第二話、家康の決意
清水の港へ、ようやく舟が着いた夜でございました。
海はまだ、長い逃避行の息をしており、潮の匂いは、家康公の袖の奥にまで染みておりました。
堺を離れ、白浜で風を待ち、伊勢の浜に身を隠し、月の光だけを頼りに舟は走りました。
追手の影は、いつも波の向こうにあり、明日の命さえ、誰にも約束されてはいなかったのでございます。
けれども、その舟旅の途中、浜松のあたりで石川数正は静かに下船しておりました。
秀吉の懐へ、自ら飛びこむためでございました。
それは裏切りではなく、家康公を遠くから守るための、あまりにも深い忠義の道でございました。
清水の港に降り立ったとき、家康公の胸に、ふいに幼き日の匂いが戻りました。
それは、今川の家で学んだ書の香りであり、駿府の町に吹く山風であり、幼いころ数正と登り遊んだ、あの山の記憶でございました。
家康公は、人知れずその山へ登りました。
町の灯は、はるか下に小さくまたたき、安倍川の水は月を映して、銀の帯のように流れておりました。
その山頂で、家康公は長く黙っておりました。
そばに数正の姿はございませんでした。
けれども、不思議なことに、家康公のかたわらには、数正の影が立っているようでございました。
幼き日、同じ山道を踏み、同じ風を聞き、同じ駿府の町を見下ろした友の気配。
浜松で別れたはずの数正の心だけが、月明かりの中で、家康公のそばに寄り添っていたのでございます。
やがて家康公は、静かに言いました。
「わしは、もう二度と、この駿府の地を離れぬ」
それは、天下を望む者の叫びではございませんでした。
戦に勝つ者の誓いでもございませんでした。
幼き日に学び、守られ、育てられた町へ、己の残りの命を返そうとする者の、深い深い祈りでございました。
「この町の民が、朝に水を汲み、昼に働き、夕べに灯をともす。
その当たり前の暮らしを守るためなら、わしは太刀を抜かずともよい。
城を高くするより、道を直せ。
石垣を厚くするより、橋を架けよ。
戦の名を残すより、民の笑い声を残せ」
家康公は、ふと横を見ました。
そこには誰もおりません。
ただ夜風が一筋、草を揺らして通り過ぎただけでございました。
けれども家康公には、数正が微かに笑ったように思えました。
「それでよいのです、殿」
そう言っているように、月の光が静かに山道を照らしていたのでございます。
その夜、家康公は心の中で、ひとつの太刀を置きました。
それは、人を斬る太刀ではなく、己の迷いを断つ太刀でございました。
その夜から、家康公の戦は、合戦場ではなく、町のなかに始まりました。
川を治め、道を整え、舟を通し、商いを起こし、寺子屋を開き、女も子も楽しめる町をつくること。
それこそが、駿府の山で誓われた、家康公のまことの戦でございました。
そして黒猫のお万だけが、月明かりの下で、その誓いをじっと見ておりました。
その金色の瞳には、浜松へ消えた数正の影と、まだ誰も知らぬ家康時代のはじまりが、静かに映っていたのでございます。

