創作大賞応募 小説「月の灯り」
あらすじ
コロナ禍で愛する整体院を失いかけた幸子は、店を守るために「パパ活」という裏世界へ足を踏み入れます。
複数の男性たちと逢瀬を重ねるうち、次第に倒錯した愛と冷徹な孤独に染まっていきました。
そんな折、かつての恩師である吉田と再会します。
彼との間に芽生えたのは、金銭の介在しない純粋で温かな愛情でした。
ふたたび女性としての喜びに包まれますが、その光が眩しいほどに、泥にまみれた自身の姿を残酷に浮き彫りにします。
迷いの末、彼女は陽のあたる場所へ戻ることを諦め、恩師との別れを選びます。社会の影を引き受け、冷たくも優しい月の灯りの下で一人強く生きていく、哀しくも美しい女性の物語です。
月の灯り
第一章 冷たいリノリウム
誰もいない施術室に、青白い月の灯りが静かに差し込んでいた。
幸子は、冷たくなったリノリウムの床に一人立ち尽くし、パーテーションで区切られた二台の施術ベッドをただ見つめていた。
ほのかに漂うラベンダーのマッサージオイルの香りが、かつての賑わいを残酷なほどに思い出させる。
幸子の営む整体院「やすらぎ」は、神戸の私鉄沿線、駅から徒歩五分ほどの古い雑居ビルの二階にあった。
十五坪ほどの小ぢんまりとしたテナントだが、幸子が内装からこだわって作り上げた愛着のある空間だ。
落ち着いた淡いグリーンの壁紙に、手入れの行き届いた観葉植物、そしていつも清潔なリネン。
幸子の確かな技術と丁寧な接客は口コミで広がり、一時は若い女性スタッフを一人雇い入れるほど、店は順調に繁盛していた。
かつて、介護疲れでボロボロになって訪れた老婦人がいた。
幸子が時間をかけてその強張った肩を解きほぐすと、彼女は「ここに来る時だけ、私は一人の人間に戻れる気がするの」と涙を流して喜んでくれた。
その言葉は、幸子の胸に深く刻まれている。
ここは単なる整体院ではない。誰かの人生の重荷を一時的に下ろすための、聖域なのだ。
しかし、表の通りからは今、人々の笑い声も車の喧騒もすっかり消え失せている。
未知の感染症「新型コロナウイルス」が世界を覆い尽くして一年。
連日テレビのテロップが報じる無機質な感染者数と死者の報告、そして絶え間なく街を走り抜ける救急車のサイレンは、人々の心に「他者との接触」に対する根深い恐怖を植え付けていた。
他人の身体に直接触れ、密室で息を合わせながら揉みほぐす整体という業種は、まさにそのウイルスの恐怖の最前線、忌避されるべき標的となってしまったのだ。
この街の誰もが、見えないウイルスに怯え、同時に他者との繋がりを飢えるように求めていた。
だが、その飢えを満たすための「接触」こそが最大の禁忌とされる矛盾。
社会全体が、正解のない問いに窒息しかけていた。
予約を知らせていた電話はピタリと鳴り止み、代わりにかかってくるのは、「家族に止められて」「感染が怖いから」という申し訳なさそうなキャンセルの連絡ばかりになった。
店内のアルコール消毒を徹底し、息苦しいマスクとフェイスシールドをつけて客を待っても、足音は階段を上がってこない。
苦渋の決断で若いスタッフに辞めてもらい、再び幸子一人で店に立つようになったが、事態は悪化する一方だった。
客が一人も来ない日でも、テナントの家賃、光熱費、業務用のタオルのリース代など、毎月数十万円の固定費が容赦なく襲いかかってくる。
なけなしの貯金を切り崩す日々が続き、ついに店の口座の残高は底をついた。
藁にもすがる思いで申し込んだ金融機関からの融資も、業績悪化を理由に無情にも断られ、すでに手を出してしまった消費者金融からの督促が、幸子の首を真綿で絞めるようにじわじわと迫っていた。
かつては人々の笑顔と安堵の吐息で満ちていたこの空間は、見えないウイルスによって完全に息の根を止められようと、静かに、だが確実に「死」に向かっていた。
日本海に面した小さな漁港の町で育った幸子は、幼い頃から寡黙で、目立つことを好まなかった。
しかし、頬が赤く丸々と太った赤ん坊は、成長するにつれて誰もが振り返るような涼やかな美貌を持つ女性へと変わっていった。
周囲の期待に押し流されるように、二十歳の春に見合いをし、地元の郵便局で働く真面目な男と最初の結婚をした。
だが、日々の会話もなく、ただ息を潜めるような温もりのない結婚生活は、わずか二年で破綻した。
逃げるように故郷を捨て、関西の街へ出た。
昼は整体の技術を必死に学び、夜は「まり」という源氏名でスナックのカウンターに立った。
幸子の、どこか憂いを帯びた涼やかな美貌と清楚な佇まいは、夜の街で瞬く間に男たちを虜にした。
「まりちゃん、最近ますます色っぽくなったね」。
客の男たちは甘い言葉を囁き、彼女の気を引こうとこぞって店に通い詰めた。
幸子はあっという間に店のナンバーワンホステスとして不動の地位を築き上げたが、決して客に安売りすることはなかった。
愛想笑いを浮かべ、アルコールで胃を痛めながらも、すべては「自分の店を持つ」という夢のためだった。
五年後、その血の滲むような貯金で、やっとの思いで手に入れたのがこの「やすらぎ」なのだ。
そんな折、三宮の地下街で偶然再会したのが、現在の夫である田中だった。 田中は一流企業のサラリーマンで、スナック時代、「まり」の熱心なファンだった客の一人だ。恰幅が良く、穏やかで実直な人柄だった。
久しぶりの再会を機にイタリアンレストランに誘われ、ワイングラスを傾けながら、田中は真っ直ぐに幸子の目を見て言った。
「僕はバツイチでも気にしません。仕事も、ぜひ続けてください。結婚を前提にお付き合いしてくれませんか」 田中はもともと、不器用だが根は優しい男だった。
プロポーズの夜、「僕が一生、君を守るから」と照れくさそうに笑った彼の横顔には、確かな温もりが宿っていた。
母子家庭で育ち、女性に対して奥手な彼の誠実な申し出に、幸子は心を動かされた。
燃え上がるような恋ではなかったが、この人となら穏やかな家庭を築ける。そう信じて、二人はグアムで小さな結婚式を挙げた。
だが、平穏に見えた結婚生活は、一枚ずつ薄皮を剥がすように色褪せていった。
最大の原因は、夫との決定的な性の不一致だった。
田中は生来、性に対して極めて淡白な男だったのだ。
それに拍車をかけたのが、このコロナ禍だった。
完全なテレワークとなり、一日中リビングでパソコンの画面とにらめっこを続けるうちに、彼の中から目に見えて生気が失われていった。
画面越しの無機質な会議と、業績悪化によるリストラの影。
田中もまた、得体の知れない閉塞感に押し潰されそうになっていたのだ。日々の余裕を完全に失った彼は、次第に妻である幸子に関心を向ける気力すらなくし、夜はただ疲れ果てて死んだように眠るだけになった。
同じベッドに横たわっていても、背を向けられ、触れられることもない。
幸子はまだ三十代に差し掛かったばかりで、女としての盛りを迎えていた。それなのに、夫からは女性として見られていないという現実は、幸子の自尊心を静かに削り取っていった。
夜の暗闇の中で、隣から聞こえる夫の規則正しい寝息を聞くたび、幸子の心の奥底には、女としてのやり場のない空虚さと、モヤモヤとした深い寂しさが澱のように溜まっていった。
さらに、同居はしていないものの、家計の実権は田中を溺愛する義母が握っており、幸子が店の経営状況を相談できるような空気は一切なかった。
戸籍上の夫婦というだけの、ひどく冷え切った関係。
だからこそ、幸子はこの絶望的な借金を前にしても、夫にすがることはできなかったし、すがりたくもなかった。
ここは私の城だ。
私の、たったひとつの居場所だ。
それを、得体の知れないウイルスのせいで手放すことなど、絶対にできない。
この城だけは、自分の身を削ってでも守り抜かなければならない。
暗い施術室の中で、幸子は静かに、だが確かな決意を込めて拳を握りしめた。
第二章 裏の世界への扉
生き残るためには、手段を選んでいる余裕はなかった。
消費者金融からの督促状がポストに投函されるようになった日、幸子は自らを現金に換える決断を下した。
ネットの求人サイトを血眼になって検索し、昼間の予約が入らない時間帯だけ働ける風俗店――ソープランドの面接に申し込んだのだ。
家族に内緒で、身を挺してでも店を守る。
その覚悟だけが、今の幸子を辛うじて立たせていた。
指定されたのは、神戸有数の歓楽街にある店舗だった。
昼下がりの歓楽街は、夜の喧騒が嘘のように静まり返り、どこか白々しい空気が漂っていた。
けばけばしいネオン看板の横にある、重厚な防音扉を押し開ける。
途端に、甘ったるい芳香剤の匂いと、強いアルコール消毒液が入り混じった独特の空気が肺に流れ込んできた。
薄暗い待合室に通され、安っぽい革張りのソファに腰を下ろす。
幸子の膝は、自分でも止められないほど微かに震えていた。
やがて、恰幅の良い初老の男が現れた。
この風俗店を束ねるオーナーの吉永だった。
吉永は幸子の顔を見るなり、驚いたように目を丸くし、それから値踏みするように頭の先からつま先までをじっくりと眺め回した。
「まりと言います。バツイチで、独身です」 結婚している事実を隠し、幸子は強張った声で挨拶をした。
吉永は手元の履歴書をペラペラと捲りながら、深い溜め息をついた。
「……あのね、まりさん。この仕事がどういうものか、本当に分かってる? ここはただの風俗じゃない。密室で、どんな男が来るかも分からない。君みたいに、どこかお嬢様めいた清楚な女性が、我慢して勤まるような甘い場所じゃないよ」 吉永の言葉はもっともだった。
しかし、幸子に引き返す道はない。
「大体のことは、分かっています。今は自分で整体のお店をやっているんですが、コロナの不況で借金が膨らんで……。どうしても、月に最低三十万は必要なんです。お店を潰したくないんです。何でもします、どうか働かせてください」 頭を下げ、必死に哀願する幸子を見て、吉永は困惑したように眉間を揉んだ。
「困ったな……君の事情は分かったが、こんな美しい女性をうちのマットに沈めるのは、俺の気が引ける。君の心も身体も、すぐに壊れてしまうよ」 吉永はしばらく腕を組み、何かを思案するように天井を見上げていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「まりさん。不特定多数の男の捌け口になるより、いっそ特定の男性とお付き合いして支援を受けるのはどうかな。
今で言う『パパ活』というやつだ」
「パパ……活?」
「そう。俺の知り合いで、ちょうど君のような女性を探している社長がいるんだ。年齢は五十五歳。金払いはいいし、あっさりした性格の紳士だよ。まずは食事からでも、一度会ってみる気はないかい?」
その日は返事を保留し、幸子は店を後にした。
自宅に戻り、ベッドの中で幸子は激しい葛藤に苛まれた。
特定のパトロンの愛人になり、金銭を受け取る。
それは明確に身体を売る行為であり、世間から見れば蔑まれるべき道徳に反した行いだ。
だが、風俗店で顔も知らない何十人もの男の欲望の捌け口となり、病気や暴力の恐怖に怯えながら稼ぐことに比べれば、吉永の提案ははるかに現実的で、安全に思えた。
ふと、隣で背を向けて眠る夫の規則正しい寝息が聞こえた。
女として求められることのない、冷え切った寝室。
幸子の胸の奥で、燻っていた空虚な飢えと、店を守るという切実な執念が交錯した。
どうせ汚れるなら、たった一つの大切な居場所のために、この身を高く売ろう。
幸子は暗闇の中で目を閉じ、三日後、吉永に「その方とお会いしたいです」と電話を入れた。
約束の日は、よく晴れた午後だった。
午後一時、JR神戸駅の中央口。
幸子は少し高めのヒールを履き、胸の鼓動を抑えながら待ち合わせ場所に立っていた。
やがて、黒いベレー帽を被った男が近づいてきた。
吉永の言葉通り、中肉中背で仕立ての良いジャケットを着こなした、いかにも社長らしい爽やかな初老の紳士だった。
「まりさん、でしょうか。お待たせしました、山田です」
「まりです。本日はよろしくお願いいたします」 軽く会釈を交わし、二人は駅から歩いて五分ほどの、閑静な路地裏にあるフレンチレストランへと向かった。
案内されたのは、通りの見える窓際の落ち着いたテーブル席だった。
軽めのランチコースと、それに合う白ワインが運ばれてくる。
グラスを合わせ、乾杯の澄んだ音が響いた。
山田はワインを含んだ後、真っ直ぐに幸子の目を見て、少し照れたように微笑んだ。
「いや、吉永から美人が来るとは聞いていましたが……驚きました。聞いていた以上に、息を呑むほどお綺麗な方だ」
「そんな……ありがとうございます。褒めていただいて、嬉しいです」 幸子の頬が、ワインのせいだけではなく微かに朱に染まった。
「仕事が大変なようですね。吉永からは、少しだけ事情を聞いています」 山田の静かで穏やかな口調に、幸子は不思議と緊張が解けていくのを感じた。コロナで客足が途絶えたこと、借金が膨らんでいること、どうしても店を守りたいことを正直に打ち明けると、山田は深く頷いた。
「そうですか。もし私で良かったら、少しでもお役に立ちたいですね」 前菜のカルパッチョに手をつける頃、山田は単刀直入に切り出した。
「さて、早速ですが。いかほどのサポートを希望されますか?」
「私も初めてのことで、勝手が分からなくて……。山田さんは、どのようにお考えでしょうか」
「そうですね。まずはお互いの気心を知るために、こうして食事程度のお付き合いから始めませんか。会うごとに、一万円。それでいかがでしょう」 「嬉しいです。それで十分です」
「そして――」山田はフォークを置き、少しだけ声を潜めた。
「お互いの気心が合い、都合の良い時に月に数回、大人の関係としてお会いできるのであれば……月に十万円はサポートできますが、いかがですか?」
大人の関係。
その言葉が意味するものを、幸子は正確に理解した。
初めて会った男性からの、あからさまな肉体関係と金銭の交換の申し出。
だが、山田の紳士的な振る舞いと、十万円という店を救うのに十分な額は、幸子の心にまとわりついていた最後のブレーキをあっさりと外した。
「……はい。ぜひ、お願いいたします」 こうして幸子は、パパ活という名の裏の世界へと、決定的な一歩を踏み出したのだった。
二度ほど食事を重ねた後、週末の夜、二人は市内の高級シティホテルで待ち合わせた。
分厚い遮光カーテンが引かれた静かな部屋。
間接照明の薄明かりの中、幸子は山田の腕の中にいた。
夫には長く省みられることのなかった女性としての尊厳が、皮肉にも他人の男の手によって満たされていく。
羞恥心や罪悪感は、時間が経つにつれて不思議と薄れていった。
むしろ、一人の女性として大切に扱われているという実感が、幸子の干からびていた細胞の隅々にまで行き渡るようだった。
お金のための行為だと割り切っているはずの心が、山田のひたむきな熱情に揺さぶられてしまうことに、幸子は密かな戸惑いを覚えていた。
事の後、シャワーを浴びて着替えた幸子に、山田は「今日はありがとう」と、茶色い封筒を差し出した。
封筒の中には、新札の十万円が入っていた。
その厚みを感じた瞬間、幸子の胸を満たしたのは、汚れきってしまったという絶望ではなく、これでまた一ヶ月、店を延命できるという強烈な安堵だった。
これが、私の生きていくための手段なのだ。
バッグの奥底に封筒をしまい込みながら、幸子はホテルの鏡に映る自分の顔を、冷ややかに、そして力強く見つめ返した。
深夜、自宅のドアを開けると、リビングからはテレビのバラエティ番組の音が漏れていた。
「おかえり。遅かったね」 田中はソファに寝そべったまま、画面から目を離さずに言った。
幸子のバッグには、他人の男の体温が残る十万円が入っている。
シャワーを浴びてきたとはいえ、首筋にはまだ山田の香水の匂いが微かにこびりついているような気がした。
「……ええ、ちょっと仕事が長引いて」
「ふーん。大変だね。あ、明日の朝、パンがないから買っておいてよ」 夫は幸子の顔を見ることさえしなかった。
妻がいつもより高いヒールを履いていることも、その瞳に宿った暗い光も、彼は何一つ気づかない。
この無関心こそが、幸子をさらに深い闇へと突き動かす。
「わかったわ」 幸子は短く答え、寝室へと向かった。
この男は、自分の妻が「城」を守るために何を差し出しているのか、一生知ることはないだろう。
その滑稽なほどの平穏が、今の幸子にはひどく不気味で、そして心地よかった。
山田からの月に十万円という支援は、確かに干上がった店の口座を潤した。しかし、積み重なった家賃の滞納分や消費者金融への返済を考えれば、まだ十分とは言えなかった。
一度、自らの心に値段をつけて金銭を受け取るという「禁忌」を犯してしまった幸子には、罪悪感と同時に、奇妙な麻痺が広がり始めていた。
そんなある日の夕暮れ時。少し早めに店を閉め、帰りの私鉄電車に揺られていた時のことだった。
ドアの横のスペースに寄りかかっていると、少し離れた席に座っていたスーツ姿の男が、こちらをちらちらと窺っているのに気がついた。
どこかで見覚えのある顔だが、すぐには名前が浮かばない。
男は立ち上がり、躊躇いがちに幸子のそばへと近づいてきた。
「あの……間違っていたらごめんなさい。まりさん、ですよね? 前川です」 「前川さん……?」 『まり』というスナック時代の源氏名で呼ばれ、幸子はハッとした。
独立して自分の事務所を構える税理士の前川。
夜の街で働いていた頃、幸子の大ファンだと言って頻繁に店に通い、同伴出勤の前に何度も食事をご馳走してくれた上客だった。
「前川さんですね。大変ご無沙汰しております。何年ぶりでしょうか」 幸子が軽く会釈をすると、前川は目尻に深いシワを寄せて懐かしそうに破顔した。
「いやぁ、まりさんが店を辞められてから随分経ちますね。ずっと気になっていたんですよ。今、どうしておられるんですか?」
「私、あの後独立して、整体のお店を開いたんです」
「整体の? そりゃあ大したものだ。まりさんなら絶対に成功すると思っていましたよ」 前川の無邪気な賞賛の言葉に、幸子は伏し目がちになり、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……でも、今はコロナの影響で客足がぱったり途絶えてしまって。お店も赤字続きで、本当に困っているんです」 幸子がふと見せた寂しげな表情に、前川は真剣な顔つきになった。
「それは大変ですね。もし困ったことがあれば、いつでも相談に乗りますよ。税務のことでも、それ以外のことでも」 そう言って、前川は高級そうな革のパスケースから名刺を取り出し、幸子に手渡した。
幸子も財布から店の名刺を取り出し、交換した。
その時、前川の指先が幸子の手にわずかに触れ、彼が熱のこもった視線を送ってくるのを、幸子は確かに感じ取っていた。
数日後、前川から携帯に連絡が入り、三宮の落ち着いた純喫茶で待ち合わせることになった。
コーヒーの香りが漂う薄暗い店内で、前川は申し訳なさそうに切り出した。 「お忙しいところ、お呼び立てしてすみません。この前お会いした時のまりさんの沈んだ様子が、どうにも気になりましてね」
「ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありません」
「仕事が、かなり大変なようですね。差し支えなければ、話を聞かせてくれませんか」 幸子は、山田の時と同じように、今の店の窮状を正直に打ち明けた。家賃も払えず、借金が膨らんでいること。
前川は黙ってコーヒーカップを両手で包み込みながら、深く頷いた。
「もし良かったら……私に、協力させてもらえませんか」 その言葉の意味を、今の幸子は痛いほど理解していた。
山田というパトロンがすでにいる。
その上、別の男からも金銭的な支援を受けるのか。
それはもう、完全に「割り切った女」と同じではないのか。
幸子の胸の奥で、わずかに残っていた道徳心が悲鳴を上げた。
夫に対する罪悪感よりも、底なし沼に足を踏み入れていく自分自身への恐怖が込み上げてくる。
「……でも、そんなこと、申し訳なくてできません」 幸子が顔を伏せると、前川は慌てたように身を乗り出した。
「変な気遣いは無用です。時々、こうしてまりさんのような美しい女性とお会いして、美味しい食事をご一緒できるだけで、私は十分に満たされるんですよ」
「また、お口がお上手なんですから……」
「スナックで働いておられた時から、私はあなたの大ファンだったんです。できるだけ協力させてもらいますから、遠慮なんてしないでください」 前川の熱意に押されながらも、幸子の頭の中では冷徹な計算が働いていた。
山田からの十万だけでは足りない。前川からの支援があれば、確実に息がつける。
店を守れる。
「いいんですか……? 本当に、甘えてよろしいんでしょうか」 潤んだ上目遣いで尋ねる幸子に、前川は大きく頷いた。
こうして、二人目のパパ活相手ができた。
最初は、前川の言葉通り、月に数回の食事を共にするだけだった。
高級な寿司や割烹料理を楽しみ、別れ際に五万円の入った封筒をそっと手渡される。
ただ隣で微笑み、話を聞くだけで手に入る五万円。
しかし、そんな純潔な関係が長く続くはずもなかった。
会う回数を重ねるごとに、前川の視線は熱を帯び、テーブルの下で膝が触れ合うことが増えた。
そしてある夜、ワインバーでグラスを傾けた帰り道、前川は幸子の手を強く握りしめた。
「まりさん……君のサポートを、月に十万円にさせてくれないか。その代わり……もう少しだけ、君との時間を深く過ごしたいんだ」 婉曲な言い回しだったが、それがホテルの誘いであることは明白だった。
幸子にもう、迷いや葛藤はなかった。
すでに山田と越えた一線だ。
男が代わったところで、何が違うというのだろう。
「……はい。前川さんなら、嬉しいです」 幸子がコクリと頷くと、前川は安堵したように息をつき、そのままタクシーを拾ってホテルへと向かった。
前川の求め方は、紳士的な山田とは違い、長年の想いをぶつけるような、どこか執着を感じさせる執拗なものだった。
スナック時代から手の届かなかった高嶺の花を、金で買い取ったという優越感。
幸子はその前川の欲望を冷ややかに見透かしながらも、彼の隣で巧みに身を寄せ、悦ぶ女を演じきった。
複数の男と時間を重ね、その対価として大金を得る。
幸子の感覚は完全に麻痺し始めていた。
結局、男たちが金で買おうとしているのは肉体そのものではない。
この不安定な世界で、金銭という確かな力を行使することで得られる「支配」という名の安らぎなのだ。
幸子は、彼らの孤独を吸い上げる装置になり果てていた。
いや、むしろ、自分の美貌を武器にして、男たちから大金を吸い上げているのだという、倒錯した全能感すら芽生え始めていた。
すべては「やすらぎ」という自分の城を守るため。
その大義名分さえあれば、幸子はどんな泥水でもすすって生きていく覚悟を決めていた。
第三章 闇の中でうごめく熱
三人目のパパ活相手となったのは、整体院の常連客である斉藤だった。
斉藤はすでに古希を迎えていたが、仕立ての良いスーツを品よく着こなし、大手企業の相談役を務めているという、いかにも裕福そうな初老の紳士だった。
ある日の施術後、ベッドから起き上がった斉藤は、穏やかな笑顔で幸子に声をかけた。
「まり先生、いつも丁寧に揉んでいただいて助かっていますよ。もし良ければ、一度食事でもご馳走させていただけませんか」
「……え?」 突然の誘いに、幸子はタオルを片付ける手を止めた。
「先生のような美人のオーナーと食事ができるなんて、男冥利に尽きますからね。ご迷惑でなければ、の話ですが」
「そんな、迷惑だなんて……。お誘い、すごく嬉しいです」 すでに二人の男をパトロンに持っている幸子にとって、斉藤の言葉の裏にある「期待」を察知するのは容易いことだった。
週末の夕方、待ち合わせた斉藤に案内されたのは、彼が行きつけにしているという、こぢんまりとした炭火焼きの焼き鳥屋だった。
カウンターに横並びに座り、立ち上る煙越しに冷酒のグラスを傾ける。
「こんな煙たいところで申し訳ありません。でも、この店は妙に落ち着くので、週に何度も来てしまうんですよ」
「いえ、私、焼き鳥は大好きですから」 幸子が愛想よく相槌を打つと、斉藤はほっとため息をつき、やがて真剣な眼差しで幸子の顔をのぞき込んだ。 「まり先生……お店の経営、大変そうですね。何か、私に協力できることはありませんか」 単刀直入な申し出だった。
幸子は少し困惑したような、儚げな表情を作ってみせた。
「とんでもないです。斉藤さんは、お店に来ていただけるだけで十分ありがたいんですよ」
「遠慮しなくていいんです。私にできることなら、何でも言ってください」 斉藤は幸子の手を軽く握りしめると、内ポケットから一万円札の入った封筒を取り出し、そっと幸子のバッグの上に置いた。
「年寄りの食事に付き合ってくれた、ほんのお礼です。もし君さえ良ければ……君のサポートを兼ねて、時々はこうして食事の相手をしてもらえませんか」
「……嬉しいです。ありがとうございます」 幸子は、斉藤の皺の刻まれた手に、自分の手を静かに重ねた。
だが、斉藤が幸子に求めていたのは、単なる食事相手や、通常の愛人関係ではなかった。
数日後、喫茶店に呼び出された幸子は、斉藤から五万円の入った封筒を手渡された。
「今夜、知り合いから『男女のイベント』に誘われているんだが……付き合ってくれないだろうか」 連れて行かれたのは、市内の高級マンションの一室だった。
部屋にはすでに何組かの男女のペアが集まっており、テーブルには豪華な料理と酒が並べられていた。
異様なのは、参加者全員に目を覆う仮面が配られたことだった。
薄暗い照明と静かなムード音楽の中、時間が経つにつれて、参加者たちは本来のパートナーから離れ、別の相手と絡み合い始めた。
秘密の会員制パーティの、薄暗い閉鎖空間だった。そこで幸子が目の当たりにしたのは、常識から逸脱した、男たちの飽くなき欲望の連鎖だった。
最初は、恐怖と羞恥心で身体が強張るばかりだった。
見知らぬ人々に囲まれ、プライバシーを剥ぎ取られるような感覚に、幸子は何度も逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、斉藤は幸子の手を離さず、その異常な光景を「観賞」することに恍惚とした表情を浮かべていた。
パートナーを交換するような、退廃的なパーティだったのだ。
「私はもう年だから、君は自由にしていいんだよ」 斉藤が耳元で呟き、席を外した直後だった。
五十代と思われる見知らぬ男が幸子に身を寄せてきた。
「だめ……っ」 微かに抵抗したものの、アルコールと異様な雰囲気に呑み込まれ、幸子は抗う力を失っていった。
男の強引な誘いを拒みきれず、幸子は見知らぬ相手に身を委ねることになった。
そして恐ろしいことに、幸子自身も、見知らぬ男から向けられる生々しい欲望と、それを斉藤に見られているという背徳感に、今まで味わったことのないような奇妙な高揚感を覚えていた。
一度味を占めた斉藤の要求は、さらにエスカレートしていった。
「今度の週末の土曜、また別のイベントがあるんだが、参加しないか」 そう誘われて連れて行かれたのは、前回とは違う高級マンションの一室だった。すでに八組ほどの男女が集まっており、今回は比較的若いカップルが多いようだった。
会費を払い、用意された酒やオードブルを口にしながら、幸子が「今夜は、何が始まるんですか?」と尋ねると、斉藤は薄く笑いながら「見てのお楽しみだよ」とだけ答えた。
酒が回り、少しほろ酔い加減になった頃だった。
突然、主催者の声がかかり、女性たち八人だけが別室に呼ばれ、下着と白い薄手のガウンだけに着替えさせられた。 戸惑いながら斉藤の隣に戻った幸子に、彼は耳元で素っ気なく告げた。
「今夜のイベントは、女性同士の親密な戯れを観賞するものだ」
「えっ……?」 幸子は血の気が引くのを感じた。同性との触れ合いなど、これまでの人生で想像したことすら一度もなかった。
女性同士が肌を寄せ合う様子を、男たちが無言で見つめる会に参加した時のことは、今も忘れない。
見知らぬ女性から向けられる柔らかな体温と、繊細な気遣いに、幸子は未知の動揺を覚えた。
それは、かつて夫と過ごした冷え切った夜には決して存在しなかった、優しく肯定されるような感覚だった。
自分の意思とは裏腹に心まで熱を帯びていくことに、幸子は言いようのない罪悪感と、それ以上に深い困惑を覚えた。
さらに斉藤のエスカレートは止まらない。
次に連れて行かれたのは、歓楽街の路地裏にある過激な嗜好を満たす専門店だった。
重厚な鉄の扉を開けると、店内は薄暗く、ねっとりとした赤い照明に照らされていた。
壁には太さの違う何本もの麻縄や、鈍く光る手錠、革製の鞭が不気味に掛けられており、天井からは滑車を通した太いロープが、中央の小さなステージに向かって垂れ下がっている。
ステージでは、露出の多い衣装の若い女性が男にロープで縛られ、非日常的なショーが行われていた。
痛みに顔を歪めながらも、女性の表情にはどこか恍惚とした色が浮かんでいた。
ショーが終わると、スタッフが幸子たちの席へやってきた。
「いかがですか? もしよろしければ、一度経験してみませんか?」 唐突な誘いに、幸子は肩を跳ねさせた。
「絶対に無理です」 必死に首を振る幸子を、斉藤はにやりと笑いながら覗き込んだ。
「よし、この際だ。もし君がトライするなら、今夜のお礼は前回のさらに倍、上乗せしよう」 二十万。
たった数十分、恥を忍んで縛られるだけで、店の家賃のほとんどが賄える。その現実的な数字が、幸子の良心を麻痺させた。
「……下着を、つけたままなら……」 震える声でそう答えた瞬間、周囲の客たちから拍手喝采が巻き起こった。
もう、後には引けなかった。
幸子は下着姿になり、ステージへと歩み出た。
観客たちの視線が肌に突き刺さる。
屈強な男が、太い麻縄を手に無言で背後に回る。
ザラリとした麻の感触が肌に触れ、次いで手首が乱暴に背中で縛り上げられる。
縄は容赦なく身体を締め付け、呼吸を浅くさせた。
痛い。苦しい。
しかし、それ以上に幸子を支配したのは、あまりにも強烈な「無力感」だった。
普段の幸子は、整体院のオーナーとして、妻として、あるいはパパ活の相手として、常に「自分」をコントロールし、毅然と振る舞わなければならない。
しかし、縄に縛られ、自由を奪われたこのステージの上では、誰にも何も期待されず、ただ縛られていること以外、何もする必要がなかった。
その圧倒的な無責任さが、幸子の心の奥底に、安らぎに近い陶酔をもたらした。
ギリギリと滑車が鳴り、幸子の身体がゆっくりと床から離れた。
宙吊りにされ、無防備に晒された姿を、観客たちが見上げている。
斉藤の視線は狂喜に満ちていた。
男の持つ鞭の先端が、縛られた幸子をピシリと打つ。
鋭い刺激が走った。
だが、それが脳に届いた直後、幸子の内面で何かが音を立てて崩れ去った。 借金の重圧、店の経営の孤独、夫からの冷遇。普段、幸子が一人で背負い、必死に抑え込んできたすべての重荷が、縄で縛られ、思考を奪われることで、嘘のように消え去っていく。
無数の視線に晒される辱めの中で、幸子は、自分の内側で叫びを上げる確かな「歓喜」を認めるしかなかった。
それは、店を存続させるためのビジネスという大義名分をも超えた、彼女自身の脆く危険な本性だった。
他者に支配され、すべてを委ねることで、初めて自分自身を縛り付けていた鎖から解き放たれる――。
この恐ろしいほどの解放感こそが、今の幸子にとって唯一、現実から逃れられる「祈り」に似た時間となっていた。
異常な性癖に付き合う斉藤とは対照的に、四人目のパパ活相手となった山本との関係は、また違った意味で幸子の心に深い影を落とすものだった。
山本は大手企業のサラリーマンで、出張帰りにいつも整体を予約してくれる上客だった。
「まり先生、こんにちは。今回は四国に出張だったんですよ。これ、お土産の温泉まんじゅうです」
「いつもありがとうございます。道後温泉に行かれたんですね」 施術を終え、ほぐれた身体でベッドに座り直した山本は、ふと思いついたように言った。
「私、温泉が大好きでね。今度、二泊三日で金沢に出張があるんです。仕事終わりに、加賀温泉に行きませんか。お誘いする以上、それなりのことはさせていただきますから」 その誘いに乗り、幸子は一人、特急電車に揺られて指定された老舗の温泉旅館へと向かった。
午後三時過ぎ。
ロビーで落ち合った山本は、すでに仕事を終えて安堵した表情を浮かべていた。
夫婦として予約された二人は、仲居から「ご主人様、奥様」と呼ばれ、丁寧な出迎えを受けて和室へと案内された。
「奥様」という響きが、耳の奥でひどく白々しく反響する。
戸籍上の本物の夫からは、もう何年も向けられたことのないような、温かく敬意に満ちた眼差し。
ここにあるのは、世間一般が思い描く「理想の夫婦」の完璧な擬態だった。
「とりあえず、ひと風呂浴びますか。
十六時から家族風呂を貸し切りにしています」 脱衣所で衣服を脱ぎ、立ち込める湯煙の中、二人は寄り添うように湯船に身を沈めた。
「気持ちいいですね……日頃の疲れが、すっかり溶けていくみたいです」 お湯の中で、肌と肌が滑らかに触れ合う。三十代を迎えたばかりの幸子の表情は、湯気をまとってどこか艶めいて見えた。
山本は大きな契約を済ませた解放感も手伝ってか、幸子を引き寄せるように強く抱きしめてきた。
非日常の倒錯した世界とは違う、男の純粋で真っ直ぐな好意。
まるで、長年連れ添いながらも互いを慈しみ合う、幸せな夫婦の休日のようだった。
しかし、その穏やかで優しい擬似体験こそが、幸子の胸の奥に、かつてないほど冷酷な隙間風を吹き込んでいった。
湯けむりの中で山本の温もりを受け入れながら、幸子はぼんやりと考え続けていた。
(――これは、いくらで買われた「夫婦」なのだろう) 湯船の中で交わされる甘い吐息も、髪を撫でる愛おしそうな手つきも、すべては金銭という対価があって初めて成立する、
時間制限付きの虚構に過ぎない。
そして何より残酷なのは、この「普通の夫婦の温かさ」を、本当の夫である田中となら一生味わうことができないという決定的な事実だった。
お金を払わなければ手に入らない偽りの温もりと、結婚契約書があっても手に入らない真実の温もり。
男の優しさに包まれば包まるほど、自分が演じている「愛される奥様」の仮面が重くのしかかり、どうしようもない虚しさが胸の洞窟で反響する。
チャプチャプとお湯の跳ねる音だけが、貸し切り風呂の空間に響き渡っていた。
翌朝、チェックアウトを終えたロビーで、山本から「今月分のサポートです」と、五万円の入った茶色い封筒をそっと手渡された時、幸子は完璧な笑顔を作ってみせ、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
指先に伝わる新札の厚みが、昨夜の甘い擬似体験を、一瞬で冷徹な「ビジネス」へと引き戻してくれる。
その無機質な現実の冷たさに、幸子は皮肉にも、息が止まりそうなほどの安堵を覚えるのだった。
山田、前川、斉藤、山本。
四人の男たちの欲望の形はそれぞれ違ったが、共通しているのは、彼らが幸子の美貌と時間に金銭を支払い、幸子はそれを提供して店を維持しているという冷徹な事実だった。
月に三十万から五十万という収入を得るようになった幸子にとって、パパ活はもはや生活の一部であり、最強のビジネスモデルと化していた。
彼らを手玉に取り、金を引き出している。
男に消費されているのではなく、私が男を消費しているのだ。
銀行口座に並ぶ数字が増えていくたび、幸子は罪悪感の代わりに、一人で生き抜いていけるという圧倒的な全能感と、冷え切った逞しさを自らの内に育て上げていたのだった。
第四章 眩しすぎる再会
四人の男たちを手玉に取り、計算尽くのパパ活で店を維持し続ける日々。
そんな裏の世界の論理にすっかり馴染み、心が冷ややかに麻痺していた幸子に、思いがけない転機が訪れた。
コロナ禍の混乱がようやく落ち着きを見せ始めた頃、高校の同窓会の案内状が届いた。
二十年ぶりの開催だという。
最初は欠席しようかとも思ったが、少しでも日常を取り戻したいという思いから、幸子は帰郷して参加することにした。
会場となった地元のホテルの宴会場には、五十名ほどの男女が集まっていた。
「幸子! 久しぶり!」 声をかけてきたのは、高校時代に一番仲の良かった恵子だった。
「すっかりご無沙汰してるね。恵子、元気だった?」
「何年ぶりだろう。幸子が関西の方にいるって小耳に挟んでたけど」
「うん、整体の資格を取って、向こうで自分のお店を経営してるの」
「すごい! 頑張ってるんだね。私は専業主婦で、毎日つまらないよ」 恵子が羨望の眼差しを向けてきた時だった。
「久しぶりだね。二人とも、変わりないかな」 穏やかな、聞き覚えのある声がして振り返る。
そこに立っていたのは、高校時代に数学の担任だった吉田先生だった。
「吉田先生……! 先生もお元気そうで良かったです」 幸子は思わず声を弾ませた。
吉田は優しく爽やかな笑顔の持ち主で、当時から生徒に人気があり、幸子も密かに憧れを抱いていた一人だった。
白髪が少し混じっていたが、その温和な眼差しは昔のままだ。
「相変わらず、君はスマートで……いや、あの頃よりずっと美人になったね」 吉田が目を細めて言うと、幸子は少し照れ隠しに笑った。
「先生、相変わらずお口がお上手なんですから」
「いやいや、本心ですよ。今、どうしているんですか?」 幸子が関西で整体の店を経営していることを伝えると、吉田の表情は真剣なものに変わった。 「それは、よく頑張ったね。……でも、コロナの時は大変だったんじゃないかな」 その言葉を聞いた瞬間、幸子の胸の奥がギュッと締め付けられた。
「……あの時は、本当に死に物狂いで働きました」 様々な男に愛想を振り撒き、心身をすり減らしてきた日々が脳裏をよぎる。
だが、吉田はそんな幸子の裏の顔など知る由もなく、ただただ深い慈愛を込めて彼女の顔をのぞき込んだ。
「そうですか。君らしいね。本当によく頑張った」 その温かいねぎらいの言葉に、幸子の目頭が不意に熱くなった。
パパ活の男たちから浴びせられる欲望の言葉とは違う、純粋な思いやり。強張っていた幸子の心の鎧が、微かにひび割れた瞬間だった。
「そうだ。近いうち、用事があって神戸の方へ出かけるんだ。もし良かったら、ご飯でもご一緒しないか」
「はい……その時は、ぜひご連絡ください」 幸子はバッグから店の名刺を取り出し、両手でそっと手渡した。
それから間もなくして、吉田から本当に連絡が入った。
用事の前に時間が空いたということで、お昼前に幸子の店の近くの喫茶店で落ち合うことになった。
「お忙しいのに、お呼び立てして申し訳ないね」
「とんでもないです。遠いところからお越しくださって、ありがとうございます」 幸子の案内で、近くのこぢんまりとした日本料理店に入り、二人で刺身定食のランチをつついた。
カウンター席で隣り合い、たわいない近況を話すだけで、幸子の心は不思議なほど穏やかだった。
「君の整体のお店は、ここから近いのかい?」
「はい、歩いて数分のところにあります」
「それはいい。夕方まで時間があるし、私の身体も少し診てもらえないかな」 幸子は最初からそのつもりで予約を空けていた。
「ぜひ、施術させてください」と微笑み、彼を「やすらぎ」へと案内した。 施術着に着替えた吉田の背中に触れる。
パパ活の相手ではない、自分が心から尊敬し、憧れていた人の身体。
幸子はいつにも増して丁寧に、真心を込めてコリをほぐしていった。
「いいですね。整体は初めての経験ですが、身体が本当に軽くなった気がしますよ」 約一時間の施術を終え、吉田は満足そうに財布を取り出した。 「今日は、学生の時にお世話になったお礼ですから、お代はいただけません」 幸子が目配せをして断ると、吉田は困ったように眉を下げた。
「それはまずいですよ。……それでは、私の気が済まないので、今夜、夕食をご馳走させてください」
午後六時、宿泊先のホテルのロビーで待ち合わせ、最上階のフレンチレストランへと案内された。
窓際の席からは、宝石を散りばめたような神戸の夜景が一望できた。
そして夜空には、息を呑むほどに美しい、丸い月が眩しい光を放って浮かんでいる。
「それでは……美味しいお酒と贅沢な料理、そして可憐な美人に、乾杯」 少しはにかみながら、吉田が赤ワインのグラスを持ち上げた。
「お昼、そして夜と、憧れの先生とお食事ができるなんて、本当に光栄です」
「こちらこそ、こんな美人と食事ができるなんて夢のようですよ」 グラスを合わせ、美味しい料理とワインを味わううちに、二人の頬は次第に赤く染まり、心の距離が急速に縮まっていった。
幸子はほろ酔いに任せて、自分のこれまでの人生を語った。
見合いでの失敗、バツイチになり、夜のバイトで死に物狂いでお金を貯めて店を持ったこと。
再婚したものの、夫とは冷え切っていること。
そして、コロナ禍で多額の借金を背負い、身を削って店を守ってきたこと。 もちろん、パパ活をして裏の顔を持っていることだけは隠した。
「……うん、うん。そうだったのか。本当に、一人で苦労してきたんだね」 吉田は静かに相槌を打ち、決して否定することなく、幸子の悲痛な思いをすべて受け止めるように聞いてくれた。
ただただ寄り添ってくれるその優しさに、幸子はたまらなく嬉しかった。
そして同時に、彼に嘘をついている自分の汚らわしさが、胸をチクチクと刺した。
ワインを二本空け、レストランを後にした二人は、そのままエレベーターに乗り込んだ。
密室になった瞬間、幸子は抑えきれない衝動に突き動かされていた。
ごく自然に吉田の腕に自分の手を回し、彼を見上げる。
吉田もまた、熱を帯びた瞳で幸子を見つめ返した。
顔が近づき、どちらからともなく唇が重なった。
ワインの甘い香りと、大人の男の落ち着いた匂い。
エレベーターが目的の階に着き、扉が開く。
二人は手を繋いだまま、足早に吉田の部屋へと向かった。
ドアが閉まるなり、吉田は幸子を強く抱きしめ、お互いを求めるように、静かにベッドへと身を横たえた。
それは、パパ活の男たちに提供してきた「サービス」とは、根底から違うものだった。
吉田の指先が肌に触れるたび、幸子の凍りついていた心の奥底が、じんわりと心地よく溶け出していく。
夫には長く背を向けられ、女としての価値を否定されてきた。
そしてパパ活の男たちには、単なる欲望の対象として、あるいは非日常を満たすための道具として扱われてきた。
幸子自身も心を殺し、彼らを単なる「財布」としか見ていなかった。
金銭という対価がなければ、一秒たりとも成立しない冷たい関係。
けれど、吉田は違った。
彼は「幸子」という一人の人間を心から慈しみ、壊れ物を扱うように優しく、けれど確かな熱を帯びて抱きしめてくれた。
彼の息遣い、視線、触れられるそのすべてに、純粋な愛情とリスペクトがこもっているのが分かった。
女として求められ、大切に愛される喜び。
それは、幸子がこの数年間、生きるために必死に切り捨て、とうの昔に忘れてしまっていた感情だった。
「ああっ……先生……」 幸子の心と身体は、今までのどんな倒錯した関係でも感じたことのない、内側から光に包まれるような、深く温かい喜びに満たされていた。
義務感でも、計算された演技でもない。
ただ心から愛しい人に身を委ねることでしか得られない、圧倒的な至福だった。
「私……こんなの、初めてです」 シーツにくるまり、幸子は涙声で素直に呟いた。それは偽りのない本心だった。
「私も、こんなに無我夢中になったことはないよ。君が、本当に愛おしい」 汗ばんだ髪を優しく撫でる吉田のその言葉を聞いた瞬間、幸子の目から止めどなく涙が溢れ出した。
嬉しかった。
干からびていた細胞の隅々にまで水が浸透し、一人の女性として再び息を吹き返したような、圧倒的な喜びに満たされていた。
しかし、その光があまりにも眩しく温かいからこそ、幸子の心に激しい動揺と絶望が押し寄せた。
(私はもう、普通の女じゃない……)
何人もの男に身を任せ、狂った快楽にすら身を委ね、金銭をむしり取っている薄汚れた女。
店を守るためだという大義名分のもと、引き返せない泥沼に首まで浸かっているのが、いまの自分だ。
こんなに純粋で温かい人の隣で、愛される資格などあるはずがない。
幸せの絶頂で「女性としての喜び」を噛み締めるほどに、幸子の胸の奥には、決して埋まることのない残酷な闇が、ぽっかりと黒い口を開けていたのだった。
第五章 月灯りの下で
吉田先生と過ごしたあの夜は、幸子のこれまでの人生で最も美しく、そして最も残酷な夜だった。
男に消費される道具としてではなく、ひとりの「幸子」として大切に扱われ、愛される喜び。
その温もりを知ってしまった代償は、あまりにも大きかった。
翌朝、ホテルのベッドで目を覚ました幸子は、隣で穏やかな寝息を立てる吉田の横顔を、じっと見つめていた。
カーテンの隙間から、容赦のない朝の光が差し込んでいた。
真っ白なシーツに反射するその太陽の光は、あまりにも眩しく、そして潔癖だった。
光に照らされた自分の腕や指先を見るたび、幸子はそこに、拭っても決して落ちない黒い染みのようなものがこびりついているのを感じていた。
山田と重ねたホテルの密室。
前川から向けられた執着の視線。
斉藤に連れられて足を踏み入れた地下室での辱めと、麻縄が食い込んだ肌の痛み。
山本と浸かった温泉の湯の匂い。
この数年間、たったひとつの「城」を守るために、自らの尊厳を切り売りし、幾人もの男たちに身を委ねてきた泥まみれの記憶が、朝の光の下で残酷なほど鮮明に暴き出されていく。
(私はもう、元の世界には戻れないのだ……)
幸子は音を立てないようにそっとベッドを抜け出し、散乱していた衣服を身につけた。
背後で「……幸子さん?」と、寝ぼけ眼の吉田が優しく声をかけてきた。 「おはようございます、先生。ごめんなさい、お店の準備があるので、私、先に出ますね」
「そうか……送っていけなくてごめんね。また、連絡するよ」 無防備に微笑むその顔に、幸子は胸が張り裂けそうになるのを必死に堪え、「はい、また」とだけ嘘をついて、逃げるように部屋を後にした。
早朝の冷たい空気を肺に吸い込みながら、幸子は神戸の街を歩いた。
すれ違う人々は皆、これから始まる「日常」へと向かっていく。
自分だけが、その真っ当なサイクルから完全に外れてしまった異形の生き物のように思えた。
スマートフォンが微かに震えた。
画面を見ると、斉藤からの短いメッセージだった。
『来週末、また例の場所で特別な集まりがある。君のために特別な衣装を用意させたよ。期待していい』 その無機質な文字列を見た瞬間、幸子の足はピタリと止まった。
パパ活の男たちとの逢瀬は、もはや幸子にとって義務的な作業に過ぎなかった。
かつてあれほど執着していた「店」への想いさえも、吉田という純粋な光に照らされた今となっては、急に色褪せて見えた。
泥水の中に咲く花のように、幸子は自分の汚れた手を自覚しながら、その一方で、吉田との未来を夢見てしまう自分をどうしても止められなかった。
すべてを捨てて、あの優しい胸の中に飛び込めたら、どんなに幸せだろう。
だが、現実は冷酷だ。
店を維持し、膨れ上がった借金を返すためには、四人のパトロンが必要だった。
吉田と結ばれ、真っ当な「陽のあたる場所」へ行きたいと願えば願うほど、幸子の手には、裏の世界で稼いだ汚れた金が重くのしかかる。
もし、吉田に自分の過去を告白すればどうなるだろう。
教え子に向けられていたあの温かい慈愛の瞳は、一瞬にして凍りつき、驚愕と、やがて軽蔑の色に染まるに違いない。
自分のような薄汚れた女が、清廉な彼の人生に泥を塗ることなど、絶対に許されなかった。
それが、何よりも恐ろしかった。
自分の店「やすらぎ」の鍵を開け、冷え切った施術室に入った。
ブラインドを下ろしたままの薄暗い室内には、ラベンダーの香りが静かに澱んでいる。
幸子はパーテーションの陰に座り込み、両膝を抱えて、スマートフォンの画面に吉田の連絡先を呼び出した。
指先が微かに震える。通話ボタンを押してしまえば、あの優しい声が聞こえる。
一言でも言葉を交わしてしまえば、決心は脆くも崩れ去り、二度と彼を手放せなくなるだろう。
店を、これまでの苦労を、そして自分の中に残された最後の誇りを守るためには、ここで完全に断ち切らなければならない。
「……先生、ごめんなさい。もう、お会いできません。どうか、お元気で」 文字盤を打つ手が涙で滲む。短いメッセージを打ち込み、迷いを振り切るように送信ボタンを押した。
そして、躊躇うことなく連絡先をブロックし、通話履歴もすべて消去した。 その瞬間、幸子の喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れた。
スマートフォンの画面にぽたりと涙が落ちる。
声を出して泣いたのは、一体いつ以来だろうか。
夫に背を向けられた夜も、風俗店の面接に行った日も、決して涙は見せなかったというのに。
どれほどの時間が経っただろうか。
涙が枯れ果て、空っぽになった心で顔を上げると、すっかり日の落ちた窓の外に、夜空が広がっていた。
幸子はふらつく足で窓辺に立ち、ブラインドを少しだけ持ち上げた。
雲の切れ間から、丸い月が顔を出している。
太陽のような、すべてを白日の下に晒す眩しい光ではない。闇夜を静かに、ただ冷たく照らす「月の灯り」だった。
私は、陽の当たる場所にはもう戻れない。
まばゆい陽光を浴びる吉田という存在は、今の自分にはあまりにも眩しすぎた。
彼の放つ光は、幸子の抱える闇や罪を容赦なく浮き彫りにし、焼き尽くしてしまう。
けれど、それでいいのだと幸子は思った。
この月の灯りは、私の罪も、私の孤独も、私の汚れた手も、すべてを等しく青白く包み込んでくれる。
太陽の光から逃れた影の者たちだけを、ひっそりと導くような、静かで優しい光だった。
幸子は、自分が歩むことになったこの「パパ活」という道が、世間から決して称賛されるものではないと知っている。
だが、清廉潔白を説く社会の裏側で、人間は孤独を金で埋め、生を繋ぐために尊厳を切り売りしている。
パパ活で出会った男たちも皆、見えない病を抱えていたのだ。
経営の重圧と絶対的な孤独に押し潰されそうな山田。
過去の華やかな幻影にすがり、失われた若さを求める前川。
老いの恐怖と喪失感を、異常な支配欲で塗りつぶそうとする斉藤。
家庭という枠組みの中で息苦しさを覚え、擬似的な温もりに飢えていた山本。
彼らは社会的地位や財力を持ちながらも、その内側にはどうしようもない欠落と虚無を抱え、見えない寒さに震えていた。
彼らが何十万という大金を払って買おうとしていたのは、単なる女の若さや肉体ではない。
誰かに自分の存在を肯定されたい、あるいは他者の絶対的な支配を通じて「生きている実感」を得たいという、悲鳴のような渇望だったのだ。
そして、私たちが差し出しているのは、身体というよりも、失うことを恐れて切り捨てた、かつての夢や自尊心の残骸なのだ。
誰もが何かをすり減らし、何かを貪り喰って生きている。
これが、現代という時代の正体だ。
たとえ誰もそれを認めず、蔑みの視線を向けたとしても、私はこの道をゆく。
この冷たくも静かな月の灯りだけが、今の私を肯定してくれる唯一の光なのだ。
誰に後ろ指を指されようと、私は私の手で、この居場所を守り抜く。
たとえそれが、暗闇の中を彷徨うような生き方であっても、他人に縋らず、男たちからすべてを吸い上げてでも、私は私自身の力で立ち続けるしかない。
幸子は深く息を吸い込み、タオルで顔を拭った。
そして、冷たいリノリウムの床を力強く踏みしめ、いつものように店の照明のスイッチを入れた。
アルコール消毒液の匂いが、ラベンダーの香りと混ざり合う。
施術ベッドのシーツをピンと張り、整えていくその所作に、もう微塵の迷いもなかった。 窓の外、冷厳な月灯りが、幸子の横顔を大理石のように白く、美しく照らしている。
明日もまた、私を求める男たちが待っている。 そして、私の大切な店が開く。
幸子は窓ガラスに映る自分に向かって、静かに微笑んだ。
その瞳には、かつて憧れた吉田のような純粋な光はもう欠片も残っていない。
だが、闇を抱えたまま、自らの意思で夜の底へと歩き出す女の、恐ろしいまでに冷たく、美しい覚悟が宿っていた。
太陽に背を向け、月の灯りに照らされて生きる。
それが、ひとりの女が選び取った、最も過酷で、最も逞しい生存戦略だった。 (了)
