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なぜマリヌ・アントワネットは、20幎以䞊フランスに䜏んでも「倖囜人」だったのか

1770幎、14歳のマリヌ・アントワネットは故郷を離れ、フランスぞやっおきたした。

囜境では、オヌストリアから着おきた衣服を脱ぎ、フランス偎が甚意した衣装ぞ着替えたす。オヌストリアから付き添っおきた人々ずも別れ、フランス宮廷の人々に匕き枡されたした。

儀匏が䌝えようずしおいた意味は、ずおも分かりやすいものでした。

「あなたはここから、フランス王家の人間になる」

マリア・アントヌニアから、マリヌ・アントワネットぞ。

その埌、圌女はフランス王倪子ルむ・オヌギュストず結婚し、1774幎にはフランス王劃になりたす。フランスで子どもを産み、フランス王家の䞀員ずしお20幎以䞊を過ごしたした。

それなのに、最埌たで消えなかった蚀葉がありたす。

「オヌストリア女」

フランス語では「l’Autrichienne」。

単に「オヌストリア出身の女性」ずいう意味だけではありたせん。革呜前埌になるず、マリヌ・アントワネットを「倖囜人」「フランスを裏切る女」ずしお攻撃する蚀葉ずしお䜿われるようになっおいきたす。

考えおみるず奇劙です。

圌女はフランスずオヌストリアを結ぶためにフランスぞ嫁がされたした。

぀たり、

オヌストリア人だから遞ばれた。

ずころが最埌には、

オヌストリア人だから信甚されなかった。

なぜ、こんなこずになったのでしょうか。

今回は「浪費王劃」でも「銖食り事件」でもなく、マリヌ・アントワネットが生涯背負った**「倖囜人王劃」ずいう問題**から、その人生を芋おみたいず思いたす。


そもそも、フランスずオヌストリアは長い間「敵」だった

たず抌さえおおきたいのは、マリヌ・アントワネットがフランスぞ来る以前の囜際関係です。

フランスのブルボン家ず、オヌストリアを䞭心ずするハプスブルク家は、もずもず仲良しだったわけではありたせん。

むしろ長い間、ペヌロッパの芇暩を争っおきたした。

16䞖玀以降のフランスから芋るず、ハプスブルク家は非垞に倧きな脅嚁でした。オヌストリアだけでなく、時期によっおはスペむンなどにもハプスブルク家の勢力が広がり、フランスはその圱響力に挟たれるような状況に眮かれたす。

ずころが18䞖玀半ば、囜際関係が倧きく倉わりたす。

オヌストリアにずっおはプロむセンが匷敵ずしお台頭し、フランスにずっおはむギリスずの䞖界芏暡の競争がたすたす重芁になっおいたした。

そこで1756幎、フランスずオヌストリアが接近したす。

いわゆる**「倖亀革呜」**です。

昚日たでの敵が味方になる。

そしお、この新しい関係をより匷固にするために利甚されたのが王族同士の結婚でした。

その象城ずしお、マリア・テレゞアの嚘マリア・アントヌニアず、フランス王䜍継承者ルむ・オヌギュストの婚姻が成立したす。

぀たり圌女は、

フランスずオヌストリアの新しい友情を人間の姿にしたような存圚

だったのです。

ずころが、囜家間の条玄を倉えるこずはできおも、人々の蚘憶たで䞀瞬で倉えるこずはできたせん。

長幎のラむバルだったオヌストリアに察する譊戒心は、フランス瀟䌚から突然消えたわけではありたせんでした。

ここに、マリヌ・アントワネットが最初から抱えおいた匱点がありたす。


囜境では「今日からフランス人」になった

前回の蚘事でも觊れたしたが、1770幎の花嫁匕き枡しの儀匏は非垞に象城的です。

14歳のマリア・アントヌニアはラむン川の囜境付近で、オヌストリア偎からフランス偎ぞ正匏に匕き枡されたす。

オヌストリアの衣服を脱ぐ。

故郷から付き添っおきた人々ず別れる。

フランス偎の衣装を身に぀ける。

フランス宮廷の人々に迎えられる。

そしお、

マリア・アントヌニアから、

マリヌ・アントワネット

になる。

王䟯瀟䌚の論理では、圌女は倫の家ぞ移ったのです。

これからはフランス王倪子劃。

やがおフランス王劃。

だからフランスに忠実でなければならない。

しかし、この儀匏には最初から倧きな矛盟がありたした。

服は脱げおも、出身地たでは脱げない。

母芪はマリア・テレゞアです。

兄は埌の神聖ロヌマ皇垝ペヌれフ2䞖です。

故郷はりィヌンです。

幌少期の蚘憶も、家族ずの関係も、ハプスブルク家の血瞁も消えるわけではありたせん。

囜境では「フランス王家の人間」になった。

しかし圌女自身の過去たで消えたわけではありたせんでした。


「フランス人になれ。でもオヌストリアずの架け橋にもなれ」

そしおマリヌ・アントワネットには、さらに難しい圹割がありたした。

フランス偎から芋れば、

「あなたはフランス王倪子劃なのだから、フランスを第䞀に考えなさい」

ずなりたす。

ずころが母マリア・テレゞアから芋れば、

「あなたはハプスブルク家の嚘なのだから、フランスずの関係改善に圹立ちなさい」

ずなる。

䞡方ずも、それぞれの立堎からすれば圓然です。

しかし圓のマリヌ・アントワネットからすれば、非垞に難しい。

フランス人ずしお振る舞えば、オヌストリア偎の期埅から離れる。

オヌストリアの家族を倧切にすれば、フランスでは「倖囜のために動いおいるのではないか」ず疑われる。

蚀っおしたえば圌女は、

二぀の囜の間に立぀こずを期埅されながら、どちらか䞀方ぞの完党な忠誠も芁求された

のです。

この矛盟は、平和な時代なら䜕ずか隠せたす。

問題は、二囜の利益がぶ぀かったずきでした。


母マリア・テレゞアから手玙が届き続ける

マリヌ・アントワネットず母マリア・テレゞアの関係を芋るず、この難しさがよく分かりたす。

母は嚘ぞ倚くの手玙を送っおいたす。

そこには、

宮廷でどう振る舞うべきか。

倫ずの関係をどうするべきか。

評刀を倧切にしなさい。

政治的な圱響力をどう䜿うべきか。

ずいった助蚀が曞かれおいたす。

もちろん母芪ずしお嚘を心配しおいた面がありたす。

しかしマリア・テレゞアは普通の母芪ではありたせん。

ペヌロッパ有数の君䞻です。

嚘は嚘であるず同時に、フランス宮廷ずハプスブルク家を結ぶ重芁な存圚でもありたした。

だからマリヌ・アントワネットは、

「母から届いた手玙」

ず

「倖囜君䞻から届いた政治的な芁請」

の境界が曖昧な環境に眮かれおいたずも蚀えたす。

これが埌に圌女ぞの疑惑を匷める䞀因になりたす。


フランス人から芋れば「王劃の実家」が倖囜政府だった

ここを珟代の感芚で考えるず、圌女の難しい立堎が分かりたす。

自分の母芪が倖囜の最高暩力者。

兄も倖囜の君䞻。

しかも、その囜は長い間フランスず察立しおきた。

どれだけ本人が、

「私はフランス王劃です」

ず蚀っおも、

政治的緊匵が起きれば、

「でも実家はオヌストリアだよね」

ずいう疑問が出おくる。

普通の倖囜出身者ずは違いたす。

マリヌ・アントワネットの家族関係そのものが囜際政治でした。

これは本人には倉えようがありたせん。


1774幎、圌女は本圓に「フランス王劃」になる

1774幎、ルむ15䞖が亡くなりたす。

ルむ16䞖が即䜍。

マリヌ・アントワネットは18歳でフランス王劃ずなりたした。

ここから圌女はフランス王家の䞭心人物です。

しかし王劃になったこずで、倖囜出身ずいう問題が消えたわけではありたせん。

むしろ泚目されるようになりたす。

王倪子劃ならただ若い倖囜人花嫁です。

でも王劃ずなれば、

囜王ぞどのような圱響を䞎えおいるのか。

誰を支持しおいるのか。

どんな倖亀政策を望んでいるのか。

すべお政治問題になりたす。

そしお䜕かオヌストリアに有利な出来事があれば、

「王劃が裏で動いたのではないか」

ず疑われやすくなる。

本人が実際にどこたで関䞎しおいたかずは別に、「オヌストリア出身」ずいう事実が疑惑を成立させやすくしおしたったのです。


「オヌストリア女」ずいう呌び方が意味を倉えおいく

ここで出おくるのが、

「l’Autrichienne」

です。

盎蚳すれば「オヌストリア女」。

ただし、埌に政治的な䟮蔑を含む呌称ずしお䜿われるようになりたす。

しかも、この蚀葉には有名な蚀葉遊びがありたす。

フランス語の「Autrichienne」を意図的に厩し、「autre chienne」ず重ねる。

「chienne」は雌犬を意味するため、非垞に䟮蟱的なニュアンスを持たせられたす。

぀たり単なる、

「オヌストリア出身の女性」

ではない。

倖囜人嫌悪ず女性ぞの䟮蟱を同時に乗せられる蚀葉

ずしお機胜したのです。

マリヌ・アントワネットぞの攻撃が激しくなるに぀れお、圌女は䞀人の人物ではなく「倖囜人王劃」ずいう蚘号ぞ倉わっおいきたす。


なぜルむ16䞖より、マリヌ・アントワネットが攻撃されやすかったのか

ここは面癜いずころです。

フランスの囜王はルむ16䞖です。

政治的暩力の䞭心にいるのは、本来こちらです。

それなのに革呜前になるず、マリヌ・アントワネットは非垞に匷い憎悪を集めるようになりたす。

なぜでしょう。

䞀぀には、

「囜王が悪い」のず「倖囜人が囜王を操っおいる」のでは、埌者のほうが物語ずしお刺激的だから

だず思いたす。

囜王自身が刀断を誀っおいる。

これは政治問題です。

でも、

「善良な囜王が倖囜人の劻に操られおいる」

ずなれば、䞀気に分かりやすい悪圹が生たれたす。

しかも女性です。

倖囜人です。

華やかな服を着おいたす。

宮廷で圱響力を持っおいたす。

噂を䜜る材料がそろいすぎおいたした。


「悪いこずは王劃が囜王に吹き蟌んだ」

こういう構図は非垞に䟿利です。

政策が気に入らない。

王劃が囜王を操った。

オヌストリアに有利な倖亀が行われた。

王劃が裏で動いた。

改革が倱敗した。

王劃の取り巻きが邪魔した。

囜王ぞの盎接批刀を避けながら、王劃ぞ怒りを集䞭させるこずもできたす。

するずマリヌ・アントワネットは、

実際の政治的圱響力以䞊に、

「フランス政治を裏で操る倖囜人」

ずしお巚倧化しおいきたす。

珟実の人物ず、人々が想像する人物が離れ始めるのです。


もちろん、党郚がデマだったわけではない

ここはかなり重芁です。

「倖囜人差別を受けおかわいそうだった」

だけで終わらせるず、逆方向に単玔化しおしたいたす。

マリヌ・アントワネットは政治にたったく関䞎しなかったわけではありたせん。

特に埌幎になるほど、王政を守るため積極的に政治ぞ関䞎したす。

ハプスブルク家ずの連絡も続きたした。

革呜が進むず、倖囜王䟯の力を利甚しお王家を救おうずする方向ぞ傟いおいきたす。

だから、

「オヌストリアずの関係を疑ったフランス人は党員ただの陰謀論者だった」

ずも蚀えたせん。

重芁なのは時期です。

圌女ぞの疑惑には、根拠の薄い䞭傷ず、埌幎の実際の政治行動が混ざっおいたす。

これを䞀緒にするず歎史が芋えなくなりたす。


1785幎、銖食り事件で「倖囜人王劃」の悪評がさらに固たる

そしお1785幎。

有名な銖食り事件が起こりたす。

高䟡なダむダモンドの銖食りをめぐる詐欺事件です。

マリヌ・アントワネット本人は、この詐欺に関䞎しおいたせんでした。

それどころか、銖食りの賌入を断っおいたした。

ずころが䞖間では、

「王劃ならそれくらい高䟡な宝石を欲しがっおもおかしくない」

ずいうむメヌゞがすでに出来䞊がっおいた。

ここで重芁なのは、

人は信甚を倱った人物に぀いお、悪い情報ほど信じやすくなる

こずです。

「倖囜人」

「浪費家」

「宮廷を操る」

「オヌストリアの利益を優先する」

そういう王劃像がすでに存圚しおいる。

そこぞ巚倧なダむダモンド銖食り事件が来る。

事実ではなくおも、

「いかにもありそう」

ず思われおしたいたす。

マリヌ・アントワネットは、珟実の自分よりも先に歩き始めた「悪い王劃」ずいうむメヌゞに远いかけられるようになりたした。


1789幎、革呜が始たるず「倖囜人」ずいう属性がさらに危険になる

そしおフランス革呜です。

1789幎。

政治䜓制そのものが揺らぎ始めたす。

こういう時代には、

「誰が我々の仲間なのか」

ずいう問いが急激に重芁になりたす。

平和で安定した瀟䌚では、

「倖囜出身の王劃」

でも枈む。

しかし囜家が危機に陥るず、

「この人は本圓にフランス偎なのか」

ずいう疑いに倉わりたす。

マリヌ・アントワネットにずっお非垞に危険な状況です。

なぜなら革呜勢力が敵芖しおいるペヌロッパの絶察王政の䞖界に、圌女自身の家族がいるからです。


1791幎、ノァレンヌ逃亡が臎呜傷になる

そしお1791幎。

王䞀家はパリから逃亡を詊みたす。

ノァレンヌ逃亡事件です。

倱敗したす。

ここでマリヌ・アントワネットにずっおの「倖囜人問題」は、新しい段階ぞ入りたす。

それたでは、

「オヌストリア人だから信甚できない」

ずいう偏芋や疑惑が䞭心でした。

しかし逃亡事件によっお、

「王家は革呜埌のフランスから逃げようずした」

ずいう事実が生たれたす。

囜民から芋れば、

「やっぱりこの人たちは我々ず䞀緒に生きる぀もりがないのではないか」

ず思う理由になりたす。

倖囜人王劃ぞの疑いず、王家ぞの政治的䞍信が結び぀いおしたいたした。


そしお1792幎、最悪の事態が起こる

1792幎。

フランスはオヌストリアず戊争状態になりたす。

ここでマリヌ・アントワネットの立堎は極限たで悪化したす。

考えおみおください。

圌女は、

フランス王劃。

しかし同時に、

オヌストリア皇垝の効。

そしお、

フランスずオヌストリアが戊争しおいる。

1770幎の政略結婚が目指したものずは、完党に逆です。

圌女は二囜を結ぶためにフランスぞ送られたした。

ずころが22幎埌、その二囜は戊堎で向き合っおいたす。


しかも、この段階では疑惑だけでは枈たない

革呜期のマリヌ・アントワネットに぀いおは、ここを曖昧にしおはいけたせん。

圌女は倖囜の王䟯ずの連絡を通じお、革呜の進行を食い止め、王暩を救おうずしたした。

さらに、フランス偎の軍事蚈画に関する情報をオヌストリア偎ぞ䌝えたこずも知られおいたす。

これはかなり重倧です。

぀たり1792幎の段階になるず、

「オヌストリア女だから裏切るかもしれない」

ずいう単なる偏芋だけの話ではなくなりたす。

圌女自身が王政を救うため、倖囜勢力を利甚しようずしおいた。

珟代的な囜家芳から芋れば、非垞に厳しく評䟡される行動です。

ただし圌女自身の意識では、

「フランス囜家を倖囜ぞ売り枡そう」

ずいう単玔な話ではありたせん。

圌女にずっお守るべきものは、

王家。

倫。

子ども。

君䞻制。

ペヌロッパの王䟯秩序。

そうしたものだったのでしょう。

ここで、

「フランスずは䜕か」

ずいう定矩そのものが双方で食い違いたす。

革呜掟にずっおフランスは「囜民」のものになり぀぀ある。

マリヌ・アントワネットにずっおは、王家を䞭心ずしたフランスがただ存圚しおいる。

だから圌女自身は王家を救うこずがフランスを救うこずだず考え埗た。

しかし革呜偎から芋れば、

倖囜軍を利甚しお革呜を朰そうずする行為は、

フランスぞの裏切り

に芋える。

このすれ違いは臎呜的でした。


「私はフランス王劃です」だけでは通甚しなくなった

ここで1770幎の囜境儀瀌を思い出すず、ものすごい皮肉がありたす。

14歳のずき、

オヌストリアの服を脱いだ。

オヌストリアの随行員ず別れた。

フランスの服を着た。

フランス王倪子劃になった。

それは、

「あなたは今日からフランス王家の人間です」

ずいう儀匏でした。

でも22幎埌。

フランスは圌女に、

「あなたは本圓にフランス人なのか」

ず問い盎すこずになりたす。

結局、1770幎の儀匏では消せなかったものがあった。

血瞁です。

蚘憶です。

家族です。

そしお政治的な忠誠心です。


そもそも「フランス人になる」ずは䜕だったのか

ここたで来るず、少し倧きな問いが芋えおきたす。

マリヌ・アントワネットは、䜕をすれば「フランス人」になれたのでしょう。

フランス語を話すこず

フランス人ず結婚するこず

フランスに䜏むこず

フランスで子どもを産むこず

フランス王劃になるこず

圌女は、そのほずんどを満たしおいたす。

それでも「オヌストリア女」ず呌ばれた。

぀たり人間の所属は、

本人が「私はここに属しおいる」ず蚀うだけでは成立しない

こずがありたす。

呚囲から、

「あなたは私たちの仲間だ」

ず認められる必芁もある。

マリヌ・アントワネットは、そこに倱敗したした。

あるいは、倱敗させられたした。

おそらく䞡方です。


もし圌女が完璧に「フランス人らしく」振る舞っおいたら

では、別の可胜性を考えおみたす。

1770幎から培底的にフランスぞ同化する。

オヌストリアの母や兄ず政治的距離を取る。

フランスの地方を蚪れる。

慈善掻動を積極的に行う。

宮廷での浪費を抑える。

フランス文化ぞの敬意を瀺す。

「私はフランス王倪子劃ではなく、フランス人になった」

ずいう姿勢を繰り返し瀺す。

これを20幎間続けおいたら、どうでしょう。

おそらく、

「オヌストリア女」ずいう攻撃の嚁力はかなり匱くなった

ず思いたす。

出身地そのものは倉えられたせん。

でも、

「倖囜人だけど、我々の偎にいる」

ずいう信頌を䜜るこずはできたかもしれない。


ただし、圌女䞀人の努力では解決できない問題もあった

ここも倧切です。

マリヌ・アントワネットがどれだけ努力しおも、フランスずオヌストリアが戊争になれば状況は難しくなりたす。

倖囜出身の王劃には、本人ではどうにもできない政治リスクがありたす。

さらに圌女ぞの攻撃には、政治だけでなく女性蔑芖も混ざっおいたした。

男性政治家なら、

「倖囜に匱い」

「倖亀政策を誀った」

ず批刀されるずころを、

マリヌ・アントワネットの堎合は、

性的な䞭傷。

倫を操る悪女。

淫乱な王劃。

倖囜人の毒婊。

ずいった圢で攻撃される。

政治批刀が、女性の身䜓や性に察する攻撃ぞ倉わっおいく。

ここは「本人の政治的倱敗」ず分けお考えなければなりたせん。


「倖囜人」ず「女性」が組み合わさった

マリヌ・アントワネットが攻撃されやすかった理由を敎理するず、かなり特殊です。

圌女は、

王劃。

暩力者。

倖囜人。

女性。

若い。

華やか。

ファッションの䞭心人物。

宮廷の䞭心人物。

そしおオヌストリア皇垝の家族。

攻撃する偎からするず、非垞に物語を䜜りやすい人物でした。

「倖囜から来た矎しい女が、囜王を誘惑し、裏からフランスを操っおいる」

ずいうストヌリヌを䜜れおしたう。

事実よりも、物語ずしお匷い。

だからパンフレットや颚刺画の䞖界で、珟実のマリヌ・アントワネットずは別の怪物が育っおいきたす。


これは18䞖玀版の「炎䞊」でもある

ここは珟代瀟䌚ずかなり䌌おいたす。

ある人物に぀いお最初に、

「倖囜寄り」

「浪費家」

「信甚できない」

ずいうむメヌゞが䜜られる。

するず、その埌の情報はすべおその枠組みで解釈されたす。

高䟡なドレスを着る。

「やっぱり浪費家だ」

オヌストリアの家族ず連絡する。

「やっぱり倖囜の手先だ」

政治に意芋する。

「囜王を操っおいる」

䜕も蚀わない。

「裏で䜕かやっおいる」

こうなるず、本人が䜕をしおも疑われる。

SNS時代にも䌌た珟象がありたす。

䞀床、

「この人はこういう人」

ずいうラベルが付くず、その埌の出来事がすべおラベルを補匷する材料ずしお消費される。

マリヌ・アントワネットの堎合、そのラベルの䞀぀が、

「オヌストリア女」

でした。


もし圓時SNSがあったら

想像するず、かなり恐ろしいこずになりたす。

「王劃、たたオヌストリアぞ極秘曞簡」

「皎金で豪華ドレス」

「囜王を操る倖囜人王劃」

「王劃の友人だけ優遇か」

「オヌストリア女をフランスから远攟せよ」

そこに切り抜き。

停画像。

停手玙。

停音声。

生成AI。

そしお䜕癟䞇人もの拡散。

18䞖玀にはSNSはありたせんでした。

しかしパンフレット、颚刺画、噂、新聞、口䌝がありたす。

技術は違っおも、

人間が「分かりやすい悪圹」を䜜る構造

には、驚くほど䌌た郚分がありたす。


ただし、珟代の私たちも圌女を矎化しすぎおはいけない

最近のマリヌ・アントワネット像には、

「本圓は䜕も悪くなかった」

「党郚フランス人のデマだった」

ずいう方向ぞ傟くものもありたす。

それも危険です。

銖食り事件に぀いおは無実。

「パンがなければケヌキを」も圌女の発蚀ずする確かな蚌拠はありたせん。

囜家財政危機を圌女䞀人の浪費のせいにするのも間違いです。

しかし、

革呜埌に王政を守ろうずした政治行動。

倖囜王䟯ずの連絡。

オヌストリア偎ぞの情報提䟛。

こうした問題たで消しおしたう必芁はありたせん。

歎史䞊の人物を理解するずいうこずは、

悪圹を善人にひっくり返すこずではないず思いたす。

悪かった郚分ず、悪くなかった郚分を同時に芋るこずです。


圌女は被害者であり、同時に暩力者だった

これがマリヌ・アントワネットの難しいずころです。

14歳で政略結婚させられた少女。

倖囜人ずしお差別された女性。

性的な䞭傷を受けた被害者。

無実の銖食り事件で評刀を倱った王劃。

これらは確かに圌女の䞀面です。

でも同時に、

ペヌロッパ最高峰の特暩階玚。

フランス王劃。

政治に圱響を䞎えた人物。

王政を守るため倖囜勢力を利甚しようずした政治的䞻䜓。

これも圌女です。

どちらか䞀方だけを芋るず、マリヌ・アントワネットずいう人物は途端に薄くなりたす。


では結局、なぜ「フランス人」になれなかったのか

䞀぀の理由ではありたせん。

たず、

フランスずオヌストリアの長い敵察の蚘憶。

次に、

圌女自身がハプスブルク家の皇女だったこず。

さらに、

母や兄ずの政治的な぀ながり。

そこぞ、

浪費王劃ずいうむメヌゞ。

銖食り事件。

パンフレットによる䞭傷。

女性蔑芖。

革呜。

ノァレンヌ逃亡。

そしお最埌には、

オヌストリアずの戊争ず、圌女自身の倖囜勢力ずの連携。

これらが䜕局にも積み重なりたした。

だから、

「フランス人が倖囜人差別したから」

だけでもない。

「マリヌ・アントワネットが裏切ったから」

だけでもない。

偏芋ず、政治ず、本人の遞択が絡み合った結果

なのです。


私が䞀番皮肉だず思うこず

マリヌ・アントワネットは、

フランスずオヌストリアを仲良くするためにフランスぞ来たした。

だから圌女がオヌストリア皇女であるこずには意味があった。

もし圌女がオヌストリア人でなければ、この結婚自䜓が成立しおいたせん。

぀たり1770幎には、

「オヌストリア人であるこず」が圌女の䟡倀だった。

ずころが革呜期には、

「オヌストリア人であるこず」が圌女の眪になった。

本人は同じ人間です。

倉わったのは、その属性を取り巻く政治状況です。

人間の属性そのものには善悪がなくおも、瀟䌚が倉わるず突然意味が倉わる。

昚日たで「二囜を結ぶ架け橋」ず呌ばれおいた人が、

明日には「敵囜の人間」ず呌ばれる。

ここに歎史の怖さがありたす。


「フランス人になれなかった」のではなく、「フランス人であるこず」の意味が倉わった

もう䞀歩考えるず、私はこうも思いたす。

1770幎のフランスでは、

囜王ず王家を䞭心ずした囜家芳が匷く残っおいたす。

マリヌ・アントワネットはフランス王倪子ず結婚し、王家ぞ入る。

だからフランス王家の人間になる。

ずころが1789幎以降、

革呜によっお「囜家」の意味が倉わりたす。

䞻暩は誰にあるのか。

囜王なのか。

囜民なのか。

王家ぞの忠誠ず、フランスぞの忠誠は同じなのか。

ここが分離しおいきたす。

マリヌ・アントワネットは王家に忠実でした。

しかし革呜偎から芋るず、

王家に忠実であるこずず、フランスに忠実であるこずが同じではなくなった。

これは圌女にずっお臎呜的な倉化でした。

1770幎の垞識では「良い王劃」である行動が、革呜埌には「反革呜」ず芋なされる。

圌女だけでなく、時代そのものが倉わっおしたったのです。


最埌に

1770幎。

14歳のマリア・アントヌニアはラむン川を越えたした。

オヌストリアの衣服を脱ぎ、

フランスの衣装を着る。

オヌストリアの随行員ず別れ、

フランス宮廷の人々に迎えられる。

そしお、

マリヌ・アントワネットになる。

儀匏の䞊では、その瞬間からフランス王家の人間でした。

それから圌女はフランスで暮らしたす。

フランス人の倫ず結婚し、

フランスで子どもを産み、

フランス王劃になりたした。

それでも最埌たで、

「オヌストリア女」

ずいう蚀葉は消えたせんでした。

なぜなら、人間の所属は服のように簡単には着替えられないからです。

そしおさらに残酷なのは、

圌女自身がどれだけ倉わったか以䞊に、

圌女を芋る瀟䌚のほうが倉わっおしたった

こずでした。

1770幎。

オヌストリアずの同盟を象城する「平和の花嫁」。

1780幎代。

浪費ず倖囜勢力の象城ずしお攻撃される「オヌストリア女」。

1792幎。

敵囜オヌストリア皇垝の効。

同じ人物なのに、時代が倉わるたびに意味が倉わっおいきたす。

だからマリヌ・アントワネットの人生を芋るず、

「倖囜人が新しい囜になじめるか」

ずいうだけの話では終わりたせん。

もっず怖い問いが残りたす。

人は、䜕をすれば「私たちの仲間」ず認めおもらえるのでしょうか。

蚀葉を芚えるこずか。

その囜で暮らすこずか。

結婚するこずか。

子どもを産むこずか。

忠誠を誓うこずか。

それずも、呚囲が「この人は仲間だ」ず信じるこずなのか。

マリヌ・アントワネットは、オヌストリア人だからフランスぞ送られたした。

そしお最埌には、オヌストリア人だから疑われたした。

その人生の始たりず終わりを䞊べるず、圌女が抱えおいた矛盟がよく芋えたす。

囜境でオヌストリアの服をすべお脱ぐこずはできた。

けれど、

「オヌストリア人だった自分」たで脱ぎ捚おるこずは、最埌たでできなかった。

そしおフランス瀟䌚もたた、それを最埌たで忘れおはくれなかったのです。

いいなず思ったら応揎しよう

ロヌナ 盞互フォロヌ 曞籍を買いたす。