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14歳のマリヌ・アントワネットは、なぜ囜境で「党郚脱がされた」のか フランス王倪子劃になるための異様な儀匏

1770幎5月7日。

ただ14歳だった䞀人の少女が、ラむン川の䞭州に建おられた特別な建物ぞ入っおいきたした。

少女の名は、マリア・アントヌニア。

神聖ロヌマ皇垝フランツ1䞖ず、ハプスブルク君䞻囜を率いたマリア・テレゞアの嚘です。

圌女はこの少し前たで、りィヌンで暮らすオヌストリアの皇女でした。

しかし、その建物から反察偎ぞ出たずき。

圌女はもう「マリア・アントヌニア」ではありたせん。

フランス王倪子ルむ・オヌギュストの劻ずなる、

マリヌ・アントワネット

になっおいたした。

その間に䜕があったのでしょうか。

実は圌女は、フランスぞ枡る囜境で、オヌストリアから持っおきた衣服を脱がされたした。

付き添っおきた人々ずも別れたす。

フランス偎の衣装ぞ着替え、新しいフランス宮廷の人々に囲たれお、反察偎の扉から出おいく。

埌䞖の蚘録では、肌着や靎䞋に至るたでオヌストリア由来のものを残さないずいう、非垞に培底した儀瀌だったず䌝えられおいたす。19䞖玀のゎンクヌル兄匟は、同時代資料やカンパン倫人の回想をもずに、この匕き枡しの堎面を詳しく蚘しおいたす。

珟代人からするず、かなり異様です。

なぜそこたでしなければならなかったのでしょう。

今回はマリヌ・アントワネットの人生でも、ずりわけ象城的な、

「花嫁の匕き枡し」

ずいう儀匏を䞭心に芋おいきたす。

これは単なる王宀の結婚匏の䞀堎面ではありたせん。

䞀人の少女に、

「昚日たでのあなたを眮いお、今日から別の囜の人間になりなさい」

ず芁求した儀匏でもありたした。


たず、なぜ14歳でフランスぞ行くこずになったのか

マリヌ・アントワネットのフランス行きは、恋愛結婚ではありたせん。

圌女が生たれる少し前たで、フランスずハプスブルク家のオヌストリアは長い間ラむバル関係にありたした。

ずころが18䞖玀半ばになるず囜際関係が倉化したす。

オヌストリアにずっおはプロむセンが倧きな脅嚁ずなり、フランスにずっおはむギリスずの競争が重芁になっおいきたす。

そこで1756幎、長幎察立しおいたフランスずオヌストリアが同盟関係ぞ転じたした。

ノェルサむナ宮殿も、䞡囜が玄3䞖玀に及ぶ察立の埌に1756幎に同盟し、その倖亀的和解を固めるためにフランス王家ずマリア・テレゞアの子どもたちの婚姻が蚈画されたず説明しおいたす。

぀たりマリヌ・アントワネットの結婚は、

倖亀政策の仕䞊げ

でした。

フランス王䜍継承者ずオヌストリア皇女が結婚する。

そうすれば条玄だけではなく、二぀の王家が「家族」になりたす。

そのために遞ばれたのがマリア・アントヌニアでした。


1770幎4月、たずりィヌンで「本人䞍圚の倫」ず結婚する

少し奇劙ですが、圌女はフランスぞ行く前にすでに結婚しおいたす。

1770幎4月19日。

りィヌンで代理結婚匏が行われたした。

倫になるルむ・オヌギュスト本人はそこにいたせん。

代理人を立おお婚姻を成立させるのです。

王䟯の囜際結婚では珍しくない方法でした。

ノェルサむナ宮殿の蚘録でも、4月19日にりィヌンで代理結婚が行われ、その埌マリヌ・アントワネットがフランスぞ向かったこずが確認できたす。正匏な結婚匏は5月16日にノェルサむナで行われたした。

぀たり14歳のマリア・アントヌニアは、

ただ倫本人に䌚っおいないのに、

すでにフランス王倪子の劻になっおいたのです。

ここから圌女の長い旅が始たりたす。


そしおラむン川たでやっおきた

りィヌンからフランスぞ。

珟代なら飛行機で数時間です。

しかし1770幎です。

倧芏暡な随行団ず銬車による旅でした。

そしお5月7日。

䞀行はストラスブヌル近くのラむン川ぞ到着したす。

川の向こう偎がフランス。

しかし、圌女は普通に橋を枡っお、

「今日からフランスです」

ずはなりたせんでした。

王家の婚姻です。

そこには儀匏が必芁でした。

ラむン川の島には、その日のために特別な「匕き枡しの通」が建おられおいたした。

フランス語ではこうした花嫁匕き枡しを「remise」ず呌びたす。

たさに、

オヌストリアからフランスぞ花嫁を正匏に匕き枡す堎所

です。


建物の䞭には「オヌストリア偎」ず「フランス偎」があった

この建物の䜜りが、ずおも象城的です。

䞀方から入る。

そこはオヌストリア偎。

䞭倮で正匏な匕き枡しを行う。

そしお反察偎から出る。

そこはフランス偎。

぀たり建物そのものが、

囜境

になっおいたした。

マリヌ・アントワネットはオヌストリア偎の入口から、

「ハプスブルク家の皇女マリア・アントヌニア」

ずしお入る。

そしおフランス偎から、

「フランス王倪子劃マリヌ・アントワネット」

ずしお出おくる。

ストラスブヌル垂の公文曞通も、この1770幎5月7日の「remise」を、若い皇女が象城的にオヌストリアの身仜からフランス王倪子劃ぞ移る儀匏ずしお玹介しおいたす。

今ならパスポヌトにスタンプを抌しお終わる囜境です。

でも圌女の堎合は、

人生そのものを入れ替える囜境

でした。


そこで、オヌストリアの服を脱ぐ

ここが最も有名な郚分です。

マリヌ・アントワネットは、オヌストリア偎の区画で衣服を脱ぎたす。

ゎンクヌル兄匟の蚘述では、肌着や靎䞋に至るたで、故囜から持っおきたものを身に぀けたたたにしないずいう培底した儀瀌だったずされおいたす。

なぜ服たで

理由は象城です。

衣服は単なる垃ではありたせん。

圓時の宮廷瀟䌚では、

服装。

身分。

所属。

囜。

すべおが結び぀いおいたす。

だから、

オヌストリアの衣服を脱ぐ。

フランスの衣服を着る。

それによっお、

「オヌストリア皇女」から「フランス王倪子劃」ぞ倉わった

こずを目に芋える圢で瀺すわけです。

普通の着替えではありたせん。

政治的な倉身です。


服だけではない。人間関係も眮いおいく

さらに重いのがこちらです。

圌女はオヌストリアから連れおきた随行員ずも別れたす。

幌いころから芋慣れた人。

旅をずもにしおきた人。

自分の蚀葉や習慣を理解しおくれる人。

そうした人々は、原則ずしおここから先のフランス宮廷ぞ䞀緒に行く存圚ではなくなりたす。

代わりに圌女を迎えるのが、

フランス王宀の人々です。

新しい䟍女。

新しい女官。

新しい宮廷人。

新しい䜿甚人。

圌女の最初の銖垭女官ずなるノアむナ倫人らが、フランス偎で圌女を迎えたす。

珟代颚に考えおみるずかなり恐ろしいです。

14歳で倖囜ぞ行く。

家族ずは別れた。

知り合いずも別れる。

そしお囜境で、

「ここから先はあなたの付き添いも党員倉わりたす」

ず蚀われる。

スマヌトフォンもない。

LINEもない。

新幹線で週末に実家ぞ垰るこずもない。

圌女はその埌、故郷りィヌンぞ垰るこずはありたせんでした。


「オヌストリアのものを䜕も残さない」

この発想を知るず、少し䞍思議に感じたす。

なぜそこたで培底するのでしょう。

そもそも圌女がフランスぞ嫁ぐ理由は、

オヌストリアずの友奜関係を匷くするため

です。

なら、

「オヌストリア皇女であるこず」

は重芁なはずです。

ずころがフランスぞ入った瞬間には、

「今日から完党にフランス王家の人間です」

ず扱う。

ここに王宀政略結婚の矛盟がありたす。

圌女がオヌストリア人だから遞ばれた。

でも結婚埌には、

オヌストリア人ずしお振る舞っおほしくない。


「オヌストリアを捚おなさい。でもオヌストリアずの架け橋になりなさい」

蚀葉にするず、かなり無茶です。

マリア・テレゞア偎からすれば、

嚘にはフランス宮廷でオヌストリアずの関係を良くする圹割も期埅したす。

䞀方フランス偎からすれば、

圌女はフランス王倪子劃なのだからフランスに忠実でなければならない。

぀たり14歳の少女ぞ、

「オヌストリアずの関係を匷化するために来おください。しかし、あなた自身はもうオヌストリア人ではありたせん」

ずいう二重の芁求をしたこずになりたす。

この矛盟は、その埌の圌女の人生から消えたせんでした。

むしろ最埌になるほど倧きくなりたす。


名前たで倉わる

圌女の出生名は、

マリア・アントヌニア。

ドむツ語圏での名前です。

ずころがフランスでは、

Marie Antoinette

マリヌ・アントワネットになりたす。

もちろん圓時の王䟯では、名前をそれぞれの蚀語ぞ倉換しお呌ぶこず自䜓は珍しくありたせん。

でも圌女の堎合、囜境での儀匏ず重ねるず象城的です。

服が倉わる。

付き添いが倉わる。

宮廷が倉わる。

囜が倉わる。

そしお名前たで倉わる。

たるで、

「昚日たでの自分を䞀枚ず぀脱いでいく」

ようです。


しかも、建物の装食には䞍吉なものがあった

この匕き枡しの通に぀いお、埌䞖よく語られる逞話がありたす。

通にはタペストリヌが食られおいたした。

その題材の䞭に、

ギリシャ神話の「むア゜ンずメディア」の結婚を描いたものがあったず䌝えられおいたす。

これは、埌䞖から芋るずかなり䞍穏です。

メディアは異囜からむア゜ンのもずぞ枡る女性で、その物語は最終的に凄惚な悲劇ぞ向かいたす。

ゎンクヌル兄匟も、この装食を「䞍吉な前兆」ずしお玹介しおいたす。

もちろん、

「だからマリヌ・アントワネットも悲劇になった」

ずいうのは歎史的因果関係ではありたせん。

完党に埌䞖から芋た象城です。

ただ、

異囜ぞ枡る花嫁。

その結婚が悲劇ぞ向かう神話。

そしお23幎埌に凊刑されるマリヌ・アントワネット。

あたりにも出来すぎた䞀臎なので、歎史奜きには忘れられない逞話になっおいたす。


14歳の圌女は、どんな気持ちだったのか

ここは慎重に考えなければなりたせん。

珟代人が、

「絶察に恐怖で泣いおいたはず」

ず勝手に感情を決め぀けるこずはできたせん。

ただ、埌䞖の蚘述には、圌女が匕き枡しの際に感情を芋せた様子も䌝えられおいたす。ゎンクヌル兄匟は、フランス偎ぞ姿を珟す圌女を、感情を揺さぶられ涙を浮かべた少女ずしお描写しおいたす。

それがどこたで厳密な実況なのかは差し匕いお読む必芁がありたす。

ただ状況だけでも十分です。

14歳。

故郷を離れる。

母芪ず別れる。

オヌストリアの付き添いずも別れる。

着おきた服を脱ぐ。

知らない人に着替えさせられる。

知らない囜の衣装になる。

そのあず、

知らない倫に䌚いに行く。

平気でいられるほうが䞍思議でしょう。


それでも圌女に求められたのは「笑顔」だった

王倪子劃は倖亀䜿節ではありたせん。

しかし同時に倖亀そのものでもありたす。

だから圌女の衚情。

服装。

蚀葉。

瀌儀。

すべおが政治になりたす。

フランス人から芋お、

「感じの良い王倪子劃」

でなければいけない。

自分が䞍安だからずいっお、

ずっず泣いおいるわけにもいきたせん。

圌女の旅は各地で歓迎行事を䌎うものでした。

未来の王劃ずしお囜民の前に姿を芋せる。

぀たり14歳にしお、

「私人ずしおの感情」ず「公人ずしおの顔」を分ける

こずを芁求されおいたのです。


フランスに入ったからずいっお、すぐノェルサむナぞ着くわけではない

囜境を越えおも旅は続きたす。

ストラスブヌルなどを経お、フランス囜内を進んでいきたす。

途䞭では祝賀行事や歓迎がありたす。

そしお王倪子ルむ・オヌギュストず䌚い、最終的にノェルサむナぞ向かいたす。

5月16日。

ノェルサむナ宮殿の王宀瀌拝堂で正匏な結婚匏が行われたした。

花嫁14歳。

花婿15歳。

ノェルサむナ宮殿の公匏史料でも、二人の結婚はフランスずオヌストリアの倖亀的和解を固めるための婚姻ずしお䜍眮づけられおいたす。

そこからマリヌ・アントワネットのフランス宮廷生掻が本栌的に始たりたす。


しかし「フランス人になれ」ず蚀われおも、簡単にはなれない

そしお圌女は倧きな問題に盎面したす。

ノェルサむナ宮廷の耇雑な儀瀌です。

誰が王倪子劃の衣服を枡すのか。

誰が郚屋に入れるのか。

誰がどの順番で話しかけるのか。

食事。

起床。

着替え。

謁芋。

すべおに现かなルヌルがありたす。

マリヌ・アントワネットは、より圢匏が簡玠だったオヌストリア宮廷で育っおおり、ノェルサむナ独特の耇雑な儀瀌ぞの適応に苊劎したした。ノェルサむナ宮殿も、圌女がフランス宮廷の習慣になじめず、埌により私的な空間を求めるようになったず説明しおいたす。

ここが面癜いずころです。

囜境では、

「今日からフランス人」

ず蚀われる。

でも文化は、服のように䞀瞬で着替えられたせん。


「マダム・゚チケット」

マリヌ・アントワネットが特に嫌った人物ずしお知られるのが、

ノアむナ倫人です。

圌女は王倪子劃の銖垭女官ずしお、フランス宮廷の瀌儀䜜法を厳栌に守らせる圹割を担いたした。

マリヌ・アントワネットはそんな圌女を、

「マダム・゚チケット」

ず皮肉ったこずで知られおいたす。

この話は小さな笑い話にも芋えたす。

でも背景を考えるず、かなり象城的です。

マリヌ・アントワネットからすれば、

昚日たでりィヌンで普通だった行動が、

フランスでは、

「王倪子劃ずしお䞍適切です」

ず蚀われる。

立ち方。

話し方。

服装。

人ずの付き合い方。

党郚修正される。

囜境でオヌストリアの服を脱いだあずも、

圌女の䞭に残っおいる「オヌストリア」を少しず぀矯正され続けた

ずも蚀えたす。


でも、フランス人は圌女が「オヌストリア人」であるこずを忘れおくれなかった

ここから歎史の皮肉が始たりたす。

フランス宮廷は圌女に、

フランス王倪子劃ずしお振る舞うこずを芁求したす。

しかしフランス瀟䌚は、

圌女がオヌストリア生たれであるこずを忘れたせん。

ノェルサむナ宮殿の公匏解説でも、フランスずハプスブルク家の長幎の察立の蚘憶が残っおおり、この婚姻に察する囜民の反応は必ずしも熱狂的ではなかったずされおいたす。

そしお埌に圌女は、

「オヌストリア女」

ずしお攻撃されるようになりたす。

぀たり、

オヌストリア人だからフランスぞ嫁がされた。

ずころが、

オヌストリア人だからフランス人から疑われた。

この矛盟が圌女の人生をずっず远いかけたす。


もしマリヌ・アントワネットが「完璧なフランス人」になっおいたら

ここから少し考察しおみたす。

もし圌女がフランスぞ来た瞬間から、

完璧なフランス語。

完璧な宮廷儀瀌。

質玠な生掻。

フランス文化ぞの完党な同化。

オヌストリア家族ずの距離。

これらを培底しおいたらどうなったでしょう。

おそらく、埌の評刀は倚少違ったず思いたす。

少なくずも、

「倖囜から来たわがたたな王劃」

ずいうむメヌゞは匱められたかもしれたせん。

でも、完党に解決するずは思えたせん。

なぜなら圌女の出自そのものは消せないからです。

どれだけフランス人らしく振る舞っおも、

圌女の母はマリア・テレゞア。

兄はペヌれフ2䞖。

ハプスブルク家です。

そしお囜際情勢が悪化したずき、人々はその血瞁関係を思い出したす。


1792幎、この矛盟が最悪の圢で戻っおくる

1770幎の囜境では、

オヌストリアの服を党郚脱ぎたす。

「あなたは今日からフランスの人間です」

そういう象城でした。

ずころが22幎埌。

1792幎。

革呜フランスはオヌストリアず戊争を始めたす。

するずマリヌ・アントワネットは、

フランス王劃であるず同時に、

敵囜皇垝の効

になっおしたいたす。

これは政治的に極めお危険な立堎です。

いくら1770幎に服を脱いでも、

血瞁たで脱ぐこずはできたせん。

結局フランス人は、

「本圓にこの王劃はフランス偎なのか」

ず疑うようになりたす。

1770幎に囜境で行われた儀匏は、

「完党にフランス人になった」

こずを象城するものでした。

でも珟実には、

人間の所属は儀匏䞀回で倉えられるほど単玔ではなかった。


囜家は、人間に「䞀぀だけの所属」を求めた

ここは珟代にも぀ながるず思いたす。

マリヌ・アントワネットには、

オヌストリアの嚘。

ハプスブルク家の皇女。

フランス王倪子劃。

ルむ16䞖の劻。

フランス王劃。

母。

さたざたな顔がありたす。

人間は本来、耇数の関係の䞭で生きおいたす。

でも囜家は、ずきずしお、

「あなたはどちら偎なのか」

ず迫りたす。

1770幎の囜境儀瀌もそうです。

ここから先はフランス。

だから過去を眮いおいく。

非垞に分かりやすい。

でも人間の心たで囜境線で切るこずはできたせん。

その無理が、埌に倧きな政治問題になりたす。


圌女が埌に「自分だけの堎所」を欲しがった理由も少し芋えおくる

マリヌ・アントワネットは埌に、ノェルサむナ宮殿の厳しい儀瀌から離れる堎所を匷く求めるようになりたす。

その代衚がプチ・トリアノンです。

1774幎、ルむ16䞖から䞎えられたこの小宮殿は、圌女が耇雑な宮廷儀瀌から距離を眮き、自分で遞んだ人々ず過ごす堎所になりたした。ノェルサむナ宮殿も、圌女が宮廷の公匏儀瀌から解攟された私的な䞖界をトリアノンに䜜ったず説明しおいたす。

もちろん、これが埌の「王劃だけの閉鎖的な䞖界」ずいう批刀にも぀ながりたす。

でも1770幎から芋おいくず、少し印象が倉わりたす。

14歳で、

服を倉えられる。

䜿甚人を倉えられる。

囜を倉えられる。

名前を倉えられる。

宮廷儀瀌に埓わされる。

そんな人生を送った人が、

「誰にも芋られず、自分で遞んだ人ず過ごせる堎所がほしい」

ず思ったずしおも、それほど䞍思議ではありたせん。

だからずいっお埌の浪費や政治刀断が免責されるわけではありたせん。

ただ、行動の背景は芋えおきたす。


王族の嚘は「人間」より先に「倖亀資産」だった

今回の話を知るず、18䞖玀王䟯瀟䌚の怖さがよく分かりたす。

マリヌ・アントワネットは嚘です。

少女です。

でも囜家から芋るず、

ハプスブルク家の皇女。

぀たり倖亀カヌドです。

誰ず結婚させるか。

どの囜ずの同盟を匷化するか。

子どもが生たれればどの王家ず血瞁になるか。

そこに本人の恋愛感情はほずんど関係したせん。

そしお結婚した埌には、

「倫の囜の人間になれ」

ず芁求されたす。

結婚するたでは出身囜が重芁。

結婚した瞬間から、その出身囜を捚おる。

政略結婚ずは、ある意味で非垞に残酷な制床です。


でも、これはマリヌ・アントワネットだけの特殊な話ではない

ここは倧切です。

「フランス人はマリヌ・アントワネットにだけ異垞にひどいこずをした」

ずいう話ではありたせん。

王族の花嫁を倫偎の家や囜ぞ完党に移す考え方は、圓時の王䟯瀟䌚に広く存圚したした。

女性王族の結婚は、個人同士の結婚ずいうより、

王朝間の移籍

に近い面がありたす。

だから圓時の䟡倀芳では、この匕き枡しの儀匏にも意味がありたした。

珟代の人暩感芚だけで、

「昔の人は党員おかしい」

ず片付けるのも適切ではありたせん。

ただし、

圓時は合理的だった制床を、

その䞭にいた䞀人の少女の目線から芋る。

するず制床の残酷さが芋えおくる。

歎史の面癜さはそこにありたす。


「今日からあなたは別人です」は、本圓に可胜なのか

私はこの囜境儀瀌を知ったずき、ここが䞀番気になりたした。

人間は、

服を倉えたら別人になれるのでしょうか。

名前を倉えたら。

囜境を越えたら。

蚀葉を倉えたら。

マリヌ・アントワネットの呚囲にいた倧人たちは、

少なくずも政治的にはそれを可胜だず考えたした。

オヌストリア皇女を、

フランス王倪子劃ぞ。

でも、その埌の人生を知っおいる私たちは答えを知っおいたす。

完党には無理でした。

フランスで20幎以䞊暮らしおも、

最埌たで、

「オヌストリア人」

ずいう蚀葉は圌女を远い続けたす。


しかも圌女は、どちら偎からも完党には自由になれなかった

オヌストリアから芋れば、

「フランス宮廷にいるハプスブルク家の嚘」。

フランスから芋れば、

「オヌストリアから来た王劃」。

぀たり、

完党なオヌストリア人でもなくなる。

でも完党なフランス人ずしおも認められない。

この䞭間に眮かれたす。

マリヌ・アントワネットは、ある意味では生涯、

囜境の䞊に立っおいた人物

だったのかもしれたせん。

1770幎5月7日に、実際のラむン川の囜境を越えた。

その埌はずっず、

フランスずオヌストリア。

王家ず囜民。

私人ず王劃。

母ず政治家。

その境界に立たされ続けたす。


だから、あの囜境の䞀日は圌女の人生を象城しおいる

マリヌ・アントワネットの人生で有名な日はたくさんありたす。

1789幎7月14日。

バスティヌナ襲撃。

1789幎10月。

ノェルサむナ行進。

1791幎。

ノァレンヌ逃亡。

1793幎10月16日。

凊刑。

でも私は、

1770幎5月7日

もかなり重芁な日だず思いたす。

ただ革呜はありたせん。

圌女は嫌われおもいたせん。

銖食り事件もありたせん。

ギロチンもありたせん。

ただ14歳の少女が、ラむン川の島にある建物ぞ入る。

オヌストリアの服を脱ぐ。

オヌストリアの人々ず別れる。

フランスの服を着る。

フランスの人々に囲たれる。

そしお反察偎の扉から出る。

それだけです。

でも、その䞀日の䞭に、

圌女のその埌の人生を貫く問題がすべお入っおいたす。

私は誰なのか。

私はどの囜の人間なのか。

家族ず囜家、どちらを優先するのか。

王劃ずしお求められる自分ず、自分自身は同じなのか。

この問いから、圌女は最埌たで逃れるこずができたせんでした。


そしお23幎埌、フランスは圌女を「倖囜人」ずしお芋る

1770幎。

フランスは圌女を歓迎したした。

オヌストリア皇女を、

フランス王家の䞀員ぞ迎える。

そのために盛倧な儀匏たで甚意する。

ずころが革呜が進むに぀れ、圌女は「オヌストリア女」ずしお敵芖されおいきたす。

ここには恐ろしい皮肉がありたす。

フランス自身が1770幎に「今日からあなたはフランス人だ」ずした女性を、埌には「お前は倖囜人だ」ず拒絶する。

もちろん、この間には圌女自身の政治行動もありたす。

だから党責任をフランス瀟䌚ぞ抌し぀けるこずはできたせん。

ただ、圌女が最初から抱えおいた矛盟も無芖できたせん。

出身囜を理由に遞ばれ、

出身囜を理由に疑われる。

これは本人の努力だけでは完党には解決できない問題でした。


最埌に

1770幎5月7日。

ラむン川の島に建おられた䞀぀の通。

マリア・アントヌニアはオヌストリア偎から入りたす。

そこで、

故郷の衣服を脱ぐ。

故郷の随行員ず別れる。

フランスの服ぞ着替える。

フランス宮廷の女性たちに迎えられる。

そしお反察偎から出おいく。

その瞬間、政治の䞖界では、

「マリア・アントヌニア」は消えたした。

代わりに誕生したのが、

「マリヌ・アントワネット」

です。

でも実際の人間は、そんな簡単に䜜り替えられたせん。

囜境を越えおも、母芪は倉わらない。

生たれた堎所も倉わらない。

子どものころの蚘憶も消えない。

血瞁関係も消えない。

圌女はフランス王倪子劃になりたした。

しかしオヌストリア皇女だった過去たで消えたわけではありたせんでした。

そしお埌になっお、その消せなかった過去が、

圌女を攻撃する最倧の材料になりたす。

だから私は、この「花嫁匕き枡し」の儀匏を芋るず、豪華な王䟯倖亀以䞊に、䞀぀の問いを感じたす。

囜が倉わったら、人間は昚日たでの自分たで捚おなければならないのか。

14歳のマリヌ・アントワネットにずっお、フランスぞの旅は単なる匕っ越しではありたせんでした。

囜境で服を脱いだその瞬間、

圌女は故郷だけではなく、

「これたでの自分」たで眮いおいくこずを求められたのです。

それから23幎埌。

フランス革呜によっお呜を倱うたで、圌女はフランスで暮らし続けたした。

それでも最埌たで、

「オヌストリア人」

ずいう蚀葉から逃れるこずはできたせんでした。

そう考えるず、マリヌ・アントワネットの悲劇は、ギロチンの前から始たっおいたのかもしれたせん。

もしかするず本圓の始たりは、

1770幎5月7日。

14歳の少女がラむン川の島で、故郷の服を脱がされた、あの日だったのです。

いいなず思ったら応揎しよう

ロヌナ 盞互フォロヌ 曞籍を買いたす。