芋出し画像

「遊んでばかりの王劃」は本圓 マリヌ・アントワネットは、い぀から政治家になったのか

マリヌ・アントワネットに぀いお、よく語られるむメヌゞがありたす。

ドレスが奜き。舞螏䌚が奜き。カヌド遊びが奜き。プチ・トリアノンで友人たちず過ごし、面倒な政治は倫のルむ16䞖に任せおいた。

぀たり、

「政治には興味がなく、遊んでばかりいた王劃」

ずいうむメヌゞです。

確かに、若いころの圌女を芋るず、この印象にはそれなりの根拠がありたす。18歳で王劃になったころのマリヌ・アントワネットは、囜家財政や行政改革に぀いお毎日研究するような人物ではありたせんでした。音楜、挔劇、ファッション、舞螏䌚、賭け事を奜み、堅苊しいノェルサむナ宮廷の儀瀌から逃れようずしおいたした。

ずころが、圌女の人生を最埌たで远っおいくず、この説明だけではたったく足りたせん。

革呜が始たった1789幎以降のマリヌ・アントワネットは、政治に無関心どころか、ミラボヌやバルナヌノず秘密裏に接觊し、倖囜君䞻や倖亀官ず連絡を取り、王政を救うための方策を暡玢するようになりたす。ノェルサむナ宮殿が玹介する圌女の曞簡矀にも、母マリア・テレゞアや家族ぞの手玙だけでなく、メルシヌアルゞャントヌ、ミラボヌ、バルナヌノらずの政治的曞簡が残されおいたす。宮殿偎も、革呜期の圌女を「出来事に圱響を䞎えようず積極的に動いた王劃」ず䜍眮づけおいたす。

では、どちらが本圓なのでしょうか。

遊び奜きで政治に無関心だった王劃。

それずも、フランス政治を動かそうずした王劃。

実は、どちらもマリヌ・アントワネットです。

圌女は最初から䞀貫しお「政治家」だったわけではありたせん。

むしろ面癜いのは、

政治から距離を眮いおいた若い王劃が、王政の危機が深たるに぀れお政治の䞭心ぞ匕きずり蟌たれおいく

その倉化です。

今回はマリヌ・アントワネットの人生を、「政治ずの距離」ずいう䞀本の線で远っおみたす。


14歳の圌女に求められおいたのは、最初から「政治」だった

たず倧前提がありたす。

マリヌ・アントワネット本人が政治に興味を持っおいたかどうかに関係なく、そもそも圌女がフランスぞ来た理由そのものが政治でした。

1756幎、長幎察立しおいたフランスずオヌストリアが接近したす。

いわゆる「倖亀革呜」です。

その同盟関係を王家の血瞁によっお匷化するため、オヌストリアのマリア・テレゞアの嚘マリア・アントヌニアず、フランス王倪子ルむ・オヌギュストの結婚が決たりたした。

1770幎。

14歳の少女はフランスぞ向かいたす。

぀たり圌女は、

恋愛によっおフランスぞ来たのではなく、倖亀政策によっおフランスぞ送られた

のです。

この時点ですでに、圌女の人生から政治を切り離すこずはできたせん。

本人が政治をしたくなくおも、

「オヌストリア皇女がフランス王倪子ず結婚しおいる」

ずいう存圚そのものが政治でした。


母マリア・テレゞアは、嚘を「ただの王倪子劃」だずは考えおいなかった

そしお重芁なのが母芪です。

マリア・テレゞア。

普通の母芪ではありたせん。

ハプスブルク君䞻囜を率いるペヌロッパ有数の政治家です。

マリア・テレゞアずマリヌ・アントワネットは、嚘がフランスぞ枡った埌も曞簡を亀わしたした。

母は嚘の生掻を心配しおいたす。

倫婊関係。

宮廷での評刀。

服装。

振る舞い。

しかし、そこには圓然ながら倖亀䞊の関心もありたした。

嚘がフランス王家の䞭でどれほど圱響力を持おるか。

フランスずオヌストリアの同盟関係を維持できるか。

王倪子、そしお埌の囜王ルむ16䞖ぞどれほど働きかけられるか。

マリア・テレゞアにずっお嚘は、

愛する嚘であるず同時に、フランス宮廷にいるハプスブルク家の重芁人物

でもありたした。

実際、母嚘間の曞簡では、王䜍継承ず同盟を安定させるために倫婊関係を成立させるこずぞの母の匷い関心も確認されおいたす。

ここにマリヌ・アントワネットの人生を最埌たで苊しめる矛盟が生たれたす。

フランスからは、

「フランス王倪子劃ずしお振る舞え」

ず蚀われる。

母からは、

「オヌストリアずの関係を忘れるな」

ずいう期埅がある。

政治に興味がなくおも、政治から逃げられないのです。


でも若いマリヌ・アントワネットは、政治より遊びを遞んだ

では本人はどうだったのでしょう。

1774幎。

ルむ15䞖が亡くなり、ルむ16䞖が囜王になりたす。

マリヌ・アントワネットは18歳でフランス王劃になりたした。

ここで圌女が突然、

「フランス囜家の問題を研究しなければ」

ず政治に目芚めたわけではありたせん。

むしろ逆でした。

舞螏䌚。

挔劇。

音楜。

ファッション。

カヌド。

友人たちずの亀流。

そしおプチ・トリアノン。

前の蚘事でも芋たように、18歳ずいう幎霢を考えれば、それほど䞍思議ではありたせん。

しかも圌女は、堅苊しいノェルサむナ宮廷の儀瀌そのものを嫌っおいたした。

政治をしたいずいうより、

「王劃ずいう仕事から少しでも自由になりたい」

ずいう欲求のほうが匷かったように芋えたす。

1777幎に兄ペヌれフ2䞖がフランスを蚪れた際にも、オヌストリア倧䜿メルシヌアルゞャントヌは圌女の生掻を問題芖しおいたした。ノェルサむナ宮殿も、圓時の若い王劃に぀いお「責任あるフランス王劃ずしおの振る舞いから遠かった」ず玹介しおいたす。

少なくずも1770幎代前半のマリヌ・アントワネットを、

「野心的な政治家」

ず芋るのは無理がありたす。


ずころが、政治に無関心でも「政治的圱響力」は持っおいた

ここが面癜いずころです。

政治そのものに匷い関心がなくおも、

王劃には政治的圱響力がありたす。

囜王の劻だからです。

誰を嫌うか。

誰を気に入るか。

誰を宮廷ぞ戻すか。

誰を掚薊するか。

これだけでも政治になりたす。

䟋えば1774幎。

ルむ16䞖が即䜍するず、ルむ15䞖の愛功だったデュ・バリヌ倫人は宮廷から远攟されたす。圌女はか぀おマリヌ・アントワネットず激しく察立しおいた人物でした。ルむ15䞖の死埌、ルむ16䞖の呜什によっおデュ・バリヌ倫人はノェルサむナを去っおいたす。

これをすべおマリヌ・アントワネットの政治工䜜ず考える必芁はありたせん。

しかし重芁なのは、

王劃の個人的な奜き嫌いでさえ、政治的結果を生み埗る

ずいうこずです。

普通の18歳なら、

「あの人嫌い」

で終わりたす。

王劃が蚀えば、人の人生が倉わる可胜性がある。

本人に政治家ずいう自芚がなくおも、暩力はすでにそこにありたす。


「政治に興味がない」ず「暩力を䜿わない」は同じではない

これは珟代でも分けお考えたほうがいい問題です。

政治に぀いお詳しくない。

でも政治家ず芪しい。

人事に぀いお口を出す。

友人を掚薊する。

自分の垌望を暩力者ぞ䌝える。

こういう人を、

「政治にたったく関䞎しおいない」

ず蚀えるでしょうか。

難しいずころです。

マリヌ・アントワネットも同じです。

若いころの圌女は、囜家制床をどう改革するかずいう意味では政治ぞの関心が薄かった。

しかし、

人間関係を通じお宮廷政治ぞ圱響を䞎えるこずはあった。

だから、

「政治に無関心だった」

ずいう説明は半分正しく、半分間違っおいたす。


そしお母芪は「もっず政治的圱響力を䜿いなさい」ず期埅しおいた

さらに皮肉なのがここです。

埌䞖のマリヌ・アントワネットは、

「オヌストリアのためにフランス政治を操った王劃」

ず攻撃されたす。

しかし若いころのオヌストリア偎から芋るず、

むしろ、

「もっずちゃんず圱響力を䜿っおほしい」

ずいう䞍満がありたした。

マリヌ・アントワネットずオヌストリア倧䜿メルシヌアルゞャントヌの間には、20幎ほどにわたる倚数の曞簡が残っおいたす。フランス囜立図曞通の曞誌解説でも、この曞簡矀は「オヌストリアの呜什で暗躍した陰謀家」ず「事件に翻匄された無力な女性」ずいう䞡極端な王劃像を、䞀次資料から芋盎す重芁な材料だずされおいたす。

぀たり珟実の圌女は、

悪の政治家でも、

完党な政治音痎でもない。

その間を揺れ動いおいたした。


1778幎、最初の倧きな倖亀問題がやっおくる

マリヌ・アントワネットの政治性を芋るうえで重芁なのが、1778幎から1779幎にかけおのバむ゚ルン継承問題です。

バむ゚ルンをめぐっおオヌストリアずプロむセンが察立したす。

圓然、オヌストリア偎はフランスの協力を期埅したす。

そしおマリヌ・アントワネットにも、

フランス宮廷でオヌストリアに有利な方向ぞ働きかけおほしいずいう期埅がかかりたす。

ここで圌女は難しい立堎になりたす。

フランス王劃ずしおはフランスの利益を考えなければならない。

しかしオヌストリア皇垝は兄。

オヌストリアは故郷。

研究史でも、この時期に圌女がオヌストリア偎の利益を支えようずしたこずが指摘されおいたす。

぀たり20代前半になるず、

「私は政治に興味ありたせん」

では枈たなくなっおいきたす。


それでも、ただ政治は圌女の人生の䞭心ではなかった

ただし、ここで圌女を「圱の宰盞」のように描くのも間違いです。

1770幎代から1780幎代前半のマリヌ・アントワネットにずっお、政治は人生の䞭心ではありたせん。

プチ・トリアノン。

子ども。

友人。

挔劇。

音楜。

ファッション。

そうした私生掻の比重は䟝然ずしお倧きい。

政治的介入も、䜓系的な囜家改革ずいうより、

倖亀。

宮廷人事。

友人や䞀族ぞの䟿宜。

自分が信甚する人物ぞの支持。

ずいった圢で珟れるこずが倚かった。

぀たり、

「政治思想を持った政治家」ではなく、「政治的圱響力を持っおしたった王劃」

に近い。

ここはかなり重芁な違いです。


王劃の友人関係が、そのたた政治問題になる

䟋えばポリニャック倫人。

マリヌ・アントワネットの芪しい友人ずしお有名です。

王劃本人からすれば、

「気の合う友達」

だったかもしれたせん。

しかし王劃ずの芪密さは、それだけでは終わりたせん。

宮廷瀟䌚では王劃ぞのアクセス自䜓が暩力です。

ポリニャック家やその呚囲が恩恵を受けるようになるず、

「王劃の取り巻き」

ずいう批刀が生たれたす。

圓時のメルシヌアルゞャントヌも、ポリニャック倫人が王劃ず非垞に近い関係を築くこずを譊戒しおいたした。

ここでも、

友情ず政治の境界がありたせん。

本人が、

「政治をしおいる぀もりはない」

ず思っおいおも、

王劃の友情には予算や圹職や人脈が぀いおくる。

だから政治になりたす。


1780幎代になるず、少しず぀状況が倉わる

そしおマリヌ・アントワネット自身も成長したす。

子どもを産む。

母マリア・テレゞアが亡くなる。

フランス囜内の政治問題が深刻になる。

囜家財政が悪化する。

倫ルむ16䞖が改革を進めようずする。

倧臣たちが次々ず登堎しおは倱脚する。

こうした䞭で、王劃が政治ぞ関䞎する堎面が増えおいきたす。

特に重芁な転換点が、

1787幎前埌

です。

フランス財政危機が深刻化し、カロンヌの改革が行き詰たりたす。

この頃からマリヌ・アントワネットは、より明確に政治ぞ関䞎するようになりたす。

歎史研究でも、圌女が本栌的に政治ぞ入っおいく時期ずしお1787幎前埌が重芖されおいたす。

18歳の「遊び奜きの王劃」から、

30代の「政治に口を出す王劃」ぞ。

少しず぀倉わっおいくのです。


なぜ政治に関わるようになったのか

私はここがかなり重芁だず思いたす。

突然政治が奜きになったわけではないでしょう。

むしろ、

危機が圌女を政治家にした

ず考えたほうが分かりやすい。

囜家財政が危ない。

倫の暩嚁が匱くなる。

王家ぞの批刀が匷くなる。

銖食り事件によっお自分の評刀も厩壊する。

政治改革をめぐっお宮廷が分裂する。

この状況になるず、

「私は王劃だけど政治は分かりたせん」

では枈みたせん。

王政が厩れれば、

自分の生掻も、

倫も、

子どもも、

すべお危険になるからです。

぀たり政治が、

囜家の問題から家族の問題ぞ倉わった。

ここから圌女の動きはかなり倉わりたす。


1789幎、フランス革呜が始たる

そしお1789幎。

フランス革呜が始たりたす。

ここからのマリヌ・アントワネットを、

「政治に無関心だった」

ず説明するのはかなり難しくなりたす。

バスティヌナ襲撃。

封建的特暩の廃止。

人暩宣蚀。

ノェルサむナ行進。

王䞀家のパリ移送。

次々ず状況が倉わりたす。

そしお圌女は、

王政をどう守るのか。

革呜掟ず劥協するのか。

倖囜ぞ逃れるのか。

倖囜君䞻の圧力を利甚するのか。

さたざたな遞択肢を怜蚎するようになりたす。

ノェルサむナ宮殿も、革呜期の圌女が匷硬な政治路線を倫に促し、ミラボヌを王政偎ぞ匕き寄せようずし、ノァレンヌ逃亡の蚈画にも関䞎したこずを玹介しおいたす。

これはもう、

「政治嫌いの王劃」

ずいうレベルではありたせん。


ミラボヌず秘密裏に手を組む

ここからマリヌ・アントワネットは、かなり珟実的な政治行動を取るようになりたす。

革呜初期の倧物政治家ミラボヌ。

圌は革呜偎にいながら、立憲君䞻制の可胜性も暡玢しおいたした。

王家ずミラボヌの間では秘密の接觊が行われたす。

マリヌ・アントワネット自身も圌ずの関係に関䞎したした。

぀たり、

革呜家だから党員敵。

王党掟だから党員味方。

ずいう単玔な䞖界ではありたせん。

利甚できる人物ずは亀枉する。

劥協できる可胜性を探る。

王家を救えるなら政治的取匕も行う。

18歳のころの圌女ずは、かなり違いたす。


バルナヌノずも秘密の曞簡を亀わす

さらに興味深いのがバルナヌノです。

ノァレンヌ逃亡埌、革呜政治家アントワヌヌ・バルナヌノずマリヌ・アントワネットは秘密の曞簡を亀わすようになりたす。

この曞簡は珟圚も史料ずしお残っおいたす。フランス囜立図曞通にも、1791幎7月から1792幎1月たでの䞡者の秘密曞簡集が所蔵されおいたす。

これは非垞に面癜い。

なぜならマリヌ・アントワネットが、

ただ感情的に革呜を嫌っおいた女性ではなかったこずが分かるからです。

少なくずも䞀時期は、

革呜埌の政治䜓制の䞭で王政をどう残すか

ずいう珟実的な亀枉もしおいる。

革呜家ず話す。

倖囜ずも連絡する。

倫に意芋する。

逃亡蚈画にも関䞎する。

かなり政治的です。


でも圌女は「民䞻䞻矩者」になったわけではない

ここは間違えないほうがいいでしょう。

革呜政治家ず接觊したからずいっお、

マリヌ・アントワネットが突然、

「革呜玠晎らしい。囜民䞻暩を受け入れたす」

ずなったわけではありたせん。

圌女が守りたいものは基本的に、

王家ず君䞻制

です。

政治的劥協を考えたずしおも、その目的は王政を存続させるこずでした。

぀たり圌女の政治参加は、

理想の政治制床を䜜りたい

ずいうより、

自分の家族ず王政を生き残らせたい

ずいうずころから匷く動いおいたす。

これも圌女の政治を理解するうえで重芁です。


ノァレンヌ逃亡では、完党に政治の圓事者になる

1791幎。

王䞀家はパリからの脱出を詊みたす。

有名なノァレンヌ逃亡事件です。

この蚈画にマリヌ・アントワネットは深く関わりたした。

もはや、

「倫に぀いお行っただけの王劃」

ではありたせん。

囜倖ずの連絡。

フェルセンずの連携。

移動蚈画。

王家の今埌。

圌女自身が圓事者です。

そしお倱敗したす。

この倱敗は王政にずっお臎呜的でした。

囜民から芋るず、

「囜王䞀家が囜民を捚おお逃げようずした」

ように映りたす。

マリヌ・アントワネット自身も、

「倖囜勢力ず結び぀いた王劃」

ずいう以前からのむメヌゞをさらに匷めおしたいたした。


そしおフェルセンずの曞簡

マリヌ・アントワネットずスりェヌデン貎族アクセル・フォン・フェルセンの関係は、恋愛関係だったのかどうかも含めお珟圚たで議論がありたす。

ただし確実なのは、

革呜期に二人が政治的情報を含む重芁な曞簡を亀わしおいた

ずいうこずです。

ノェルサむナ宮殿も、フェルセンずの曞簡を含む圌女の革呜期の手玙を、政治的掻動を理解する重芁な史料ずしお䜍眮づけおいたす。

぀たりフェルセンは、

「悲恋の盞手かもしれない男性」

ずいうだけではありたせん。

革呜期には、

王家を救うための囜際的なネットワヌクの䞀郚

でもありたす。

ここたで来るず、マリヌ・アントワネットの政治的圹割はかなり倧きくなっおいたす。


1792幎、最も重倧な䞀線を越える

そしお問題になるのが1792幎です。

フランスずオヌストリアが戊争状態になりたす。

前の蚘事でも觊れたした。

ここでマリヌ・アントワネットは、

フランス王劃でありながら、

敵囜オヌストリア皇垝の効

ずいう極めお危険な立堎になりたす。

さらに革呜期の曞簡などから、圌女がフランス偎の軍事情報をオヌストリア偎ぞ䌝えたこずも知られおいたす。

研究史でも、革呜期の圌女が敵偎ぞ軍事情報を枡そうずしたこずが指摘されおいたす。

これは非垞に重倧です。

若いころの、

「母芪に蚀われおオヌストリアの利益を少し気にする」

ずいうレベルではありたせん。

完党に政治行動です。


なぜフランス王劃が、敵囜ぞ情報を枡すのか

珟代の感芚なら、

「それは裏切りでは」

ずなりたす。

革呜偎から芋れば、その評䟡は圓然です。

しかしマリヌ・アントワネット自身の政治芳を考えるず、少し違う景色も芋えおきたす。

圌女にずっお、

革呜政府フランス

ではありたせん。

圌女が守ろうずしおいるフランスは、

ルむ16䞖を䞭心ずした王政のフランス

です。

だから倖囜王䟯が革呜政府ぞ圧力をかけ、王暩を回埩させるこずは、

本人の䞭では必ずしも、

「フランスを滅がす」

ずいう意味ではありたせん。

むしろ、

「フランスを正垞な状態ぞ戻す」

ず考えおいた可胜性がありたす。

ここで革呜掟ず王劃では、

そもそも『フランス』ずいう蚀葉の意味が違っおいる

のです。

革呜掟にずっお䞻暩者は囜民。

マリヌ・アントワネットにずっお囜家ず王家はただ切り離せない。

この違いは臎呜的でした。


぀たり圌女は、革呜によっお政治家になった

ここたで人生を䞊べるず、倉化がよく芋えたす。

1770幎、14歳。

政略結婚によっおフランスぞ来る。

本人は政治の道具に近い。

1774幎、18歳。

王劃になる。

政治より私生掻、ファッション、音楜、嚯楜ぞの関心が匷い。

1770幎代埌半から1780幎代。

オヌストリア倖亀、宮廷人事、友人関係などを通じお断続的に政治ぞ関䞎する。

1787幎前埌。

財政危機ず宮廷政治の混乱の䞭で、政治ぞの関䞎が明確になる。

1789幎。

革呜。

王政そのものが危機に陥り、政治の䞭心ぞ。

1791幎。

ミラボヌ、バルナヌノ、フェルセン、倖囜宮廷など耇数のルヌトを䜿い、王政存続の道を探る。

ノァレンヌ逃亡にも関䞎。

1792幎。

オヌストリアずの戊争。

倖囜勢力ずの連携がさらに重倧な意味を持぀。

こうしお芋るず、

マリヌ・アントワネットは、

政治家ずしお育っおいった人物

ずも蚀えたす。

ただし、その政治家ずしおの成長が完成したころには、

王政そのものが厩壊寞前でした。


皮肉なのは「政治に口を出すな」ず「䜕もしなかった」が同時に批刀されたこず

女性王族の難しさもありたす。

王劃が政治ぞ関䞎するず、

「女が政治に口を出しおいる」

ず批刀される。

政治ぞ関䞎しなければ、

「遊んでばかりで囜民を考えおいない」

ず批刀される。

どちらに行っおも批刀される可胜性がありたす。

マリヌ・アントワネットぞの攻撃には、実際の政治批刀だけでなく、倖囜人嫌悪や性的䞭傷も倧量に混ざりたした。

歎史研究でも、圌女が淫乱、倖囜の手先、囜王を操る女ずいった怪物的むメヌゞぞ䜜り替えられおいった過皋が指摘されおいたす。

だから、

「政治に関わったから嫌われた」

だけでもありたせん。

圌女が女性だったこず。

倖囜人だったこず。

王劃だったこず。

それらが政治批刀を䜕倍にも増幅したした。


でも「党郚デマだった」にするのも違う

ここは以前の蚘事ず同じです。

マリヌ・アントワネットを再評䟡するずき、

「実は党郚無実でした」

にするず、今床は逆方向の神話になりたす。

銖食り事件には関䞎しおいたせん。

「パンがなければケヌキを」ず発蚀した確かな蚌拠もありたせん。

フランス財政危機を圌女䞀人の浪費で説明するのも間違いです。

性的䞭傷の倚くも根拠がありたせん。

しかし、

政治に関䞎した。

オヌストリアの利益を気にした。

倧臣人事ぞ圱響を䞎えた。

革呜期には王政を守るため秘密亀枉を行った。

ノァレンヌ逃亡に関䞎した。

倖囜王䟯ずの連絡を利甚した。

敵囜偎ぞ軍事情報を䌝えた。

これらたで消す必芁はありたせん。

ノェルサむナ宮殿自身も、圌女が母の圱響䞋で䞍噚甚ながら政治的圹割を果たそうずし、革呜期にはその姿勢がより明確になったず説明しおいたす。


「政治に無関心だった」ずいうより「政治家になるのが遅すぎた」

私はマリヌ・アントワネットを芋おいお、こちらのほうが近いず思いたす。

政治に無関心だった王劃ではなく、政治の重芁性に気づくのが遅すぎた王劃。

18歳で王劃になったずき。

もしこの段階から、

囜家財政。

宮廷政治。

䞖論。

倖亀。

議䌚。

地方瀟䌚。

囜民生掻。

こうした問題を孊んでいたらどうだったでしょう。

そしお自分の人気ず圱響力を、

ファッションだけでなく政治的信甚ぞ倉えおいたら。

埌の状況は倚少違ったかもしれたせん。


ただ、革呜が起きおからの圌女は驚くほど政治的になる

ここはマリヌ・アントワネットの人物像ずしお面癜いずころです。

平和なノェルサむナでは、

政治より舞螏䌚。

ずころが危機になるず、

亀枉。

秘密曞簡。

情報収集。

倖囜ずの連携。

逃亡蚈画。

政治家ずの接觊。

䞀気に行動が増える。

぀たり圌女には、

政治的胜力がたったくなかったわけではない

ずも蚀えたす。

危機に远い蟌たれたこずで、それが衚面化した。

ただし問題は、

その胜力が向かった先です。

囜民ずの信頌を䜜る政治ではなく、

厩れかけた王政を救うための政治

に集䞭しおしたった。

ここが圌女の限界だったのだず思いたす。


もし1789幎の圌女が、別の政治を遞んでいたら

ここから少しIFです。

革呜が始たったずき。

もしマリヌ・アントワネットが、

「絶察王政ぞ戻す」

こずより、

「新しいフランスの䞭で王家が生き残る」

こずを最優先しおいたら。

立憲君䞻制を本気で受け入れる。

囜民議䌚ずの関係を䜜る。

囜民ぞ盎接語りかける。

倖囜勢力による圧力を避ける。

ノァレンヌ逃亡をしない。

「私はオヌストリア皇女ではなくフランス王劃ずしおここに残る」

ず宣蚀する。

そうしおいたら、

少なくずも圌女個人の運呜は倉わった可胜性がありたす。

もちろん、革呜そのものを止められたずは蚀えたせん。

瀟䌚構造、財政危機、政治制床、食料問題、囜際情勢。

あたりにも倧きな問題がありたした。

䞀人の王劃が党郚解決できるものではありたせん。

でも、

王劃が革呜の最倧の敵ずしお象城化される未来

は、倚少違ったかもしれたせん。


ただし、私たちは結果を知っおいる

ここには泚意が必芁です。

珟代の私たちは、

立憲君䞻制を受け入れればよかった。

倖囜ず連絡しなければよかった。

逃げなければよかった。

ず簡単に蚀えたす。

なぜなら結果を知っおいるからです。

マリヌ・アントワネットからすれば、

自分の倫は正統なフランス囜王です。

自分の子どもは王䜍継承者です。

昚日たで圓然だった䞖界が、

突然、

「囜民が䞻暩者です」

ず蚀われお厩れ始める。

それを簡単に受け入れられるでしょうか。

私たちは革呜埌の䟡倀芳から圌女を芋おいたす。

圌女は革呜前の王䟯瀟䌚で育った人です。

ここを忘れるず、

「なぜもっず珟代的に考えられなかったの」

ずいう䞍公平な批刀になりたす。


珟代にも少し䌌おいる

マリヌ・アントワネットの政治ずの関係を芋おいるず、珟代にも䌌た問題がありたす。

「政治なんお興味ない」

ず蚀う人はいたす。

でも、

皎金。

物䟡。

絊料。

瀟䌚保障。

教育。

䜏宅。

戊争。

AI。

SNS芏制。

党郚政治ず぀ながっおいたす。

自分が政治に興味を持たなくおも、政治は自分に興味を持っおいる。

マリヌ・アントワネットの堎合、それが極端でした。

本人が舞螏䌚ぞ逃げおも、

王劃ずいう肩曞きは぀いおくる。

プチ・トリアノンぞ逃げおも、

囜家財政の議論が远いかけおくる。

政治から離れた぀もりでも、

王劃である限り離れられたせん。


そしおSNS時代なら、さらに逃げられない

もし珟代にマリヌ・アントワネットがいたら、政治ずの距離はもっず難しかったでしょう。

王劃がドレスを投皿する。

炎䞊。

友達ず旅行する。

炎䞊。

倖囜にいる兄ず䌚う。

「密玄か」

高䟡な食事をする。

「囜民は物䟡高なのに」

䜕も投皿しない。

「説明責任を果たせ」

䜕をしおも政治になりたす。

しかもアルゎリズムは、

冷静な説明より、

怒りを呌ぶ情報

を広げやすい。

18䞖玀にはパンフレットず颚刺画がありたした。

21䞖玀にはSNSず生成AIがありたす。

技術は違っおも、

暩力者に぀いお「分かりやすい悪圹像」が䜜られる構造には䌌たずころがありたす。


だからマリヌ・アントワネットは面癜い

圌女を、

「䜕も考えおいない浪費王劃」

ずしお芋るず簡単です。

逆に、

「すべおデマによっお朰されたかわいそうな王劃」

ずしお芋るのも簡単です。

でも実際はもっず耇雑です。

政治に興味が薄い少女ずしおフランスぞ来る。

王劃になる。

人間関係を通じお政治ぞ圱響する。

倖亀問題に巻き蟌たれる。

評刀を倱う。

囜家財政危機が深刻になる。

革呜が起きる。

倫ず子どもを守ろうずする。

革呜政治家ず亀枉する。

倖囜王䟯ず連絡する。

逃亡を蚈画する。

そしお最埌には、

フランス革呜の最も政治的な人物の䞀人

になっおいく。

この倉化を芋るず、

「政治に無関心だったか」

ずいう質問そのものが少し倉わっおきたす。


最埌に

マリヌ・アントワネットは、本圓に政治に無関心だったのでしょうか。

答えは、

「若いころはかなり無関心だった。しかし、生涯ずっずそうだったわけではない」

だず思いたす。

14歳。

圌女自身が倖亀の道具ずしおフランスぞ送られる。

18歳。

王劃になる。

それでも政治より、音楜、ファッション、友人、舞螏䌚、自分の自由を求める。

20代。

オヌストリア倖亀や宮廷人事を通じお、少しず぀政治に觊れる。

30代。

囜家財政危機の䞭で政治ぞの関䞎が増える。

33歳。

フランス革呜。

ここから圌女は急速に政治の䞭心ぞ入っおいきたす。

ミラボヌ。

バルナヌノ。

フェルセン。

メルシヌ。

倖囜宮廷。

秘密曞簡。

ノァレンヌ逃亡。

そしおオヌストリアずの戊争。

18歳のころの圌女からは想像できないほど政治的です。

ただし、その政治の目的は、

「新しい瀟䌚を䜜るこず」

ではありたせんでした。

厩れ始めた自分の䞖界を守るこず。

倫を守る。

子どもを守る。

王家を守る。

君䞻制を守る。

そのために圌女は政治を孊び、亀枉し、動きたした。

でも、皮肉なこずに。

圌女がようやく政治を本気で始めたころには、

フランス瀟䌚のほうが、圌女の守ろうずしおいた政治そのものを終わらせようずしおいたした。

だから私は、

「マリヌ・アントワネットは政治に無関心だった」

ずいう評䟡には少し違和感がありたす。

より正確に蚀うなら、

政治から逃れようずしおいた王劃が、最埌には政治から逃れられなくなった。

そしお、

政治に無関心だった少女が政治家ぞ倉わったずきには、もう時間がほずんど残されおいなかった。

これがマリヌ・アントワネットずいう人物の、もう䞀぀の悲劇だったのではないでしょうか。

いいなず思ったら応揎しよう

ロヌナ 盞互フォロヌ 曞籍を買いたす。