iPadを娘に略奪され、ネズミの無限ループで脳を破壊された話。
「タブレット育児って便利ですよね!良質な知育アニメを見せている間に、親も美味しいコーヒーを淹れて自分のリラックスタイムを満喫しちゃいましょう!」
うるせえよ。
満喫などできるものか。親の脳髄がポップで狂気的な色彩と甲高い裏声によって完全に粉砕され、ドロドロに溶かされているだけだ。
世間の意識高い系育児コンサルタントは、タブレットを「親の救世主」だの「デジタル時代の有能なシッター」だのと持て囃している。だが、現場で泥水をすするしがない限界マイホームパパの現実は違う。
私がお小遣いを何ヶ月も切り詰め、昼食を特売のカップ麺で凌いでようやく手に入れた、高価でスタイリッシュなiPad。本来なら深夜に大人の海外ドラマを一気見したり、電子書籍で漫画を読んだりするはずだった私のささやかなオアシス。
それは今や、三歳の娘に完全に略奪され、ただひたすらに特定のネズミを映し出すだけの専用端末へと成り下がっている。最新のプロセッサと美麗なディスプレイは、娘のヨダレと手垢でベタベタにコーティングされながら、ディズニープラスで配信されている『ミッキーマウスクラブハウス』を永遠と再生し続けるための板と化しているのだ。
休日の朝、まだ泥のように眠っていたい私の耳元で、容赦のない甲高い声が響き渡る。「ミースカ、ムースカ、ミッキーマウス!」
邪悪な召喚呪文である。
この謎の合言葉と共に、毒々しいまでにカラフルなクラブハウスが地面からボコンボコンと生えてくる。これが現代の拷問の始まりだ。この番組の恐ろしいところは、ただのアニメではなく「視聴者参加型」という狂気のシステムを採用している点である。
ミッキーは画面の向こう側から、疲労困憊でソファーにへばりつく中年男性に向かって満面の笑みで語りかけてくる。「やあ、みんな!今日は丸い形を探そう!どこにあるかな?」そして訪れる、沈黙。約五秒間の、異常なまでの空白の時間。
液晶越しの無言の圧力
画面の中のネズミは、微動だにせずこちらを見つめたまま「待ち」の姿勢に入っている。これが恐ろしくキツい。休日の朝から、なぜ私は液晶画面の中の架空のキャラクターに向かって「あそこだよ!」と裏声で叫びながら指を差さなければならないのか。大人のプライドが邪魔をして無視を決め込んでいると、横にいる娘から「パパ!ミッキー待ってるよ!」と、すねに鋭い蹴りが入る。娘の純粋な眼差しと、画面の中のネズミの圧視線による無慈悲な挟み撃ち。私は重すぎる住宅ローンと日々の理不尽な業務で死んだ魚のような目をしながら、画面の隅にある赤いボールに向かって力なく指を差す。
「……あそこだよミッキー」と呟く私の声は、もはや臨終の間際の老人のそれである。
そして、作中でトラブルが起きるとミッキーは必ずこう叫ぶ。
「オー!トゥードルズ!」すると、ミッキーの顔のシルエットをした謎の浮遊機械が、奇妙な電子音と共に飛んでくるのだ。彼らは「マウスケツール」と呼ばれる四つの道具を持ってくる。そのうちの一つは必ず「ミステリーマウスケツール」という、後で都合よく使えるご都合主義の塊だ。
親の仇のようなご都合主義
毎回毎回、どんなピンチもこのトゥードルズが持ってくる謎のアイテムで綺麗に解決してしまう。私は液状化しながら、ぼんやりと考える。私の人生にもトゥードルズが現れてくれないだろうか。上司からの理不尽なクレーム、終わりの見えない残業、そしてみっともなく垂れ下がった下腹部の肉。これらを一撃で解決してくれるミステリーマウスケツールを、誰か私の元へ運んできてはくれないか。しかし、現実の三十代半ばの男の元に飛んでくるのは、固定資産税の納付書という名の絶望の紙切れだけである。
約三十分の拷問の末、番組はついにクライマックスを迎える。あの狂気の儀式、「ホットドッグダンス」である。「ホットドッグ!ホットドッグ!ホットディギティドッグ!」なぜホットドッグなのか。ハンバーガーではダメなのか。おにぎりでは駄目なのか。誰にもわからない。ただひたすらに、キャラクターたちが軽快なリズムに乗って踊り狂い、ひたすらにホットドッグを讃えている。
人類滅亡後の謎の豊穣の舞
まさにそれである。理性を完全に失った最後の生存者たちが、廃墟と化した世界でただ一つのジャンクフードを神と崇めて踊り狂っているかのような、背筋の凍る光景だ。娘はテレビの前に立ち、オムツでぽっこり膨らんだお尻をフリフリしながら大興奮で踊り狂っている。正直、めちゃくちゃ可愛い。親バカフィルターを通せば、世界一のダンサーである。だが、悲劇はそこで終わらない。娘は振り返り、私に向かって小さな手を差し伸べるのだ。「パパも!いっしょに!」
断れるわけがない。
私は重い腰を上げ、毛玉だらけのスウェット姿のまま、娘と向かい合う。そして、満面の笑みを貼り付け、「ホットディギティドッグ!」と裏声で叫びながら、みっともないステップを踏むのだ。
窓ガラスに映る己の姿を見るのが死ぬほど辛い。
三十路を過ぎた腹の出た男が、休日の朝から全力でソーセージパンを讃美して踊り狂っている。ご近所さんに見られたら即座に通報されるレベルの不審者である。
しかも恐ろしいことに、この歌は凄まじい中毒性を持っており、翌日の月曜日、満員電車に揺られながら出勤する私の脳内で、永遠にリフレインし続けるのである。得意先でペコペコ頭を下げている時も、エクセルで無意味な表を作っている時も、脳内ではずっとネズミと私が手を取り合ってホットドッグを連呼しているのだ。
ついに一話が終わり、暗転するiPadの画面。そこには、疲れ果てて生気を完全に失った自分の顔が残酷に反射している。これでようやく休める……そう思ったのも束の間、娘の無慈悲な声がリビングに響き渡った。
「パパ、もういっかい!」
私のささやかな週末の休息は、こうしてネズミの国へと強制連行され、終わりの見えない無限ループの沼へと沈んでいくのだ。
昼食代を削って手に入れた高級タブレットは、もはや私の所有物ではない。娘を笑顔にし、父親の理性を破壊するための、高価でオーバースペックなネズミ召喚盤である。
俺の尊厳は、ホットドッグと共に永遠に消化されない。
