎた部屋に、スマートフォンの白い光だけが浮いていた。
画面の中のあの人は話し続けた。
「あなたが理解できる形にした、私だった」
◇
あの人と最後に会ったのは、二〇一七年の秋だった。日が傾く頃に会って、別れたときには街が暮れていた。
次の約束は決まらなかった。
そのまま、九年が過ぎた。
◇
あの人は、わたしの頭の中ではよく話した。
「あのとき、私、本当はね」
いつもそう始まった。その先に続く言葉を、わたしはいくらでも書くことができた。嫌だった、分かってほしかった、あなたは私を分かっていなかった。どの言葉も、書けば書くほど、あの人の声に聞こえた。
あの人が残さなかった長い会話を、わたしは頭の中で何度も続けていた。
そうして、あの人に、何千もの言葉を言わせた。
◇
「私が何を嫌だったのか、まだ私から聞いてないでしょう」
その通りだった。
わたしは、あの人から何も聞いていなかった。
やり取りは消していなかった。ときどき開いていた。見ていたのは、残っている言葉ではない。最後のメッセージの下の、増えない空白ばかりを見ていた。
検索欄に「嫌」と入れた。出てこない。
「心配」は二件。一件はわたしがあの人の体調を尋ねた文章で、もう一件もわたしが書いたものだった。
探した言葉を、あの人は一度も書いていなかった。
いちばん下に残っているのは、
〈わかった〉
スタンプも、絵文字もついていない。
わたしはこの短いメッセージを、長いこと拒絶のように覚えていた。もう話すことはない、これで終わり、好きにすればいい。頭の中のあの人はいくらでも「わかった」の続きを話した。
そのひとつ上で、目が止まった。
〈ごめん、いまちょっと余裕がないんだ。落ち着いたら、こっちから連絡するから、待っててほしい〉
送ったのは、わたしだった。
しばらく、画面を見ていた。一度閉じて、開き直した。文面は変わらなかった。「いや、でも、あの人だってその後連絡をくれなかった」と頭の中で言った。「待っててほしいなんて、社交辞令みたいなものだ」とも。けれど、画面の中の自分の文面は、社交辞令には見えなかった。落ち着いたら、こっちから連絡する、と書いていた。
次に連絡すると言ったのは、わたしだった。
しなかったのも、わたしだった。
◇
店の名前と日付が残っていた。秋として覚えていた最後の日は、記録の中では五月にあった。
午前三時を過ぎていた。
店の住所を地図に入れた。始発の時刻を調べた。着替えて家を出た。
始発に乗り、麹町で降りた頃には、空が白み始めていた。店は、そこにあった。開店前のガラス扉の向こうで、椅子がテーブルの上に上げられていた。
ここで最後に会ったはずだった。
看板を見ても、窓の中を覗いても、何も戻ってこなかった。
西日も、その光の中にいたあの人も。
◇
店の前のベンチに座り、何年もやり取りの止まっている画面を、また開く。
〈久しぶり。待っててほしいと言ったまま、九年が経ちました〉
そこまで書いて、止まった。
謝ろうとした。あなたを傷つけた、あなたの気持ちを分かっていなかった、わたしが連絡しなかった。けれど、それもまた、相手の役を先に決める言葉だった。あの人が傷ついていたかどうか、わたしには分からない。何とも思っていないのかもしれない。
書きかけた一行を消した。
もう一度書こうとして、書けなかった。〈久しぶり〉だけでも書けたかもしれない。けれど、それを送った先で、あの人が何かを返してくれたら、わたしはまた、返ってきた言葉の意味を勝手に決めてしまう気がした。
返事が短ければ、迷惑だったのだと思う。返事がなければ、もう許されていないと思う。
どれを受け取っても、わたしはまた、あの人の声を、わたしの声で作り直す。
入力欄を空のまま閉じた。スマートフォンを握ったまま、しばらくベンチに座っていた。画面が暗くなり、ガラスに自分の顔が映った。
◇
改札を抜け、ホームに下りる。ホームの先の空洞から、風が押し出されてくる。電車が入ってくる。
頭の中のあの人が、また話しはじめた。
「あのとき、私、本当はね」
あの人が本当は何を思っていたのか、わたしには分からない。
分からないまま、有楽町線に乗り込む。
