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歴史推理小説 伝説 第79章 信玄


 甲斐の山々に初雪が降り、凍てつく風が谷を吹き抜ける頃、武田信玄はひとつの決意を胸に秘めていた。
 「いまこそ、天下を射抜く時ぞ」
 元亀三年十月三日――。
 武田二万七千の大軍が甲府を発ち、青崩峠を越えて西へと向かった。山々を赤く染める旗指物は、まるで炎の奔流。谷を抜ける馬蹄の響きは、地を揺るがし、遠江の民を戦慄させた。
 その軍容は、かつてなき壮大さであった。
 山県昌景、秋山虎繁が率いる五千は三河へと東進。馬場信春は犬居城を掌中に収め、さらに五千を割き只来城を攻める。信玄自らが率いる本隊二万二千は、濁流の天竜川を南へ南へと押し寄せた。
 どの城も三日を待たず陥落し、黒煙は空を覆った。
 ――その報せは、浜松城にもたらされた。
 城内の間に緊張が走る。
 徳川家康は地図の前に座し、眉間に皺を寄せていた。
 「……織田からの援軍は、まだか」
 側近が答える。
 「信長公もまた、包囲網のただ中。畿内にて一戦ごとに命を賭けておられます。とても……」
 家康は歯を噛みしめた。織田との同盟は堅固であっても、この瞬間ばかりは孤立している。
 動員できる兵は八千に満たぬ。対する武田は二万七千。
 「兵の差、実に三倍以上……」
 誰もが口にせずとも、絶望の影が広がっていた。
 沈黙を破ったのは、本多忠勝であった。
 「殿、兵の数では勝てませぬ。されど、我らは三河武士、死して退くことを知りませぬ。いかに信玄とて、この浜松を軽々しくは奪えまい」
 若き剛将の眼は、炎を宿していた。
 その言葉に、家臣たちの頬も熱を帯びる。
 しかし家康は冷静であった。
 「勝つことより、生き残ることが肝要だ。信玄は病を得ていると聞く。ならば、この侵攻も長くは続かぬ。……我らは、嵐を耐えるのだ」
 その間も、武田軍は遠江を蹂躙し続けた。
 匂坂城、天方城、一宮城、飯田城――次々に陥落。城々の兵は降伏し、あるいは討たれ、信玄の軍旗は濁流のように押し寄せてきた。
 二俣城もまた、十二月十九日、ついに力尽きる。
 井戸櫓を破壊され、水を絶たれた城兵が渇きに倒れてゆくさまは、地獄の絵図であった。中根正照は涙を呑んで開城し、遠江はほぼ武田の掌に落ちた。
 その報が浜松へ届くと、家康はしばし言葉を失った。
 やがて天を仰ぎ、低く呟いた。
 「……いよいよ、我が城に迫るか」
 家中の将兵は息を呑む。
 信玄の大軍と、八千の兵でどう戦うのか。誰もが口にできずにいた。
 その時、内藤信成が進み出た。
 「殿、いざという時、殿を逃がすは我らが役目にござる。某(それがし)、必ずや殿の盾となりましょう」
 本多忠勝も槍を叩き、声を張り上げる。
 「この平八、死ぬることなど恐れませぬ! 殿が天下に立たれるその日まで、我らは命を賭して戦うのみ!」
 言葉は、若き家康の胸を震わせた。
 家康は静かに立ち上がり、兵たちを見渡す。
 「皆の者、心して聞け! 武田信玄は強大なり。しかし、我らが退けば三河も尾張も呑まれる。天下は乱れ、民は苦しむであろう。……さればこそ、浜松を枕に討死する覚悟を持て!」
 鬨(とき)の声が上がった。
 城内の空気が変わった。絶望の色は消え、武士たちの瞳に烈火が灯った。
 ――嵐は近い。
 十二月、天竜川の川霧の奥から、武田の軍旗が揺らめいて現れた。
 赤備えの山県昌景、勇将馬場信春、老練の内藤昌豊、そして病を押して進む信玄自身。
 武田軍二万七千。
 徳川軍八千。
 この圧倒的な差の前に、歴史はひとつの問いを突きつける。
 「家康よ、汝は逃げるか、戦うか」
 ――やがて、三方ヶ原の原野で、運命の時が訪れるのであった。



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