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第4話 田んぼ

家康公 駿府へ帰る

第四話 江戸の田を歩く

――城を支えるものは、黄金ではなく、一粒の米――

※この物語は史実や伝承をもとにした創作です。人物の行動、年代、地名、出来事には物語上の脚色があります。

 令和まで続く利根川普請を、光の箱で見届けた翌朝。

 江戸の様子を確かめた家康公たちは、駿府へ帰る旅を再開しようとしていました。

 ところが家康公は、朝霧の向こうに広がる田畑を眺めたまま、なかなか歩き出しません。

「昨日は大きな川の流れを見た。だが、川を治めるだけでは民の暮らしは守れぬ」

 伊奈忠次がうなずきました。

「川から引いた一筋の水が田を潤し、一粒の米を育てます。治水と農は、別々の仕事ではございません」

「ならば駿府へ帰る途中、水の行き先も見ておこう」

 こうして家康公、服部半蔵、伊奈忠次、アキラ、黒猫のお万は、少し遠回りをして江戸の田畑を歩くことになりました。

「川の行き先が田なら、米の行き先は焼き魚定食でございます」

 お万が尻尾を立てます。

「まだ朝飯を食べたばかりだぞ」

「駿府までの長旅に備えております」

「おぬしは毎日が長旅だな」

         ◇

 一行が最初に訪れたのは、早稲田の低地でした。

 農民たちは泥へ足を入れ、水の具合を確かめています。

「今年は雨が多く、低い田から水が抜けませぬ」

「こちらの高い畑では、水が足りません」

 忠次は畦へしゃがみ、土を指でほぐしました。

「低い田には水を逃がす溝、高い畑には水を導く道が必要です」

「同じ村でも、一つの命令では救えぬのだな」

 家康公がうなずいたとき、半蔵が畦道へ踏み出しました。

「むっ!」

 右足が泥へ沈み、草鞋だけが田の中へ残ります。

「半蔵様、田んぼへ草鞋を寄進されたのですか」

「泥に奪われたのだ!」

「敵は田んぼに潜んでおりましたか」

「ただの泥だ!」

 家康公の笑い声が、朝の田へ響きました。

         ◇

 アキラが光の箱を開くと、未来の早稲田が映りました。

 田畑の代わりに建物が並び、大勢の若者が大学で学んでいます。

「この田が学問の町になるのか」

「はい。景色が変わっても、早稲田という名に田の記憶が残ります」

 お万は学生たちを見つめました。

「学問をする者も、ご飯を食べるのでございますね」

「当たり前だよ」

「ならば、駿府に学校を造るときは立派な食堂も必要です」

 家康公が笑います。

「魚定食まで用意せよと申すのであろう」

「さすが家康公。国づくりがお分かりです」

         ◇

 一行は徳丸ヶ原と赤塚の広い低地へ進みました。

「これほど広ければ、多くの米が作れそうだ」

「しかし、大雨が続けば一面が湖になります」

 忠次は水田の向こうを見つめました。

 光の箱には、昭和の終わりごろまで残った広大な田と、その跡に建つ高島平の団地が映ります。

「田んぼが、大勢の暮らす町になったのか」

「家を建てても、低い土地であることは変わりません」

 忠次が答えました。

「昔の水の道を忘れれば、町は水に叱られます」

「土地は、人より昔のことを覚えているのだな」

         ◇

 昼、一行は農家の軒先で握り飯をいただきました。

 家康公は、手の中の一つを見つめます。

「城を築いた者の名は残る。しかし、この米を育てた者の名は、ほとんど残らぬ」

 田へ水を引く者、畦を直す者、俵を運ぶ者。

 名も残らない働きが、城と町を支えています。

「大きな町を造るなら、名の残らぬ仕事を粗末にしてはならぬ」

 お万も神妙に握り飯の匂いをかぎました。

「魚が入っていなくても、大切なご飯なのでございますね」

「お万にも分かったか」

「はい。ですが、次は魚入りを希望いたします」

「感心が握り飯一つ分しか続かぬな」

         ◇

 午後、一行は西へ向かい、未来の内藤新宿となる土地へ入りました。

 光の箱には、甲州街道を行き交う旅人と、赤い唐辛子の畑が映ります。

「内藤新宿は、家康公の時代より百年以上あとに開かれる宿場です」

 アキラの説明を聞きながら、半蔵は赤い実をかじりました。

 次の瞬間、顔が真っ赤になります。

「み、水を!」

「忍びは辛さを顔に出してはならないのでは?」

「これは作物を装った敵だ!」

 お万は首をかしげました。

「ただの唐辛子でございます」

 家康公は笑いながら水筒を差し出しました。

         ◇

 夕方、一行は高台から歩いてきた田畑を振り返りました。

 水の多い土地、乾いた土地、低い田、高い畑。

 同じ方法で治められる場所は一つもありません。

「川にも田にも、土地の声があるのだな」

「その声を聞かずに造ったものは、長く続きません」

 忠次は帳面を閉じました。

「この知恵を駿府へ持ち帰りましょう」

 家康公は、西へ延びる道を見つめました。

「次は井の頭の湧水を見て、武蔵国府の府中へ向かう。三人の先生の知恵も、駿府へ持ち帰らねばならぬ」

「次の水は飲めるのでございましょうな」

 半蔵が口元を拭います。

「唐辛子を食べなければ大丈夫でございます」

 一同の笑い声が、夕暮れの畑へ広がりました。

 城を支えるものは、石垣でも黄金でもありません。

 一粒の米、一筋の水、そして名も残らぬ人々の働き。

 その積み重ねこそが、町の本当の土台なのです。



※早稲田、徳丸ヶ原・赤塚、内藤新宿の描写には、異なる時代の歴史をつなぐ脚色があります。

第四話 完

次回 第五話「井の頭の一滴」

――大きな町を潤す流れも、始まりは小さな湧水だった。――

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