駅弁とビールと新幹線―令和の哲学の道
旅先で見知らぬ町をあてもまく歩き回る。
ふと立ち止まっては、スマホの向こう側にいるAIに、思い浮かんだ思考の断片を投げかける。
あるいは、新幹線の座席で駅弁を広げ、ビールを一口飲んでから、脳内に浮かんだ「独り言」をチャット欄に打ち込んでみる。
一見すると「遊んでいる」ように見えるかもしれないこの時間が、実は私の生活の中で「最も誠実で、濃密な思考の瞬間」になっている。
思考は「姿勢」ではなく「動き」の中にある
「考える」というと、多くの人は「机に向かって、背筋を伸ばし、整った文章を綴ること」を想像する。でも、ほんとうにそうだろうか?
かつて哲学者たちは――アリストテレスもカントも西田幾多郎も――自らの足で歩き、身体を動かして空間を移動し、外界の刺激を受けながら思考を深めた。現代人なら、自転車を漕ぐリズムや、新幹線の微細な振動も、散歩と同じように、凝り固まった脳を解きほぐすマッサージのようなものだ。
机に縛り付けられて思考が止まってしまうぐらいなら、豊かな思考の立ち上がりを促すために外へ出てみてもよいはずである。
「書を捨てよ、町へ出よう」とは、よく言ったものだ。
「清書」する前に「粘土をこねる」時間が必要だ
文章化することは、思考を「固定」する作業である。 しかし、研究の初期段階で必要なのは、固定ではなく「発掘」だ。
いたずら書きのような断片
支離滅裂な独り言
「もしこうだったら?」という根拠のない仮説
これらを「正解」としてではなく「問い」としてAIに投げてみる。 AIという鏡に跳ね返ってきた言葉を受けて、またペダルを漕ぎ、ビールの空き缶を眺める。 この「共創」のプロセスは、一人で真っ白な原稿用紙を前に唸っているよりもずっと、ダイナミックに真理へと近づく感覚を私に与えてくれる。
「生成の散歩道」と「移動する書斎」
街歩きをするひとときは、いわば「生成の散歩道」。
新幹線での晩酌は、いわば「移動する書斎」。
これらは決して「AIかぶれ」の怠惰ではない。
人類が古来より行ってきた「対話による産婆術」を、現代のテクノロジーで最も豊かに、そして軽やかにアップデートした姿である。
思考は、それが形になる前の、混沌とした『つぶやき』の中にこそ宿っている。
もし、机の前で筆が止まってしまったなら、一度外へ出てはどうだろうか。スマホ一台と、少しの遊び心。
それだけで、世界はあなた専用の「哲学の小道」に変わるはずだ。
さて、富士川橋梁をわたり、見慣れた景色が見えてきた。
ビールもいい具合に回ってきたところである。
AIという最高の助手を連れて、私の思考の旅はもう少しだけ続く。
