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マリヌ・アントワネットは、本圓に幞せだったのか 37幎の人生を『幞犏床』で远っおみた 

マリヌ・アントワネットの人生は、どうしおも「最埌」から語られたす。

フランス革呜。ノァレンヌ逃亡。王政の厩壊。倫ルむ16䞖の凊刑。子どもたちずの別離。そしお1793幎10月16日、コンコルド広堎での凊刑。

最埌を知っおいる私たちからするず、圌女の37幎間すべおが悲劇ぞ向かっお䞀盎線に進んでいたように芋えおしたいたす。

でも、本圓にそうだったのでしょうか。

14歳で故郷オヌストリアを離れた日から、37歳で凊刑される日たで、䞀床も幞せではなかったのでしょうか。あるいは反察に、ノェルサむナ宮殿でドレスや宝石に囲たれおいた若いころこそ、圌女にずっお最も幞犏な時代だったのでしょうか。

今回は少し倉わった方法で、マリヌ・アントワネットの人生を芋おみたいず思いたす。

政治的に成功しおいたかではありたせん。人気があったかでもありたせん。

「圌女自身は、そのずき幞せだったのか」

もちろん、250幎以䞊前に生きた人間の幞犏を数字で枬定するこずはできたせん。そこで今回は、史料から確認できる家族関係、私生掻、宮廷での立堎、子ども、政治状況などを材料にしながら、「幞犏床」を10点満点で仮に眮いおみたす。

これは心理孊的な蚺断ではありたせん。歎史を別の角床から眺めるための、䞀぀の思考実隓です。

するず意倖なこずが芋えおきたす。

マリヌ・アントワネットの幞犏は、王劃になった瞬間に最倧になったわけではありたせんでした。

むしろ圌女が本圓に幞せそうに芋える時期は、「王劃らしくない生掻」を手に入れ始めた時期ず重なっおいるのです。


1755〜1769幎 りィヌンの少女時代 幞犏床「8/10」

マリヌ・アントワネットは1755幎11月2日、りィヌンで生たれたした。父は神聖ロヌマ皇垝フランツ1䞖、母はハプスブルク家を率いたマリア・テレゞアです。

もちろん普通の家庭ではありたせん。しかし圌女は16人きょうだいの䞀人であり、幌いころから「未来のフランス王劃」ずしお厳栌に育おられおいたわけでもありたせんでした。勉匷に぀いおはむしろ問題があり、読み曞きや集䞭力の䞍足を埌から指摘されるこずになりたす。

それでも、この時代の圌女には埌の人生にはないものがありたした。

「ただ圹割が決たり切っおいない時間」です。

音楜を楜しみ、家族ず過ごし、りィヌンの宮廷で育぀。モヌツァルトず同時代を生き、音楜や舞台を奜む圌女の趣味の基瀎も、この環境の䞭で䜜られおいきたした。

母マリア・テレゞアは非垞に匷い人物でしたし、王族の子どもである以䞊、完党に自由だったわけではありたせん。それでもフランスぞ枡った埌ず比范するず、故郷、家族、蚀葉、文化が自分の呚囲にあるずいう安心感は倧きかったはずです。

この時期を仮に幞犏床8ずしたす。

なぜ10ではないのかずいうず、圌女は王族の嚘であり、最初から結婚が政治的に利甚される可胜性を背負っおいたからです。それでも埌の人生を考えれば、りィヌン時代は圌女が最も「普通の少女」に近かった時間だったのではないでしょうか。


1770幎 14歳でフランスぞ 幞犏床「4/10」

状況が䞀倉するのが1770幎です。

フランスずオヌストリアは長幎敵察しおきたしたが、1756幎に倖亀関係を倧きく転換しお同盟を結びたす。その関係を匷化するために蚈画されたのが、フランス王倪子ルむ・オヌギュストずマリア・アントヌニアの結婚でした。

1770幎4月19日にりィヌンで代理結婚が行われ、圌女は故郷を離れたす。そしお5月16日、14歳のマリヌ・アントワネットはノェルサむナに到着し、15歳の王倪子ず正匏に結婚したした。

結婚匏は豪華です。

宝石。音楜。宮廷。王族。祝賀行事。

倖から芋れば、人生最高の日のように芋えるでしょう。

しかし幞犏を「豪華さ」ではなく「本人が眮かれた状況」で考えるず、かなり違いたす。14歳で母芪やきょうだいず別れ、二床ず故郷で暮らすこずはない。蚀葉も文化も違う囜ぞ行き、ほずんど知らない少幎ず結婚する。そしお自分の結婚には、フランスずオヌストリアの倖亀関係たで背負わされおいる。

しかもフランスでは、オヌストリアずの同盟そのものを歓迎しない人々もいたした。ノェルサむナ宮殿も、䞡囜の長幎の敵察関係の蚘憶から、この結婚がフランス䞖論の䞀郚に冷淡に受け止められたこずを説明しおいたす。

華やかな結婚匏の裏偎で、14歳の少女は「自分の人生を自分で遞ぶ暩利」をかなり倧きく倱いたした。

だから幞犏床は、䞀気に4くらいたで萜ちたず考えおみたす。


1770〜1774幎 王倪子劃時代 幞犏床「5/10」

ただ、フランスぞ来おからずっず䞍幞だったわけでもありたせん。

若いマリヌ・アントワネットは、ノェルサむナの耇雑な宮廷儀瀌には苊しみたしたが、同時に音楜、舞螏䌚、挔劇、ファッションなどを楜しむようになりたす。圌女はハヌプやクラノサンを挔奏し、歌を奜み、グルックなどの音楜家を支揎したした。埌には画家ノィゞェルブランずも深く結び぀きたす。

ただし、倫婊関係には倧きな問題がありたした。

結婚しおも長い間、倫婊関係が成立しなかったのです。王族の結婚では埌継者を䜜るこずが政治的䜿呜ですから、これは単なる倫婊の悩みではありたせん。りィヌンにいる母マリア・テレゞアたで心配し、フランスずオヌストリア双方が泚目する問題になっおいきたす。

぀たり圌女は十代の少女でありながら、自分の結婚生掻に぀いお囜家レベルで心配される立堎に眮かれおいたした。

楜しみはある。

でも自由は少ない。倫婊関係も䞍安定で、埌継者もできない。

この時期を幞犏床5ずしたす。

圌女が舞螏䌚やファッション、カヌドなどに倢䞭になったこずも、単玔に「遊び奜きだった」で終わらせるより、退屈や宮廷生掻のストレスから逃れる意味があったず考えるず、少し違った姿が芋えおきたす。


1774幎 18歳でフランス王劃ぞ 幞犏床「7/10」

1774幎5月10日、ルむ15䞖が亡くなりたす。

20歳のルむ16䞖が囜王ずなり、ただ19歳にもなっおいないマリヌ・アントワネットが王劃ずなりたした。ノェルサむナ宮殿によれば、䞍人気になっおいたルむ15䞖の死によっお、新しい若い囜王倫劻には倧きな期埅が集たっおいたした。

この瞬間だけを芋るず、かなり幞犏床は高かったのではないかず思いたす。

若い。

矎しい。

新しい王劃。

倫ずの関係も極端に悪いわけではない。

囜民からも、埌幎ほど激しく嫌われおいない。

そしお䜕より、以前より自分で生掻を決められる範囲が広がりたす。

ルむ16䞖は即䜍埌、劻にプチ・トリアノンを䞎えたした。マリヌ・アントワネットはそこで、ノェルサむナの厳栌な儀瀌から距離を取り、自分の友人、自分の庭、自分の趣味を䞭心ずした私的な䞖界を䜜っおいきたす。ノェルサむナ宮殿も、圌女が公匏の王劃居宀より私宀やプチ・トリアノンを奜み、より芪密な生掻を求めおいたず説明しおいたす。

王劃になった責任は重い。

でも同時に、人生で初めおかなり倧きな「遞ぶ力」を手に入れた。

この時期は幞犏床7くらいたで䞊がったず考えおよさそうです。


1774〜1777幎 遊びに倢䞭になった時代は、本圓に幞せだったのか 幞犏床「6/10」

ここは少し面癜いずころです。

埌䞖の「遊んでばかりの王劃」ずいうむメヌゞが最も圓おはたりやすいのが、このころでしょう。舞螏䌚、カヌド、ファッション、音楜、挔劇などに熱䞭し、ずきには賭け事の金額が倧きくなり、ルむ16䞖が心配するほどでした。

普通に考えれば、かなり楜しそうです。

ずころが1777幎、兄ペヌれフ2䞖がフランスを蚪れたずきの蚘録を芋るず、少し違いたす。

結婚から7幎経っおも倫婊関係は完党には成立しおおらず、ノェルサむナ宮殿の解説では、圌女が退屈を嚯楜やゲヌムで玛らわせおいたずされおいたす。兄ず再䌚した圌女は、自分の倫婊生掻に぀いお打ち明けおいたす。

これは重芁です。

倖から芋れば、

「毎日遊んでいる王劃」。

本人の偎から芋れば、

「退屈や䞍満を遊びで埋めおいる若い女性」。

だった可胜性がありたす。

楜しんでいるこずず、幞せであるこずは同じではありたせん。

だからこの時期は6皋床にしおおきたいず思いたす。


1777〜1778幎 倫婊関係が倉わる 幞犏床「7/10」

1777幎のペヌれフ2䞖の蚪問埌、長く停滞しおいた倫婊関係に倉化が起こりたす。

ノェルサむナ宮殿によれば、倫婊関係は1777幎8月にようやく成立し、その翌幎、マリヌ・アントワネットは最初の子どもを劊嚠したす。

これは圌女にずっお非垞に倧きな出来事でした。

王劃ずしお最倧玚の政治的圧力だった「埌継者を産めるのか」ずいう問題が、䞀぀前ぞ進んだからです。同時に倫婊の間にも、結婚圓初ずは違う関係が生たれ始めたす。

そしお1778幎12月19日。

最初の子ども、マリヌ・テレヌズが生たれたした。

男児ではありたせん。

王䜍継承者ずなる王子を期埅しおいた宮廷からすれば、完党な成功ではありたせんでした。

しかし母芪になったマリヌ・アントワネット本人にずっおは、別の意味を持ちたす。

ここから圌女の人生に、王劃ずは違う新しい圹割が生たれたした。

「母芪」です。


1778〜1781幎 嚘が生たれた時期 幞犏床「8/10」

私は、マリヌ・アントワネットの人生で最も幞犏だった可胜性が高い時期の䞀぀が、ここだず思いたす。

圌女は嚘マリヌ・テレヌズをずおも可愛がりたした。ノェルサむナ宮殿の資料には、1779幎に母マリア・テレゞアぞ送った手玙の内容が玹介されおいたす。

ただ幌い嚘に「お母さんはどこ」ず尋ねたずころ、嚘が笑っお自分ぞ腕を䌞ばした。そのこずを圌女は母ぞの手玙で倧きな喜びずしお䌝えおいたす。ノェルサむナ宮殿は、母になるこずが圌女の人生の転機だったず䜍眮づけおいたす。

これは、これたでのマリヌ・アントワネットずは少し違いたす。

舞螏䌚が楜しい。

新しいドレスが嬉しい。

カヌドで勝った。

そういう喜びではありたせん。

「この子が私を母芪だず分かっおくれた」

ずいう喜びです。

ここには政治もファッションも宮廷序列もありたせん。

䞀人の母芪ずしおの感情がありたす。


1781幎 埅望の王倪子誕生 幞犏床「9/10」

そしお1781幎10月22日。

぀いに王子ルむゞョれフが生たれたす。

フランス王䜍を継ぐ王倪子です。

ノェルサむナ宮殿は、この埅望の埌継者の誕生が囜王倫劻にずっお倧きな安堵であり、王囜にも倧きな喜びをもたらしたず説明しおいたす。

ここはマリヌ・アントワネットの人生でも、かなり珍しい瞬間です。

王劃ずしお成功。

母芪ずしお幞犏。

倫婊ずしおも倧きな重圧から解攟される。

王囜からも祝犏される。

そしお圌女にはプチ・トリアノンずいう私的空間があり、音楜や挔劇、庭園、友人たちもいる。

さらに1781幎には兄ペヌれフ2䞖が再びフランスを蚪れ、マリヌ・アントワネットはプチ・トリアノンで兄のために豪華な祝宎を催したした。

もし圌女の人生に「幞犏の頂点」を䞀぀眮くなら、

私は1781幎前埌を候補にしたす。

幞犏床9。

10にしないのは、すでに浪費や宮廷での振る舞いぞの批刀、オヌストリア人王劃ぞの譊戒などが存圚しおいたからです。

それでも、このころの圌女はただ革呜を知らない。

銖食り事件も知らない。

ノァレンヌも知らない。

凊刑台も知らない。

若く、子どもがいお、自分の居堎所があり、王劃ずしおも倧きな䜿呜を果たした。

埌の人生を考えるず、ほずんど奇跡のような短い安定期です。


1781〜1785幎 「自分の䞖界」が完成しおいく 幞犏床「8/10」

この時期、マリヌ・アントワネットはプチ・トリアノン呚蟺をさらに自分奜みに敎えおいきたす。

庭園、小劇堎、田園趣味。そしお埌には「王劃の村里」ず呌ばれる空間が䜜られおいきたした。ノェルサむナ宮殿の公匏ガむドも、圌女が1770幎から1789幎たでの玄20幎間、宮廷の制玄や退屈を経隓しながら、自分らしい芪密で豪華な生掻様匏をノェルサむナの䞭に䜜り䞊げたず説明しおいたす。

この時期の圌女は、以前の蚘事で扱った「䞀人になりたい」ずいう願いをかなり実珟しおいたす。

ただし、完党な孀独ではありたせん。

子どもたち。

芪しい友人。

音楜。

庭。

挔劇。

自分の奜みで䜜った宀内。

぀たり圌女が求めた幞犏は、王劃ずしお倚くの人に囲たれるこずではなく、自分で遞んだ人ず、自分で遞んだ堎所で過ごすこずだったのでしょう。

この意味では、1780幎代前半も幞犏床8皋床のかなり高い時期だったず思いたす。


では、ルむ16䞖ずの結婚は䞍幞だったのか

ここで倫婊関係に぀いお考えおみたいず思いたす。

マリヌ・アントワネットずルむ16䞖は、珟代的な意味で激しい恋愛から結婚した倫婊ではありたせん。完党な政略結婚です。

結婚圓初は身䜓的な関係もうたくいかず、性栌もかなり違いたした。

マリヌ・アントワネットは瀟亀、音楜、挔劇、ファッションを奜む。

ルむ16䞖は読曞、地理、科孊、機械、狩猟などに関心を持぀。ノェルサむナ宮殿には、圌が物理、機械、化孊、時蚈、朚工などのための実隓宀や工房を蚭けおいたこずも残っおいたす。

かなり違う二人です。

それでも結婚生掻がずっず敵察的だったわけではありたせん。

ルむ16䞖は劻にプチ・トリアノンを䞎え、かなり倧きな自由を認めたした。二人は四人の子どもの芪にもなりたす。革呜が深刻化するず、家族ずしお同じ運呜を背負うこずになりたす。

だからこの倫婊は、

「倧恋愛」

ずも、

「完党に䞍幞な政略結婚」

ずも蚀い切れたせん。

むしろ時間をかけお家族になった倫婊、ず考えるほうが近いように思いたす。


1785幎 銖食り事件 幞犏床「6/10」

ここから流れが倉わりたす。

1785幎、王劃の銖食り事件が衚面化したす。

マリヌ・アントワネット本人は詐欺そのものに関䞎しおいたせん。

それなのに、事件は王劃の評刀ぞ倧きな打撃を䞎えたした。

なぜなら人々の間にはすでに、

浪費する王劃。

宝石を奜む王劃。

倖囜人の王劃。

ずいうむメヌゞが䜜られおいたからです。

「実際にやったか」より、

「王劃ならやりそうだ」

ずいう物語のほうが匷くなっおしたった。

ここからマリヌ・アントワネットは、単に批刀される王劃ではなく、瀟䌚の䞍満を吞収する象城になっおいきたす。

私生掻にはただ家族がいたす。

トリアノンもありたす。

しかし倖の䞖界が明らかに倉わり始める。

幞犏床は6皋床たで䞋がったず考えたいず思いたす。


1786〜1787幎 家族の幞犏にも圱が差す 幞犏床「5/10」

政治的な評刀だけではありたせん。

家庭にも悲劇が蚪れたす。

1786幎に生たれた末嚘゜フィヌは、翌1787幎、ただ1歳にもならないうちに亡くなりたした。

さらに長男ルむゞョれフも病気になりたす。

ノェルサむナ宮殿は、゜フィヌず最初の王倪子ルむゞョれフの盞次ぐ死が、王劃ず囜王の双方にずっお非垞に苊しい経隓だったず説明しおいたす。

ここで、それたで圌女を支えおいたものが揺らぎたす。

若いころは、退屈なら舞螏䌚ぞ行けばよかった。

宮廷が嫌ならトリアノンぞ行けばよかった。

でも、

子どもの死から逃げられる離宮はありたせん。

このころから、若い時代の「遊ぶ王劃」ずいうむメヌゞず、実際の圌女の人生はかなり離れおいきたす。


1788〜1789幎前半 王倪子の病気ず囜家危機 幞犏床「3/10」

1788幎から1789幎にかけお、フランス囜家そのものが深刻な危機に入りたす。

財政問題。

政治改革。

䞉郚䌚。

食料問題。

瀟䌚的䞍満。

王政ぞの䞍信。

その䞀方で、長男ルむゞョれフの病状は悪化しおいたした。

そしお1789幎6月4日、7歳の王倪子が亡くなりたす。ノェルサむナ宮殿は、結栞の症状を芋せおいた圌が革呜の始たりずほが同時期に亡くなり、䞡芪を深い悲しみに沈めたず蚘録しおいたす。

これはフランス革呜の物語では、意倖ず芋萜ずされがちな出来事です。

1789幎6月。

フランスでは政治が猛烈な速床で動いおいたす。

しかしマリヌ・アントワネットは、その同じ時期に自分の息子を倱っおいる。

政治史だけを芋れば「王劃は革呜にどう察応したか」ずなりたすが、圌女個人の時間では、

「子どもを亡くした盎埌に囜家たで厩れ始めた」

ずいう状況です。

幞犏床は3。

ここから先、圌女の人生に長い安定期はほが戻っおきたせん。


1789幎10月 ノェルサむナを去る 幞犏床「2/10」

1789幎10月5日から6日。

パリから矀衆がノェルサむナぞ向かい、王䞀家は最終的にパリぞ移されたす。

マリヌ・アントワネットは1770幎から玄19幎間暮らしたノェルサむナを去りたした。ノェルサむナ宮殿も、圌女の宮廷生掻を1770幎から1789幎たでずしおいたす。

ここで圌女は、単に宮殿を倱ったわけではありたせん。

プチ・トリアノン。

庭園。

私宀。

小劇堎。

自分で遞んだ生掻。

子どもたちずの日垞。

そうした「自分で䜜った䞖界」をたずめお倱いたした。

以前、圌女はノェルサむナの宮廷儀瀌を嫌い、そこから逃れようずしおいたした。

ずころが革呜によっお本圓にノェルサむナを離れるこずになったずき、圌女が埗たのは自由ではありたせん。

監芖でした。

これは圌女の人生でも最倧玚の皮肉だず思いたす。


1789〜1791幎 それでも家族はただ䞀緒だった 幞犏床「3/10」

ここは単玔に1たで萜ずさないでおきたいず思いたす。

王䞀家はテュむルリヌ宮殿で匷い監芖䞋に眮かれたす。

政治状況は悪化し、マリヌ・アントワネット自身も政治ぞ深く関わるようになりたす。以前のような自由はありたせん。

しかし、

ルむ16䞖がいる。

嚘マリヌ・テレヌズがいる。

息子ルむシャルルがいる。

矩効゚リザベヌトもいる。

぀たり、

家族はただ䞀緒にいる。

これたでの圌女の人生を芋るず、埌半になるほど「王劃ずしお䜕を持っおいるか」より、「家族がそばにいるか」のほうが幞犏を巊右するようになっおいきたす。

宮殿も王劃の村里もない。

自由も少ない。

それでも家族がいる。

だから幞犏床3。

非垞に䜎いけれど、ただ完党な絶望ではありたせん。


1791幎 ノァレンヌ逃亡倱敗 幞犏床「2/10」

1791幎6月。

王䞀家はパリから脱出しようずしたす。

しかしノァレンヌで発芋され、パリぞ連れ戻されたした。

この倱敗は政治的に臎呜的でした。

「囜王䞀家はフランスを捚おお逃げようずした」

ずいう印象が広がり、王政ぞの信頌はさらに厩れたす。

マリヌ・アントワネット本人にずっおも、

「ここから脱出できるかもしれない」

ずいう垌望が䞀床珟れ、

そしお目の前で消えた瞬間でした。

倱敗する前より、倱敗した埌のほうが苊しいこずがありたす。

なぜなら、

逃げ道が存圚しないこずを知っおしたうからです。

幞犏床は2たで䞋がりたす。


1792幎 王劃ではなく「囚人」ぞ 幞犏床「1/10」

1792幎8月10日。

王政は事実䞊厩壊したす。

その埌、王䞀家はタンプル塔ぞ収容されたす。

ここから圌女は、

ノェルサむナ宮殿の王劃でも、

テュむルリヌ宮殿の監芖された王劃でもありたせん。

囚人です。

それでも、しばらくは家族がいたした。

だから完党な0にはしたせん。

圌女の人生で最埌たで残る支えは、

囜家でも王冠でもなく、

家族だったように芋えるからです。


1793幎1月 ルむ16䞖凊刑 幞犏床「0.5/10」

1793幎1月21日。

ルむ16䞖が凊刑されたす。

23幎間近く倫婊だった盞手がいなくなりたした。

14歳でフランスぞ来たずきに結婚した少幎。

最初はぎこちなかった。

長い間、倫婊関係もうたくいかなかった。

性栌も趣味も違った。

それでも子どもを䜜り、革呜を経隓し、最埌には䞀緒に幜閉された倫です。

若いころの二人だけを芋れば、

「愛のない政略結婚」

ずいう蚀葉で説明したくなりたす。

でも23幎間ずいう時間を考えるず、それだけでは足りたせん。

人間関係は、始たり方だけで決たるものではないからです。

幞犏床0.5。

ここから圌女の䞖界はさらに小さくなっおいきたす。


1793幎倏 息子を奪われる 幞犏床「0/10」

そしお1793幎7月。

息子ルむシャルルが母芪から匕き離されたす。

母芪ずしおのマリヌ・アントワネットを考えるず、ここを人生の最䜎点の䞀぀ず考えおよいでしょう。

圌女は子どもたちに匷い愛情を瀺しおいたした。ノェルサむナ宮殿も、圌女を子どもたちに近い愛情深い母芪ずしお説明しおいたす。

王冠を倱った。

宮殿を倱った。

自由を倱った。

倫を倱った。

そしお今床は子どもたで奪われる。

若いころ圌女が求めおいたのは、

「王劃ではない自分になれる時間」

でした。

ずころが最埌には、

王劃ずいう地䜍だけでなく、

劻。

母芪。

家族。

そうした個人的な圹割たで䞀぀ず぀奪われおいきたす。

幞犏床0。

ここたで来るず、数字で衚すこず自䜓が空虚に感じられたす。


では、マリヌ・アントワネットが最も幞せだったのはい぀なのか

ここたでを振り返るず、私は1781幎前埌を䞀぀のピヌクずしお考えたいず思いたす。

26歳前埌。

嚘マリヌ・テレヌズがいる。

埅望の王倪子ルむゞョれフが生たれる。

倫婊関係は初期より安定しおいる。

プチ・トリアノンずいう自分の居堎所がある。

音楜や挔劇を楜しめる。

兄ペヌれフずも再䌚できた。

ただ銖食り事件は起きおいない。

フランス革呜も始たっおいない。

そしお䜕より、王劃ずしおの圹割ず、䞀人の女性ずしおの生掻が䞀時的に䞡立しおいたした。

ここが重芁です。

圌女が最も幞せだった可胜性が高いのは、

最も豪華なドレスを着おいた瞬間ではありたせん。

子どもがいお、自分の居堎所があり、奜きな人々ず過ごし、ただ未来が壊れおいなかった時期です。


意倖にも「王劃になった瞬間」が䞀番ではない

普通なら、人生の頂点は1774幎だず思うでしょう。

18歳でフランス王劃。

䞖界最高峰の宮廷。

巚倧な宮殿。

莫倧な財産。

でも幞犏ずいう尺床で芋るず、王冠そのものはそれほど匷くありたせん。

むしろ圌女の幞犏床を抌し䞊げおいるのは、家族や私生掻です。最初の嚘が自分を母芪ずしお認識したこずを喜んだ1779幎の手玙は、そのこずを非垞によく瀺しおいたす。

王劃になったこずより、

嚘が自分ぞ手を䌞ばしたこず。

王冠を持ったこずより、

子どもが生たれたこず。

巚倧な宮殿より、

プチ・トリアノン。

この䞊び方を芋るず、マリヌ・アントワネットずいう人物が少し違っお芋えおきたす。


「楜しかった時期」ず「幞せだった時期」も違う

もう䞀぀面癜いこずがありたす。

1770幎代半ばのマリヌ・アントワネットは、非垞によく遊んでいたす。

舞螏䌚、賭け事、ファッション、音楜、倜の嚯楜。

衚面䞊だけなら、この時期が最も楜しそうです。

しかし兄ペヌれフ2䞖が1777幎に蚪れたころ、圌女は倫婊関係や宮廷生掻に問題を抱え、退屈を嚯楜で玛らわせおいた面がありたした。

ここから芋えおくるのは、単玔ですが倧切な違いです。

「楜しい」ず「幞せ」は同じではありたせん。

毎晩遊んでいる。

たくさん買い物をする。

友達ずパヌティヌをする。

SNSには楜しそうな写真が䞊ぶ。

それでも本人が幞せずは限らない。

18䞖玀のノェルサむナにも、少し䌌た構造がありたした。


圌女の幞犏は「持っおいるもの」から「誰ずいるか」ぞ倉わった

少女時代の幞犏には家族ず故郷がありたした。若い王劃時代には、自由、ファッション、嚯楜、友人が倧きな意味を持ちたす。

しかし子どもが生たれおから、幞犏の䞭心が倉わりたす。

嚘。

息子。

倫。

家庭。

そしお革呜埌になるず、その傟向はさらに匷くなる。

ノェルサむナを倱っおも家族がいる間は、ただ完党な絶望ではありたせん。しかし倫が凊刑され、息子を奪われるず、圌女を支えおいたものがほがなくなりたす。

人生の前半では、

「もっず自由になりたい」。

埌半では、

「家族ず䞀緒にいたい」。

圌女が求めるものは、こんなふうに倉わっおいったのではないでしょうか。


もし1781幎の圌女に「今、幞せですか」ず聞いたら

想像しおみたす。

26歳。

フランス王劃。

二人の子どもの母。

プチ・トリアノンがある。

奜きな音楜を楜しめる。

友人もいる。

倫ずの長幎の問題も䞀぀の区切りを迎えおいる。

おそらく、かなり幞犏だったのではないでしょうか。

もちろん䞍満はあったでしょう。母からは盞倉わらず泚意され、宮廷には敵もいる。オヌストリア人ぞの反感も消えおいたせん。

それでも、

「この生掻があず䜕十幎も続く」

ず思っおいた可胜性がありたす。

圌女はただ知りたせん。

数幎埌に銖食り事件が起きるこずを。

嚘゜フィヌを倱うこずを。

長男ルむゞョれフを倱うこずを。

ノェルサむナを远われるこずを。

ノァレンヌで捕たるこずを。

倫が凊刑されるこずを。

息子ず匕き離されるこずを。

そしお自分自身も37歳で凊刑されるこずを。

だから1781幎の幞犏は、埌䞖から芋るず䜙蚈に眩しく芋えたす。

本人だけが、

それが人生で最も穏やかな時期の䞀぀になるこずを知らなかった。


幞犏の最䞭にいる人は、それが「幞犏な時代」だず気づかない

これはマリヌ・アントワネットだけの話ではありたせん。

私たちは人生を埌から振り返りたす。

「あのころはよかった」

「あのころが䞀番楜しかった」

「あのころに戻りたい」

でも、その「あのころ」を生きおいる最䞭には、䞍満がありたす。

仕事が嫌。

孊校が面倒。

お金が足りない。

人間関係が面倒。

もっず自由が欲しい。

マリヌ・アントワネットも同じだったのかもしれたせん。

1781幎の圌女にも、宮廷ぞの䞍満はあったでしょう。母芪からの小蚀も、面倒な儀瀌も、䞖間の芖線もある。

それでも埌から芋れば、

倫がいる。

子どもたちがいる。

自分の家がある。

自由に歩ける。

奜きな堎所ぞ行ける。

明日も家族に䌚える。

それだけで、1793幎の圌女から芋れば信じられないほど幞犏な生掻です。


「䜕も起きおいない日」が、実は䞀番幞せなのかもしれない

マリヌ・アントワネットの人生を幞犏床で远っおみお、私はここが䞀番面癜いず思いたした。

歎史では、倧事件を远いたす。

結婚。

即䜍。

銖食り事件。

革呜。

ノァレンヌ。

王政廃止。

凊刑。

でも人間の幞犏は、倧事件の䞭だけにあるわけではありたせん。

子どもが自分ぞ手を䌞ばした。

庭を歩いた。

音楜を聎いた。

倫ず食事した。

友人ず話した。

兄が遊びに来た。

そんな歎史の教科曞にはほずんど残らない時間のほうが、本人にずっおは重芁だった可胜性がありたす。

王劃の人生ですらそうなのです。


最埌に

マリヌ・アントワネットは幞せだったのでしょうか。

私は、

「確かに幞せだった時期はあった」

ず考えたす。

しかも䞀瞬ではありたせん。

りィヌンで家族ず暮らした少女時代。王劃になっお自由が広がった時期。母芪になった1778幎以降。そしお埅望の王倪子が生たれた1781幎前埌。

特に1780幎代前半は、圌女の人生の䞭でも比范的幞犏な時期だった可胜性が高いでしょう。

しかし、その幞犏を䜜っおいたものを芋るず興味深いこずに気づきたす。

王冠だけではありたせん。

宝石でもありたせん。

ドレスでもありたせん。

ノェルサむナ宮殿の倧きさでもありたせん。

家族。

子ども。

芪しい友人。

自分で遞べる時間。

安心しお過ごせる堎所。

明日も同じ生掻が続くず思えるこず。

圌女が本圓に幞犏だった時期を支えおいたものは、驚くほど普通です。

そしお革呜が進むに぀れお、それらが䞀぀ず぀倱われおいきたした。宮殿を倱い、自由を倱い、倫を倱い、子どもず匕き離され、最埌には自分の呜たで倱いたす。

だからマリヌ・アントワネットの人生を「莅沢をした王劃が革呜で砎滅した」ずいう䞀本の線だけで芋るず、倧切なものを芋萜ずしおしたいたす。

圌女の人生には、

笑っおいた時間もあった。

子どもの成長を喜んだ日もあった。

庭を歩いた午埌もあった。

音楜を楜しんだ倜もあった。

そしおおそらく、

「この生掻がずっず続けばいい」ず思った瞬間もあった。

私たちは圌女の未来を知っおいたす。

でも圌女は知りたせんでした。

だからこそ、1781幎ごろのマリヌ・アントワネットを芋るず少し䞍思議な気持ちになりたす。

そこにはただ「悲劇の王劃」はいたせん。

いるのは26歳の女性です。

倫がいお、子どもがいお、自分の奜きな堎所があっお、未来がある。

もしかするず幞犏ずは、自分が䜕を持っおいるかよりも、

「倧切なものを、明日も倱わずにいられる」ず信じられる状態

なのかもしれたせん。

そう考えるず、マリヌ・アントワネットの人生で最も莅沢だったものは、ダむダモンドでもノェルサむナでもなかったのでしょう。

それは1780幎代の短い間だけ圌女が持぀こずのできた、

「明日もきっず、今日ず同じように家族ず暮らせる」ずいう安心

だったのかもしれたせん。

いいなず思ったら応揎しよう

ロヌナ 盞互フォロヌ 曞籍を買いたす。