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無償の愛は、本当に素晴らしいものなのか論

「無償の愛」について考えてみたい。
無償とは、償いが無い、つまり報酬や代価を求めない、ということ。たとえば通常、誰かを好きになった場合、その相手からも何らかの感情を求めてしまうものだ。愛し愛されたい、といったように。

しかし無償の愛は、相手からの感情を求めない。ただ自分だけが相手を愛することで満足という、いわば最上級の愛のカタチとして評価される。仏教の世界では、見返りを求めず、執着や条件なしに他者へ与える「慈悲」の心と呼ばれることもある。私自身、多感な中高時代を仏教校で過ごしたため、無償の愛は存在するし慈悲の心を持つことが人としての在り方、みたいな感覚はどこかにあった。

ここに例として、4つのことばを並べる。
「大好き」
「会いたい」
「寂しい」
「元気でいてほしい」
今回このテーマで書こうと思ったきっかけは、前の3つは、なぜ最後の「元気でいてほしい」より言いにくいのかを考えていたからだ。逆にいえば最後のことばは、わりとすんなりと言える。なぜなのか。

前の3つはただ自分の感情に過ぎない。
しかし純粋な感情のように見えて、そこには
「大好きだから、できれば受け取ってほしい。」
「会いたいから、できれば会ってほしい。」
「寂しいから、できれば寂しくないようにしてほしい。」
どうしても「見返り」が見え隠れする。だからそのことばを発するとき、その先にある見返りが叶えられるかを考えて怖くなり、躊躇してしまうのかもしれない。

一方、最後の「元気でいてほしい」は、相手の感情に左右されることはない。相手の健康や幸せを願うことばであり、それを発した瞬間に自分のもとから離れていく。
「私と会ってくれなくてもいい。」
「私のことを好きになってくれなくてもいい。」
「ただ、どこかで元気で過ごしてくれたらそれでいい。」
これは無償の愛のひとつのカタチといえる。

しかし、見返りを求めないというのは本当にそんなに素晴らしいことなのだろうか。人は、ひとりでは生きていけない。神様や仏様とは違う。誰かに何かを託し、託されて生きている生き物なのだ。無償の愛は究極の愛の姿なのかもしれない。けれども、そればかりでは心は疲れてしまうだろう。というか、そもそも人間にそんな100%純粋な感情はありうるのか、筆者は少し疑ってすらいる。
先の4つの感情は、同居してもいい。たとえば「自分がいてもいなくても、元気でいてくれたらいい」と思う一方で、「たまには自分のことを思い出してほしい」と思ったってかまわないし、それぞれが一日のなかで顔を出してもいい。それがむしろ人間らしいところなのだと思う。自己矛盾だと悩む必要はない。

ひとは、本気で人を大切に思うようになると、どうしても見返りがほしくなる生き物なのである。

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