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あの人が言わなかったことばかり、覚えている

「あのとき、私、本当は嫌だったの」

「あなたが心配してくれたのは分かってた。でも、心配されるたびに、私は心配される人になっていった」

西日が店の奥まで届いていた。キッチンから食器の重なる音がした。窓の外を、日傘を差した人が通り過ぎていく。わたしは何も言えなかった。

「あなたは、私のことをよく分かってるつもりだったでしょう。私が笑えば、無理をしてると思った。黙っていれば、傷ついてると思った。何をしても、あなたの中では、理由が最初から決まってた」

「ごめん」とだけ言った。

「何に謝ってるの」あの人が顔を上げた。

「あなたが見ていたのは、私じゃなかった」

あの人は、いない。

部屋の窓を、雨が叩いていた。コーヒーは冷めている。深夜一時を過ぎた部屋に、スマートフォンの白い光だけが浮いていた。

画面の中のあの人は話し続けた。

「あなたが理解できる形にした、私だった」

あの人と最後に会ったのは、二〇一七年の秋だった。日が傾く頃に会って、別れたときには街が暮れていた。

次の約束は決まらなかった。

そのまま、九年が過ぎた。

あの人は、わたしの頭の中ではよく話した。

「あのとき、私、本当はね」

いつもそう始まった。その先に続く言葉を、わたしはいくらでも書くことができた。嫌だった、分かってほしかった、あなたは私を分かっていなかった。どの言葉も、書けば書くほど、あの人の声に聞こえた。

あの人が残さなかった長い会話を、わたしは頭の中で何度も続けていた。

そうして、あの人に、何千もの言葉を言わせた。

「私が何を嫌だったのか、まだ私から聞いてないでしょう」

その通りだった。

わたしは、あの人から何も聞いていなかった。

やり取りは消していなかった。ときどき開いていた。見ていたのは、残っている言葉ではない。最後のメッセージの下の、増えない空白ばかりを見ていた。

検索欄に「嫌」と入れた。出てこない。

「心配」は二件。一件はわたしがあの人の体調を尋ねた文章で、もう一件もわたしが書いたものだった。

探した言葉を、あの人は一度も書いていなかった。

いちばん下に残っているのは、

〈わかった〉

スタンプも、絵文字もついていない。

わたしはこの短いメッセージを、長いこと拒絶のように覚えていた。もう話すことはない、これで終わり、好きにすればいい。頭の中のあの人はいくらでも「わかった」の続きを話した。

そのひとつ上で、目が止まった。

〈ごめん、いまちょっと余裕がないんだ。落ち着いたら、こっちから連絡するから、待っててほしい〉

送ったのは、わたしだった。

しばらく、画面を見ていた。一度閉じて、開き直した。文面は変わらなかった。「いや、でも、あの人だってその後連絡をくれなかった」と頭の中で言った。「待っててほしいなんて、社交辞令みたいなものだ」とも。けれど、画面の中の自分の文面は、社交辞令には見えなかった。落ち着いたら、こっちから連絡する、と書いていた。

次に連絡すると言ったのは、わたしだった。

しなかったのも、わたしだった。

店の名前と日付が残っていた。秋として覚えていた最後の日は、記録の中では五月にあった。

午前三時を過ぎていた。

店の住所を地図に入れた。始発の時刻を調べた。着替えて家を出た。

始発に乗り、麹町で降りた頃には、空が白み始めていた。店は、そこにあった。開店前のガラス扉の向こうで、椅子がテーブルの上に上げられていた。

ここで最後に会ったはずだった。

看板を見ても、窓の中を覗いても、何も戻ってこなかった。

西日も、その光の中にいたあの人も。

店の前のベンチに座り、何年もやり取りの止まっている画面を、また開く。

〈久しぶり。待っててほしいと言ったまま、九年が経ちました〉

そこまで書いて、止まった。

謝ろうとした。あなたを傷つけた、あなたの気持ちを分かっていなかった、わたしが連絡しなかった。けれど、それもまた、相手の役を先に決める言葉だった。あの人が傷ついていたかどうか、わたしには分からない。何とも思っていないのかもしれない。

書きかけた一行を消した。

もう一度書こうとして、書けなかった。〈久しぶり〉だけでも書けたかもしれない。けれど、それを送った先で、あの人が何かを返してくれたら、わたしはまた、返ってきた言葉の意味を勝手に決めてしまう気がした。

返事が短ければ、迷惑だったのだと思う。返事がなければ、もう許されていないと思う。

どれを受け取っても、わたしはまた、あの人の声を、わたしの声で作り直す。

入力欄を空のまま閉じた。スマートフォンを握ったまま、しばらくベンチに座っていた。画面が暗くなり、ガラスに自分の顔が映った。

改札を抜け、ホームに下りる。ホームの先の空洞から、風が押し出されてくる。電車が入ってくる。

頭の中のあの人が、また話しはじめた。

「あのとき、私、本当はね」

あの人が本当は何を思っていたのか、わたしには分からない。

分からないまま、有楽町線に乗り込む。



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